看守の娘

山田わと

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Echo26:聖統を仰ぎて

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 牢内の扉の前で、アリセルは肩で呼吸を整えていた。

 デイジーを置いてきた勢いのまま、ずっと速足で来てしまった。
 彼女とはずいぶんと離れてしまったが、塔は遠くからでもよく見えるし、迷いようがない。放っておいても辿り着くだろうと結論づけて、アリセルは扉に手をかけた。

 柔らかな陽が満ちる中に、ルネの姿があった。

 棚には、花瓶にハーブが活けられ、そばに添えられた花冠が、穏やかな香りを漂わせている。
 彼は窓辺の椅子に腰かけ、アリセルが以前持ってきた鳥の図鑑に目を落としている。

 アリセルは一歩、足を踏み入れる。

 すると気配に気づいたのか、ルネは顔をあげて、口元を綻ばせた。
 透きとおるようなその微笑は、ほんのりと光に滲んで見えた。目元は淡く和らぎ、唇には言葉に先んじるぬくもりが宿っていた。それを見た瞬間、胸の内がふっとほどけるような気がした。
 「こんにちは」と声をかけながら、ルネのそばへと歩いていくと、彼は図鑑のページを指を差した。

「見て、アリセル」

 まるで宝物を見せるような調子で、ルネは嬉しそうに目を細める。
 アリセルは身をかがめて、差された箇所を覗きこむ。そこには、淡い赤茶の胸と灰青色の羽をもつ小鳥の絵が描かれていた。細い脚と丸い眼、どこか見覚えのある佇まい。
「ここに来る、あの小鳥。ルジュク・オーロルっていうんだって」
 ルネの声は僅かに弾んでいた。
 アリセルは微笑みながら、絵とルネの顔とを交互に見つめる。
 そう、それは確かに、いつも窓辺にやってくる小鳥だった。

 クッキーの欠片をついばみに来ては、ちょんちょんと跳ねて、時折、掌にまで乗ってくる、あの小さな訪問者。

 ルネはページに指を添えたまま、ちらりと窓のほうを見やった。
 その仕草は、まるで、あの小鳥がそこに来ているかのようだった。
「……くちばしの先が、少し白くて。前に、変わってるなって思ってたんだ。絵を見たら、たぶん同じだったから……」
 声は小さく、どこか確信を持ちきれないような調子だったが、それでも嬉しそうだった。
 アリセルは、目を瞬かせてから微笑んだ。
「そんなにちゃんと見てたんですね」
 そう言いながら改めて図鑑に目を落とす。紙の上に描かれた小鳥が、ほんの少しこちらを見上げているように感じられた。

 そのとき、階段をのぼってくる音が響いた。

 カツン、カツン――鋭く硬質な足音が、石造りの塔に冷たく染み渡る。
 乾いた響きが壁を這い、じわじわと迫ってきた。

 アリセルの耳がぴくりと反応したかと思うと、ぴゃっと小さく跳ねるように体がこわばった。
 背筋を伸ばしたまま、肩に力が入り、毛を逆立てた猫のように全身が警戒をまとった。

「……アリセル?」
 ルネが首をかしげて、彼女の名を呼んだ。
「しーっ」
 アリセルが人差し指を唇に当てて小さく囁いた、その瞬間。
「ふざけるんじゃないわよっ!」
 勢いの良い怒声と共にデイジーが現れた。
 ここに来るまでに何があったのか、彼女の帽子は傾き、羽根飾りは半分折れ曲がり、巻いていたショールは肩からずり落ちている。
 靴も草の種か何かがくっついて、見るからに散々な有様だった。
「わぁぁ、ごめんなさいっ」
 アリセルは思わずルネにぴたりと身を寄せた。
 彼を盾にするようにして、その肩の後ろから、そっと顔だけをのぞかせる。ルネは事情が飲み込めないまま、きょとんとした姿勢で固まっていた。

 そこへ、つかつかと足音を鳴らしてデイジーが迫る。

 帽子をとり、逆の手でショールを引っ張り直し、それでも怒りは収まらない。
「置いていくなんて、どんな神経してるのよあんたは! まさかとは思ったけど、ほんっっとうに! 人を置き去りにしてのこのこ先に行くなんて、どこまで躾がなってないの?」
「だって、あんな次から次にキーキー言われて、聞いてるだけで頭が痛くなるんだもん……」
 アリセルは顔を伏せ、ルネの背中に隠れながら、反論した。
「何ですって!?」
 塔の石壁がわずかに反響するほどの声に、ルネはびくりと肩をすくめ、アリセルも耳を塞ぎたくなるのを堪えて、ぎゅっと目をつむった。
 頬を紅潮させて、肩で息をするデイジーに、ルネはそっと問いかける。
「あの…大丈夫?」
 控えめながらにも、その一言はまっすぐで、どこか心に触れるような響きを帯びていた。
 アリセルが恐る恐る顔を上げると、ルネは困惑したままの面持ちで、けれど怯えもせず、ただ静かにデイジーを見ていた。
 すると、あれほど荒れ狂っていたデイジーが、ぴたりと動きを止めた。

「……まあ」

 ひとつ小さく息を吸ったかと思うと、デイジーは急に背筋を伸ばし、一歩前に出た。
 そして、スカートの裾を摘まみ、優雅な所作で膝を折る。
「これはご無礼いたしました、ルネ様。お目にかかれて光栄です」
 声の調子もまるで別人のようだった。
 つい先ほどまで怒鳴り散らしていたとは思えないほど、落ち着きと敬意に満ちていた。
 アリセルはぽかんとしたまま、その横顔を見つめていたが、ふいに視線を逸らし、誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。
「……猫かぶり」
 その言葉はごく小さな声だったはずなのに、なぜか塔の空気はそれを聞き逃してくれなかった。
 ぴくり、とデイジーの口元が引き攣った。
「……なん、ですって?」
 スカートの裾を摘んだままの姿勢で、デイジーはぐいっと首だけをアリセルに向ける。
 唇は笑っていたが、目の奥は凍りついたように光を失っていた。
「いえ、なにかしら? 小鳥の声がしたような……。気のせいよね?」
 奥歯を噛みしめたような笑顔で、デイジーは優雅に姿勢を戻す。
 アリセルは視線を逸らしたまま、何食わぬ顔を装っていた。
 そんな空気の中で、ルネがそっと立ち上がろうとした。その動きに気づいたデイジーは、すぐに声をかけた。
「どうか、そのままで」
 怒りを抑え、感情を整えたデイジーの声には、節度と礼意が滲んでいる。ルネは少し目を見開いたまま動きを止めた。その反応を見届けてから、デイジーは彼の前へ進み出る。そのまま彼女は、流れるように膝を折った。
 床に触れる直前で身体を静止させ、背筋は凛と伸ばされたまま、頭を深く垂れた。
 それは、訓練された舞踏のように無駄のない動きだった。

「わたくし、デイジー・マレと申します。以後、微力ながら御身のご健勝とご修養の道をお支えすべく、教育係の任を賜りました」

 長い睫毛を伏せ、頭を垂れたままのデイジーは、まるで忠誠そのものを象ったような姿で静止していた。
どこか緊張に満ちたその沈黙の中で、ルネはまだ、どう応じてよいのかも分からぬまま、そっと彼女を見下ろしていた。
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