看守の娘

山田わと

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Echo17:はじまりの気配

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「ルネ様、おはようございます」
 いつも通りの挨拶を、いつもと同じ声で届ける。
 だが心の内には、いつもと少しだけ違う鼓動があった。

 昨日、ルネが自分から果物に手を伸ばした。口にした。
 その瞬間の驚きと喜びは、胸の奥でまだ熱を帯びている。今日も同じであるようにと、ほんの少し、祈るような気持ちで彼の名を呼んだ。

 するとルネが、わずかに動いた。

 うつむいていた顔が、ゆっくりと上がり、青い瞳がまっすぐにこちらを見た。明らかな反応に、アリセルの顔には笑顔が広がる。歩み寄り、彼の目の前にしゃがみこんだ。
「昨日は眠れましたか?」
 問いかけると、ルネは何も言わず、だが視線を逸らすこともなく、じっとアリセルを見つめていた。
 そして、わずかに首を縦に動かした。
 ルネが問いかけに初めて反応を示してくれた。声が届いた。嬉しさが、静かに体の奥に広がっていく。
 その余韻を胸に抱いたまま、アリセルはもう一歩、彼に近づきたくなり、そっと手を差し出す。

「今日も、よろしくお願いしますね」
 ルネは黙ったままアリセルの手を見つめる。
 やがて、少しだけ迷うような仕草のあと、静かに、自分の手を重ねてくる。アリセルはその手を、力をこめすぎないよう気をつけながら、そっと握り返した。ルネの手は冷たいが、その奥には確かに脈打つものがあった。

 小さな一歩。だがアリセルにとっては、大きな一歩だった。きっとそれはルネにとってもだろう。

 にっこりと彼に笑いかけてから、持ってきた包みをほどく。
 マリーゴールド、カモミール、レモンバーム。先日、市場で選んだ花瓶に挿すつもりで、庭から摘んできたのだ。草と柑橘を思わせる香りが、ふわりと広がる。

「いい香りですよ、ルネ様」
 そう言って、花束を差し出す。ルネはわずかに逡巡するように視線を彷徨わせてから、ゆっくりと小首を傾ける。そして花のほうへと身を乗り出した。彼の顔に、ごくかすかなもの――笑みと呼ぶにはあまりに淡く、けれど確かに、口元が緩んだような表情が浮かぶ。
 錯覚だろうかとアリセルが目を瞬いた時、扉の向こうから足音が近づいてきた。程なくして姿を現したのはユーグだ。

「おはよう、ルネ。アリセル」
 昨日ほどではないが、ユーグの顔にはうっすらと疲労が滲んでいる。肩越しに振り返ったアリセルだが、ぷいっと勢い良く顔を背けた。
「飲んだくれて、女性を家に連れ込むような不良は知りません!」
「約束やぶって悪かったって」
「それだけじゃないでしょ。女性を連れ込んだことに対しての弁明は?」
「いや、そこは俺、別に悪くないし」
 しれっと答えるユーグに対してアリセルは、うぎぎぎと小さく唸るような顔で彼を睨んだ。ユーグは、そんな彼女の髪をかき乱すように、くしゃくしゃっと撫でた。
「怒るなよ。お詫びに、これ買ってきたんだ」
 そう言って、ユーグは手にしていた厚手の蝋引き紙の包みをほどいた。
 中から現れたのは、宝石のような果物が贅沢に敷き詰められたタルトだった。大粒の苺は艶やかに光り、薄桃色の桃は花びらのように重なっている。熟したキウイの緑が葉のように彩られ、オレンジの薄切りには光が透けているようだった。
「……わぁ」
 タルトのあまりの華やかさと美しさに、苛立ちなど一瞬にして吹き飛んでしまった。
 アリセルは目を輝かせながら、手にしていた花をユーグに押し付ける。
「すぐに紅茶も入れて準備するから。ユーグはこれ活けて! 花瓶はこっちの棚!」
「了解」
 忙しなく指示を飛ばしてから立ち上がろうとした時、唇に、ふわりとしたものが押し当てられた。
 軽くて柔らかく、ほんのり甘い香りが漂う。
 顔を上げると、視線の先でユーグと目が合った。指先につままれていたのは、白くて丸いメレンゲだ。まるで遊ぶような手つきで、それをアリセルの唇にあてがったまま、彼は楽しげに口元を緩めていた。
 軽く笑うような瞳と、悪戯の続きを待つような表情に抗うこともできず、そのまま小さく口を開く。メレンゲが、そっと唇の隙間から舌先に触れた。
 口に含んだそれは、ふわりと軽くて、驚くほど甘い。ほろりと溶けて、やさしい香りだけを舌の上に残していく。
「……おいしいっ」
 ぱっと笑顔を咲かせるアリセルに、ユーグは満足げに目を細める。
「都ではよく見かけるけど、この辺でメレンゲなんて珍しいだろ」
 そう言いながら、ユーグは手元のもうひとつのメレンゲをつまむと、今度はルネの前にしゃがみ込む。
「ほら、ルネも食ってみるか?」
 ルネは、差し出されたメレンゲをしばらく見つめていた。
 まるで、それが何であるのか探るように、じっと動かずにいる。やがて、小さく目を伏せ、ためらうような仕草のあと、そっと口を開いた。
 素直に食べたことが、ユーグにとっても意外だったのだろう。ちらりと視線を寄越してきた彼に、アリセルは笑顔でこくり、と頷いた。

