4 / 251
第1章
慣れないぬくもり
しおりを挟むふかふかのソファで膝を抱え、窓の外を眺めているうちに、いつの間にか空は群青色に沈んでいた。 部屋のランプに火が灯され、ドアがノックされる。
「エリアス様、夕食の準備が整いました」
シュミットの声に、エリアスは慌てて立ち上がり、皺になった服を伸ばした。
案内されたダイニングルームは、それだけで一軒家が入りそうなほどの広さだった。 高い天井にはシャンデリアが輝き、長いテーブルの中央には美しい花が生けられている。 だが、食器が並べられているのは一箇所だけだった。
「旦那様からは、やはり仕事が長引きそうで戻れないと連絡がありました」
シュミットが申し訳なさそうに告げる。 エリアスは「分かった」と短く頷き、席に着いた。
(……ヴォルフ様が家にいる時は、二人で食事を摂るのだろうか)
向かいにある空席を見る。 あの巨大で威圧的な男と、自分が向かい合って食事をする光景を想像してみるが、どうにも上手く描けない。
きっと彼は不機嫌に黙り込み、自分は萎縮して喉を通らないだろう。
いないほうがありがたいはずなのに、広すぎる空間に一人きりというのは、どこか落ち着かなかった。
運ばれてきた料理は、エリアスの想像を遥かに超えていた。 黄金色に透き通ったコンソメスープ、柔らかく煮込まれた仔牛の肉、艶やかな季節の野菜。 どれもエリアスがこれまで口にしたことがないほど上質で、繊細な味付けだった。
しかし――半分も食べないうちに、手が止まってしまった。
実家では、使用人の食事の残りや、冷え切ったスープと硬いパンばかりを与えられてきたのだ。
長い間、粗末な食事に慣らされてきたエリアスの胃は、これほど栄養価の高い料理を一度に受け付けることができなかった。
「……申し訳ない。残してしまって」
エリアスがナプキンを置くと、給仕に控えていたアンナが心配そうに歩み寄ってきた。
「お口に合いませんでしたか? それとも、どこかお加減が……」
「いや、とても美味しかった。ただ、移動の疲れが出たみたいだ。食欲がなくて」
咄嗟に嘘をついた。 「普段ろくなものを食べていないので、高級な食事が喉を通りません」などと、口が裂けても言えない。
これ以上、名門貴族の息子としての品位を――既に地に落ちているとはいえ――損なうわけにはいかなかった。
「左様でございますか。無理もありません、今日は大変な一日でしたでしょうから」
アンナは深く追求せず、優しく労ってくれた。 その気遣いに、エリアスは小さく安堵の息を吐いた。
「では、お湯の準備をして参りますね」
食後、部屋に戻るとすぐにアンナがバスルームへ案内してくれた。 湯船には芳しい香りのオイルが垂らされ、真っ白なタオルが用意されている。
エリアスが服を脱ごうとすると、アンナが自然な手つきで手伝おうとした。 思わず身を引いてしまう。
「あ、いや、自分で……」
「エリアス様?」
「……すまない。ずっと一人でしていたから、慣れていなくて」
実家では、湯浴みすら満足にさせてもらえなかった。
週に数回、たらいの水で身体を拭くか、冷めきった残り湯を使うのが精一杯で、誰かに世話をされるなど生まれた時の記憶すらない。
「失礼いたしました。ですが、今日はお疲れでしょうから、どうぞ私に甘えてください。背中をお流しします」
アンナは嫌な顔一つせず、微笑んでくれた。 その笑顔に毒気を抜かれ、エリアスは強張っていた肩の力を抜いた。
湯に浸かると、芯まで冷えていた身体がじんわりと解けていくようだった。 アンナがスポンジで背中を洗ってくれる感触はくすぐったいが、とても丁寧で優しい。 緊張を表に出さないよう、エリアスは湯船の縁を見つめてじっとしていた。
「……あの、エリアス様」
背中越しに、アンナが控えめな声を出した。
「メイドの分際で、差し出がましいことを申し上げるようですが……どうか、旦那様のことを誤解なさらないでください」
「誤解?」
「はい。旦那様はあのような強面ですし、仕事一筋で口数も少ない方です。ですが、私たち使用人にはとても良くしてくださる、情の厚いお方なのです」
アンナの手が、優しく背中を撫でる。
「ハルトマン家は、近年爵位を賜ったばかりの貴族社会の新参者です。旦那様は、この家を確固たるものにし、未来へ繋ぐために、誰よりも必死に働いておられます。ですので……どうしても留守にしがちで、エリアス様にも寂しい思いをさせてしまうかもしれませんが、決してエリアス様を蔑ろにしているわけではないのです」
必死な響きだった。
