看守の娘

山田わと

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Echo31:甘い罠、苦い誤解

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「……何を…しているの……?」
 背後から届いた声は、本気で戸惑っているようだった。
 塔の脇の水場で、革袋に水を注いでいたアリセルとユーグは振り返る。
 そこに立つのはデイジーだ。彼女の目にはいつもの強気さはなく、代わりに浮かぶのは狼狽だった。
「水汲み」
「見れば分かるわよっ! 訊いているのは、なんでそんな事しているのかってこと」
 アリセルの言葉にデイジーはキッと眦を吊り上げる。
 そうしてから、やや表情を和らげてユーグに目線を向けた。
「それにユーグ様まで……。ルネ様のもとへご一緒できると聞いて、わたくし、お迎えに伺ったというのに。まさか、お家にいらっしゃらないとは」
「約束してたっけ?」
 不思議そうに首を傾げたユーグは、取り繕う気配すら見せず、いつも通りの調子だった。
 デイジーはわずかに目を見開き、虚を突かれたような顔をする。
 先日まで耳にしていた口ぶりとは、まるで異なるその態度に、戸惑いを隠せなかったのだろう。
 小さく息を整えるようにして、躊躇いがちに口を開いた。
「……あの、ユーグ様」
「ん?」
「あの……失礼ですが、今のお口ぶり、先日までと少し違うように思われますわ」
 デイジーの言葉に、ユーグは肩の力を抜いたように笑った。
「丁寧に話すの、そろそろ面倒でさ。デイジーも、普段通りでいいよ」
「普段通り……と仰られても、私にとってはこれが普段通りですのよ?」
 本気で戸惑ったように目を伏せて告げたデイジーに、革袋の紐を結んでいたアリセルの手がピタリと止まる。
 そのわずかな動きにすぐさま気づいて、デイジーは勢いよく振り返った。
「なにか文句でもあるの?」
 ぴしゃり、と飛んできたデイジーの声に、アリセルはムッとした表情を見せる。
「私、何も言ってないじゃない!」
「でも思ったでしょ? いい子ぶってるとか、取り繕ってるとか。今、絶対そう思ったでしょ!」
「被害妄想じゃない、それ!? ……ちょっと思ったけどっ!」
「ほら! やっぱり思った! だから嫌なのよ、あんたって!」
 デイジーの言葉は熱を帯びて、もうすぐ何かが爆発しそうだった。
 アリセルは革袋を握ったまま、ほんの少しだけ口元を引き結び、挑むような目で身構える。

 そのとき、横からユーグの手がふわりと伸びてきて、デイジーの肩を軽く押さえた。

「落ち着けよ。デイジーは、そうやって本音で喋ってるときのほうが、ずっと可愛いけどな」
 ユーグは、まるで茶飲み話でもするみたいな調子で、さらりと言い、笑顔を向ける。
 デイジーの動きがぴたりと止まった。
 ぽかん、と口を開けたままユーグを見上げ、みるみるうちに顔を赤らめていく。
 視線を逸らし、ぷいと顔を背けた彼女は耳まで赤かった。
 アリセルは非難がましい目をユーグに向ける。
「またそうやって、誑かす」
「この程度で誑かされたんなら、俺のせいじゃないだろ」
 軽く肩を竦めたその言い方が、いかにもユーグらしかった。
 悪びれた様子はどこにもなく、むしろ楽しげにすら見える。
 アリセルはわざとらしく溜息をついて、手元の革袋を締め直した。

 その動きを見計らったように、ユーグが一歩近づいてくる。
 彼の手が袋の取っ手にかかったのとほぼ同時に、アリセルも反対側を持ち上げた。
 二人の手が袋越しに一瞬だけ重なりかけて、それからすぐ、それぞれの持ち方に落ち着く。

 ユーグが袋の大部分を肩に担ぎ、アリセルは端を支えながら、ずれないように位置を調整する。
「ちょっと、それどうするの!?」
 まだほんの少し頬を赤らめたままのデイジーが、訝し気に問いかける。
 アリセルは肩越しに振り返った。
「運ぶの」
「……運ぶって正気!? おかしいわよ、あんたはただの看守なんでしょう。看守がそんな事するなんて変よ。別の人がやればいいじゃない。それにユーグ様…いえ、ユーグだって、そんな面倒な事する必要ないじゃない!」
 デイジーの声は、どこか上ずっていた。
 口調こそ強気だったが、顔には混乱と戸惑いが色濃くにじんでいる。
 唇をきゅっと結びながらも目元は落ち着かず、言葉は整う前にこぼれ落ちていくようだった。
「別に誰が運ぶって決まってるわけじゃないだろ。いた奴が運べば早い、それだけだよ」
 ユーグの声は真正面から受け止めるでも、受け流すでもなく、ただ淡々としていて、それでいてわずかに面倒くさそうだった。

 その声音に、アリセルはふと息を整えるように瞬きをした。

 誰の役目でもなくても、面倒でも、やると決めたらやる。
 本気なのか冗談なのか分からないままでも、結局は自分の手を動かす。
 それは多分、彼の身に沁みた癖のようなものなのだろうと、なんとなくそう思った。

 螺旋階段を上りきり、牢内に辿り着くと、アリセルは静かにしゃがみ込んだ。
 持ってきた革袋の口を開き、足元に置かれた桶の縁へとそっと傾ける。

 とくとく、と水が流れ出し、底に当たる柔らかな音が石壁に静かに響いた。

 汗ばむような作業ではないけれど、身体の重心を支え続けるために、じわじわと腕が張ってくる。

 最後の一滴まで注ぎ終えたとき、桶の水面が静かにゆらいだ。

 そう言えば、とアリセルは思う。
 一番最初に、水の入った革袋を牢内に運び込んだときは、とても苦労した。
 階段を一段上るだけで足が重く、何度も息が上がった。
 翌日は全身が筋肉痛になり、熱でも出たかのように体が火照っていた。

 けれど今は、あのときほどではない。
 相変わらず袋は重く、螺旋階段を上るのは楽ではなかったが、以前ほどのつらさは感じなかった。

「もしかしたら、わたし、少し体力がついてきたのかもしれない」
「……ああ。体つき変わってきているし、そりゃ楽になるだろ」
 背後から聞こえたユーグの言葉に、アリセルは胡乱な顔で振り返る。
「今の絶対、変な意味だった……」
「深読みするからだよ」
 ユーグの言葉は、あまりにもさらりとしていて、悔しさが胸にこみ上げる。
 そんなアリセルの頭を、ユーグは子どもをあやすような要領で撫でた。

 頭に触れる掌のぬくもりが、じんわりと伝わってくる。

 何も言われないのに、言いくるめられたような気がして、抗議の言葉がうまく出てこない。
 悔しいのに、どこかくすぐったくて、目元がゆるみそうになる。
 言い返すきっかけを逃したまま、胸の奥にふわりと温かいものが広がっていき、気づけば撫でられるのを許してしまっていた。
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