正しい駄犬のしつけ方〜浮気性な放蕩夫と没落令嬢の新婚譚〜

山田わと

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40:行くべき場所

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さっきまで中央に見えていた白馬の姿は、気づけばその渦の中に飲み込まれている。馬の尾が、ちらりと視界の端をかすめたと思った時には、もうどの影がリネアなのか判別できなくなっていた。

 ギデオンのすぐ脇には、護衛の兵がひとり、馬を並べて控えていた。
 
 遠くでは、怒鳴り声が幾重にも響いていた。甲冑がぶつかり合う鈍い衝撃音や、馬の嘶き、何かが折れる鋭い音が、風に乗って断片的に届く。

 だが、ギデオンたちがいる丘の斜面は妙に静かだった。
 陽光は穏やかに差していて、先程まで冷えていた空気も、暖かさを戻しつつあった。少し首を傾ければ、遠くの森の縁や畑の線まで見渡せる。視界のどこにも、血の色はまだはっきりとは見えない。

 のどかだった。けれど、その穏やかさがかえって落ち着きを奪った。

 争う音や声も確かに聞こえるのに、抗争から一枚膜で隔てられているように感じる。ひとりだけ場違いな場所に取り残されているような、居心地の悪い静けさだった。

 疎外感、という言葉がふと浮かびかけ、即座にギデオンはそれを頭の中で叩き落とした。

(いや、そこは疎外感を気にするところじゃない。むしろ疎外された方が、ありがたい)

 自分で自分に突っ込みを入れてみても、心は少しも落ち着かない。手綱を握る掌は汗で湿り、無意識のうちに指先に力が入る。馬が不満そうに首を振り、口元の金具がわずかに鳴った。
 リネアは言った。「ギデオンはそこにいるだけでいい」と。それなら、ここにいることは間違っていない筈だ。彼女が望んだ位置に、きちんと収まって役目を果たしているだけの事だ。

 そう言い聞かせようとして、視線の先で何かが崩れるのが見えた。

 混じり合った人影の一角が、形を変えたかと思うと、ひとりの兵が前のめりに倒れ込んだのだ。そこだけ、土煙の立ち方が違う。鎧の隙間から溢れ出した血は、遠目でも分かる。陽の光を受けて、妙に鮮やかに見えた。

 ギデオンは気道が狭まるような錯覚がした。元々、彼は痛いのが極端に嫌いだった。嫌いどころではなく、ほとんど生理的な拒否に近い。ちょっとした打撲でも、指先を少し切っただけの出来事でも、誰かが笑いながら語る武勇談の負傷でも、聞くだけで腿のあたりがゾワゾワする。

 だからこそ、あの刺された兵士はどれほど痛かったのかと、つい想像してしまった。

 痛みが自分の体に移ってくるような気がした。胸を貫かれる激痛と、後から広がる熱まで思い描いてしまい、ギデオンはぞくりとして背筋を強張らせた。そこで、ふと最悪の光景が脳裏に差し込んだ。

(……もし、あれがリネアだったら)

 地面に投げ出された腕と、乱れた蜂蜜色の髪。上着にべったりと広がる赤。想像の中の彼女は、顔をこちらに向けていない。そのせいで、目を開けているのか閉じているのかも分からない。分からないことが、何より怖かった。

 息が浅くなる。胸の奥で、別の種類の痛みが広がる。

 リネアの姿は、もうどこにも見えなかった。白馬の影も、キャンディの姿も、兵たちの黒い群れの中に紛れている。ギデオンは思わず、鐙にかけた足に力を込めて背伸びをした。少しでも高い位置から見下ろそうとしたが、視界に入るのは、混戦の中で上下する人影と槍と盾ばかりだ。

(リネアはどこにいるんだ……)

 焦りは、一度形を持って広がり始めると止まらなかった。
 リネアは強い。理屈で考えれば、兵たちよりもよほど冷静に状況を読んで動けるはずだ。頭では分かっていても、胸のざわつきは収まらない。いつの間にか、口が動いていた。

