正しい駄犬のしつけ方〜浮気性な放蕩夫と没落令嬢の新婚譚〜

山田わと

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43:無音の決着

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 リネアは手綱を取り落とし、土の上へ崩れ落ちた。

 乾いた地面に叩きつけられ、背中と肩に鈍い衝撃が走る。けれどきついのは、衝撃ではなく、腹の傷に伝わった揺れだった。肺に入っていた空気が押し出され、喉の奥から、息とも声ともつかない音が漏れる。周囲の色が、急に薄くなっていくのが分かった。剣がぶつかり合う音も、兵たちの叫びも、ぼやけていく。

 だが、その中で一つだけ、くっきりと浮かび上がるものがあった。
 ギデオンの顔だった。彼の顔に、いつもの気取った余裕も尊大さも一切なくなっていた。恐怖と焦燥で塗りつぶされた表情は痛々しくて、そのくせ、どこか幼い。

 こんな顔をする人だっただろうか、と、リネアは場違いな感想を抱いた。

 これまで、妻として彼を守っていた。だが、その妙に庇護欲を掻き立てる顔を前にして、初めて心の底から守ってやりたいと思った。

 ふと、視界のすぐ上に、鋼の線が割り込んだ。

 ルーソン家当主の馬が、ギデオンのすぐ脇まで寄せていた。鞍の上から身をかがめ、刀身の平を、ギデオンの頬に押し付ける。

「動くなよ、お坊っちゃん」

 ギデオンの頬に赤い線が走り、血が一筋、頬から首筋へと垂れた。

「せっかくの自慢の顔だ。少しくらい傷をつけたほうが、男前になるだろう?」

 口調は愉快そうだったが、刃にこめられた圧は冗談のそれではなかった。力を抜けば、そのまま頬の肉ごと削ぎ落とすこともできる間合いだ。ギデオンは、目をきつく細めた。唇が震え、呼吸は荒い。それでも、視線だけは逸らさなかった。

「ギデオン様!」

 護衛兵が叫んだ。盾を前に突き出し、主君と当主の間に割り込もうと一歩踏み出す。その足首に、泥の中から伸びた手が絡みついた。さきほど地面に叩き落としたはずの副将が、まだ息をしていたのだ。最後の力をふり絞るようにして腕を伸ばし、護衛兵の脚を掴んで離さない。

「命までは取らない。領地を渡せ。そうすれば、お前の首は残してやる。顔も、そこそこで止めておいてやる」
「……渡さない」

 ギデオンの声はかすれていた。震えが紛れ込んでいても、その一言だけは揺れなかった。

「聞こえないな」

 当主が、わざとらしく首をかしげた。地面に倒れ込んだまま、リネアは腹の傷が開かないよう息を殺し、腰のスティレットに指を伸ばした。指先が柄に触れるまでが、やけに遠い。片腕だけを持ち上げる。そして、当主の腕をめがけて、刃を放った。

 細い銀の閃きが空を走り、当主の前腕を横にかすめた。

 皮と鎖帷子の隙間を狙った一撃は、ほんのわずかに角度がずれ、肉を浅く裂いただけだった。当主は肩越しに振り返り、リネアを見遣る。

「腹を貫かれてなお、よく動く。見上げた根性だな、メルローズの奥方」

 嘲りの言葉に対して、リネアは唇の端を少しだけ上げた。血で湿った息が漏れる。

「……その刃には、毒が塗ってあるの」

 当主の目の奥に、さっと嫌悪と警戒の色が差す。その矢先から、剣を握る指先から力が抜け、刃の先がわずかに沈んだ。手綱を握るほうの指も閉じきらず、肩口から肘にかけて動きが不自然になっていくのが見えた。

「……な、にを……」

 言葉が崩れた。上体が大きく前のめりになり、次に反り返る。馬が驚いて前脚を高く上げる。鞍の上で男の体が暴れ、均衡を失う。筋肉の収縮が意志に追いついていない。

 リネアの耳には、馬のいななきと、鉄具がぶつかる甲高い音だけが届いた。当主がどう落ちたのか、その一部始終を追うだけの視力は、もう残っていない。視界の端で、赤い布が揺れたかと思うと、輪郭ごと暗く沈んでいく。

 代わりに、別の色が目に入った。紺の旗だった。メルローズ家の旗が、次々と窪地の側面に現れる。ルーソン家の兵が、四方から押し寄せられ、混乱の色を濃くしていくのが、動きだけでも分かった。

 勝てる、と心の中で、短い言葉が形になる。口に出す余力はもうなかったが、その確信だけは、腹の傷の痛みよりも強く、はっきりとあった。

 ふと、誰かに抱き起こされる感覚があった。引き寄せられた拍子に傷が疼き、鋭い痛みが走る。その痛みと並ぶように、胸の奥へ小さな安堵が流れ込んだ。体温のあるものに支えられている確かさが、沈みかけた意識の底を静かに撫でていく。

 最後にかすかな息を吐いてから、リネアの意識は、静かに闇へと落ちていった。
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