 そのまま小さな炭炉を手元に引き寄せる。

 家から持ち込んだもので、金属製の簡素なつくりながら、お茶を用意するのに重宝していた。
 新しい炭をくべて火を起こし、小鍋に汲んだ水をのせると、ほどなくして湯気がふわりと立ちのぼっていく。棚から茶葉の缶と、素焼きのポットを取り出して机の上に置く。葉を入れ、お湯を注ぐとふくよかで深みのある香りが立ちのぼった。
 一方、ユーグは押しつけられた花束を手に、素直に花瓶の前へ向かっていた。
 水の入った瓶の口に、花と香草をひとつひとつ丁寧に差し入れ、向きや高さを調整しながら、ときおり全体のバランスを確かめている。

 お茶がちょうどよく蒸らせた頃合いを見計らって、アリセルは小皿を並べ、タルトを丁寧に三等分にした。ふんだんに乗せられた果物は形を崩すことなく切り分けられ、それぞれの皿の上に収まっていく。
 湯気の立つ紅茶のカップを添えて、アリセルは皿を並べた。
 そのままルネの隣に腰を下ろし、ユーグを手招きする。三人は皿を囲むように並んだ。
「では、いただきます」
 そう言って両手をそろえると、アリセルはフォークを手に取り、タルトのひとかけを口に運んだ。サクッとした生地の感触のあとに、甘酸っぱい果実と、程よい甘さのクリームが舌の上に広がる。
「……んーっ、しあわせ……」
 自然と笑みがあふれる。つい顔が緩んでしまうのを自分でも止められない。
「本当、ウマそうに食うよなぁ」
 紅茶のカップを片手に、ユーグがどこか嬉しそうに言う。その声音には、少しだけ満足げな響きが混じっていた。
「だって美味しいんだもん」
 とろけるような笑顔のアリセルの隣で、ルネはただじっと、自分の皿に目を落としている。ユーグが身を乗り出し、彼の手にフォークを握らせた。
「ほら、食ってみろよ」
 言葉こそ軽いが、口調は優しかった。
 ルネは僅かに手をこわばらせたが、やがてゆっくりとフォークを動かし、タルトの一辺を切り取った。躊躇いながら、それを口に運ぶ。アリセルはそっと、ルネの様子を見守っていた。
「ね、美味しいでしょう?」
 小さく問いかけると、ルネは返事をしないまま、またひとくち、タルトを口に運んだ。その動きはぎこちないけれど、もう迷いはなかった。
 しばしルネを見つめていたアリセルは、ふと視線をユーグに向ける。
「そう言えば、ユーグ。二日酔いとか珍しいね、何かあったの?」
 問いかけに、ユーグはカップを置き、微かに眉をひそめた。
「ああ、ちょっと嫌な奴に会ったんだ」
「嫌な奴……?」
 小さく首を傾げるアリセルだが、ユーグはそれ以上何も言わなかった。
 よほど関わりたくない相手なのだろうと、アリセルは察する。だが人付き合いに長けたユーグが、そこまで嫌がる相手とはどんな人なのだろうか。疑問を胸の内にしまい、「そういえば」と言葉を続けた。
「私、この前、エリック・ジルベールさんに会ったよ」
「どこで?」
 その問いかけの直前、ユーグの表情がかすかに強張った気がして、アリセルは一瞬だけ戸惑う。
 だが、それもすぐに掻き消える。目元に笑みを乗せたまま、何事もなかったように視線を返す彼を見て、アリセルは自分の勘違いだと思い直した。
「市場の外れで」
「……そうか。どんな奴だった?」
「なんか、聞いていた話とは全然違っていた。猫を連れていて、優しそうな人だったよ」
 アリセルは口を閉ざし、タルトを口に運ぶ。嚥下してから「でも」と言葉をつなぐ。
「でも信用してはいけないって、お父様とお母様は言っていた。だから、たぶん…そういう人なんだと思う」
 言葉を選びながら続けるアリセルに、ユーグは何も返さない。

 だが、ふと浮かんだその痛ましげな表情が、何を意味するのか、アリセルには分からなかった。
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