「……僕も、行ったほうがいいと思うかい?」

 隣の護衛兵が、わずかに目を見開いた。すぐに表情を引き締め、前を向いたまま低く答える。

「恐れながら、ギデオン様が行かれても戦況は変わらないかと……」
「まぁ、そうだよね。僕が行ったところで、誰の役にも立たないか」

 口ではあっさりと認めてみせる。しかし、その一方で、胸の奥で何かがざり、と擦れた。

 もし自分が、もっと勇敢であれば。
 もし兄たちのような騎士の資質を少しでも受け継いでいれば。

 そうすれば今ごろ、自分もあの渦の中にいたのかもしれない。誰かに守られる側ではなく、誰かを守る側に立てていたのかもしれない。そう考えた途端、その仮定がひどく遠い絵空事に思えて、情けなさが込み上げた。

 危険な橋は渡らない。痛そうなことには近づかない。

 子どもの頃からそうやって生きてきて、今さら突然、勇敢な男になれるはずもない。それは分かっているのに、今日はその性質が、特別に重く感じられた。

 兄たちの顔が頭に浮かぶ。

 剣を手にしたときの真っ直ぐな目つきや、馬を操るときの迷いのなさ。父が彼らに向ける視線と、自分に向ける視線との差も、いやというほど見てきた。今までは、それを鼻で笑ってやることで、自尊心を保ってきた気がする。
 堅苦しい騎士道など、趣味じゃない、と。けれど今は、笑い飛ばすための距離さえ取れなかった。笑う位置に立つには、少なくとも一歩、あの渦に近づく必要がある。

 ギデオンの様子を、護衛兵はちらちらと横目で窺っていた。主人の指先が震えているのも、それでも馬を背けずに立ち続けているのも、どちらも見えている。やがて、彼は小さく息を吸った。

「……ギデオン様。……行かれますか」

 問われた瞬間、ギデオンの胸の奥で、本能とプライドが衝突した。

(行きたくない。怖い。行ったところで、邪魔になるのが関の山だ)

 しかし同時に、別の声も響く。

(それでも、ずっとここに立って見ているだけなのか。リネアがあの中にいるのに? 僕の領地の兵が倒れているのに? )

 頭の中が、うるさいほど騒がしくなる。ギデオンは喉を鳴らし、かろうじて言葉を絞り出した。

「……僕が行っても、足を引っ張るだけだと思うよ。君だって分かっているだろう」

 護衛兵は、そこでようやくギデオンのほうを振り向いた。年齢はそれほど高くないが、戦場の土を踏んできた回数だけ、目の奥に静かなものを持っている顔だった。

「足を引っ張られる分は、私がどうにかいたします」
「……ちょっと待って。今の流れなら、普通もう少し僕を持ち上げるところじゃないの?」

 本音を言えば、そこは「ギデオン様はご自身で思っているより、ずっとお強いお方です」とでも続くのではないか、と心のどこかで期待していたのだ。護衛兵は、居心地が悪そうに肩を縮めた。

「申し訳ございません……。つい、正直に申し上げました」

 その「正直」が余計だと言いたい所だったが、これ以上突っ込めば自分の器の小ささを宣言するようなものだ。ギデオンは首を左右に振った。

「行こう……」

 零れ落ちた一言は、やっと腹を括った者のそれだった。自分で自分に呆れながらも、退く道がもうないことだけは理解していた。護衛兵は驚いたように目を瞠り、すぐに真剣な面持ちで頭を下げた。
 ギデオンは手綱を握り直した。先ほどまでのような足のすくむ感覚は、不思議となかった。諦めに近い勢いで馬を歩かせる彼の背を、護衛兵はひっそりと見守っていた。

 メルローズ家の三男坊は、放蕩で、女好きで、打たれ弱くて、妙に繊細で、そしてどうしようもなく自意識が強い。

 そんな面倒で欠点だらけな彼が、いま、確かに前へ踏み出そうとしている。本人が望もうと望むまいと、彼は自分でも気づかぬ内に領主の輪郭へと足を踏み入れつつあった。
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