看守の娘

山田わと

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Echo24:熱

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 朝の気配が、わずかに牢の空気を変えていた。

 石壁のすき間から差し込む光はまだ弱く、あたりは夜の名残に包まれている。
 塔の中は静まり返っていて、遠くからも物音ひとつ聞こえてこない。

 アリセルは、寝台の脇に座り込んだまま眠り込んでいた。
 顔は枕元に伏せられ、指先はルネの手を包みこんでいる。その手は夜のあいだ中、ずっと離れることなく握られていた。
 ふと、指にかすかな動きが伝わってくる。そっと握り返されたような感触だった。
 夢かと思いかけたが、それが現実のものだと気づき、アリセルは瞼を持ち上げた。
 意識が徐々に戻りはじめ、自分がいつのまにかそのまま眠っていたことに気づく。少し顔を上げると、ルネが静かにこちらを見ていた。

「……ルネ様……?」

 かすれた声でそう呟き、アリセルは上体を起こした。空いたほうの手をルネの額に添えると、昨夜よりも熱が引いていることが分かった。安堵の息が漏れる。
「良かった……。熱が、すこし落ち着いてきたみたいです」
 返事はなかったが、ルネの目はしっかりと開いていた。
 昨夜あれほど乱れていた呼吸も、今は静かに落ち着いている。顔にも少しだけ安らぎの色が差していた。彼の唇がかすかに動く。
「……アリセル」
 その声はまだ弱く、かすれていたが、はっきりと彼女の名を呼んだ。
「手、握っていてくれたんだね」
「はい」
 返事をすると、ルネの目がすこし潤んだように見えた。
「ずっと……、そばにいてくれた」
「はい。約束しましたから」
 その言葉に、ルネの顔にふわりと微かな笑みが浮かぶ。熱で赤らんだ頬に、やわらかな陰影が差した。彼の指がゆっくりと動き、握られていた手に、確かな力がこもる。
「……ありがとう」
 その一言は小さく、しかし胸の奥に届くほど真っ直ぐだった。
 アリセルは、言葉の代わりに微笑みを返し、もう一度その手を包むように握り返す。
 やがてルネはゆっくりと身を起こした。寝台の上で背筋を伸ばし、壁にもたれて静かに呼吸する。
「少し、身体をお拭きしましょう。……着替えも、ご用意します」
 そう告げると、アリセルはそっと手を離し、傍らに置いていた布巾と水差しを手に取った。
 桶の中に浸していた清水はまだ冷たく、布を絞ると、雫がひとつ、石の床に落ちた。
「失礼しますね」
 小さく声をかけ、彼の服の前をそっとはだけた。力をかけすぎないよう、注意しながら腕を抜かせると、無数の傷跡が刻まれた瘦せ細った身体が現れる。

 首筋から胸元へ、そして背へ。
 慎重に布巾を滑らせながら、痕のひとつひとつを見つめる。この傷跡を見るのは初めてではなかった。それでも、目にするたびに胸が痛んだ。癒えることのない過去が、皮膚の上にそのまま残されているようで、心の奥が苦しくなる。どんなに手当をしても、この痕は消えないのだと思うと、やりきれなさがこみあげてくる。

 気づけば、アリセルの指先は布巾を離れ、背に刻まれたひと際深い痕を、そっとなぞっていた。

 無意識に出た仕草だった。ただ、何かをなだめるように、慈しむように、手が自然と動いていたのだ。
 不意にルネの身体が、びくりと小さく反応した。
 アリセルは思わず手を止める。
 怯えのようには見えなかったが、その反応にはどこかはっきりしない色があった。かすかな呼吸の変化と、揺れるまつ毛。その意味をアリセルはうまく掴めないまま、静かに手を引いた。
「……ごめんなさい。……冷たかった、でしょうか」
 問いかけに、ルネは何も言わず、微かに頷いた。
 しかし、それが本心からの頷きなのか、アリセルには判断がつかなかった。冷たさに頷いたのか、それともただ、何か言葉を返さなければと応じただけなのか。どこか曖昧で、気持ちの見えない仕草だった。

 沈黙が落ちる。
 アリセルは息をひそめたまま、返ってこない感情の行方を探すように、彼の背を見つめていた。

 するとルネの肩がわずかに揺れた。次の瞬間、驚く間もなく、その身体に引き寄せられる。痩せた両腕が、アリセルを強く抱きしめてきた。
「……ルネ様?」
 額が肩に触れ、息づかいが近くで震えている。
 頼りないはずのその体が、今はひどく熱を持ち、切実に縋り付いてくる。一瞬、戸惑いを覚えたアリセルだが柔らかく微笑み、そっと両腕をまわした。
 骨ばった背に掌をあて、包み込むように、抱き返す。
「大丈夫ですよ、ルネ様。私はここにいます」
 その言葉は囁くように、彼の耳元へと落ちた。答えはなかったが、背にかかる力がわずかに変わる。苦しげだった呼吸が、ほんの少しだけ静まったように思えた。

 アリセルはそのまま、あやすようにルネの背を撫でた。逃げず、拒まず、何も求めず、ただ“ここにいる”という事実だけを伝えるように。

「……アリセル」
 かすれた声が耳元でこぼれた。押し殺すような、熱の奥から掬いあげたような声音だった。
 わずかに震え、掠れていて、それでも確かに彼女の名前を呼んでいた。
「はい」
 しばらくの沈黙の後、ルネがまた口を開いた。今度はもっと掠れて、今にも消えてしまいそうな声だった。
「どうか……」
 言い淀む。しかし、確かな意思を持った熱が、その身体から伝わってきた。アリセルは何も言わずに待った。
「どうか……、ずっと、ぼくのそばにいて……はなれないで……」
 その声はひどく弱々しく、それでいて心の奥に直接触れてくるようだった。
 幼子のような甘えと、底の見えない孤独とが混ざり合い、掠れた言葉に滲んでいた。

 アリセルは目を閉じ、震える背にもう一度、そっと掌をあてた。

 言葉ではなく、その温もりごと、そばにいるという答えを伝えるように。
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