彼女は、主人が初日から新妻を放置していることを気に病み、エリアスが愛想を尽かさないようフォローしているのだ。
エリアスは少しだけ表情を緩め、振り返った。
「ありがとう、アンナ。君は優しいな」
「えっ?」
「私はガッカリなどしていないよ。彼が多忙なのは知っているし、こんな優しい君がそう言うのなら、旦那様は本当に良いご主人なのだろう」
エリアスにとっては、放置されることは「蔑ろ」ではなく「平穏」を意味する。 それに、最初から愛されるなどと期待していないのだから、傷つくこともない。
「……エリアス様」
アンナは少し潤んだ瞳でエリアスを見つめ、それから嬉しそうに「はい!」と力強く頷いた。
(良い人たちだ)
湯から上がり、柔らかなナイトウェアに袖を通しながら思う。 この屋敷は温かい。 物も、お湯も、そして人も。
自分は、ここで「ハルトマン家の正当な配偶者」にはなれないかもしれない。
けれど、せめて誰の邪魔にもならないようにしよう。
アンナのような優しい人たちを困らせたり、ガッカリさせるような人間にだけはなりたくない。
「それでは、おやすみなさいませ。何かあれば、呼び鈴を鳴らしてくださいね」
アンナが下がり、エリアスは広いベッドに一人潜り込んだ。 シーツは絹のように滑らかで、身体を優しく包み込んでくれる。 あまりにも快適すぎて、逆に眠れないかもしれないと思ったが、張り詰めていた糸が切れたのか、強烈な眠気が襲ってきた。
意識が遠のく中、一つの不安だけが胸に残る。
(旦那様とは、いつ顔を合わせることになるのだろう……)
今夜は帰ってこない。 明日の朝だろうか、それとも数日後か。
その時、彼は自分を見てどんな顔をするだろう。 またあの、落胆と侮蔑の入り混じった目で見られるのだろうか。
それだけが怖かった。 エリアスは身体を丸め、逃げるように深い眠りへと落ちていった。
221
あなたにおすすめの小説
僕の、しあわせ辺境暮らし
* ゆるゆ
BL
雪のなか僕を、ひろってくれたのは、やさしい男の子でした。
ふたりの、しあわせな辺境暮らし、はじまります!
ふたりの動画をつくりました!
インスタ @yuruyu0 絵もあがります
YouTube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます
プロフのwebサイトから飛べるので、もしよかったら!
人族は一人で生きられないらしい――獣人公爵に拾われ、溺愛されて家族になりました
よっちゃん
BL
人族がほとんど存在しない世界に、
前世の記憶を持ったまま転生した少年・レオン。
獣人が支配する貴族社会。
魔力こそが価値とされ、
「弱い人族」は守られるべき存在として扱われる世界で、
レオンは常識の違いに戸惑いながらも必死に生きようとする。
そんな彼を拾ったのは、
辺境を治める獣人公爵アルト。
寡黙で冷静、しかし一度守ると決めたものは決して手放さない男だった。
溺愛され、守られ、育てられる日々。
だが、レオンはただ守られるだけの存在で終わることを選ばない。
学院での出会い。
貴族社会に潜む差別と陰謀。
そして「番」という、深く重い絆。
レオンは学び、考え、
自分にしかできない魔法理論を武器に、
少しずつ“並び立つ覚悟”を身につけていく。
獣人と人族。
価値観も、立場も、すべてが違う二人が、
それでも選び合い、家族になるまでの物語。
溺愛×成長×異世界BL。
読後に残るのは、
「ここに居場所があっていい」と思える、あたたかな幸福。
抑制剤の効かない薬師オメガは森に隠れる。最強騎士団長に見つかり、聖なるフェロモンで理性を溶かされ、国を捨てた逃避行の果てに番となる
水凪しおん
BL
「この香りを嗅いだ瞬間、俺の本能は二つに引き裂かれた」
人里離れた森で暮らす薬師のエリアルは、抑制剤が効かない特異体質のオメガ。彼から放たれるフェロモンは万病を癒やす聖なる力を持つが、同時に理性を失わせる劇薬でもあった。
ある日、流行り病の特効薬を求めて森を訪れた最強の騎士団長・ジークフリートに見つかってしまう。エリアルの香りに強烈に反応しながらも、鋼の理性で耐え抜くジークフリート。
「俺が、貴方の剣となり盾となる」
国を救うための道具として狙われるエリアルを守るため、最強の騎士は地位も名誉も投げ捨て、国を敵に回す逃避行へと旅立つ。
シリアスから始まり、最後は辺境での幸せなスローライフへ。一途な騎士と健気な薬師の、運命のBLファンタジー。
番に見つからない街で、子供を育てている
はちも
BL
目を覚ますと、腕の中には赤ん坊がいた。
異世界の青年ロアンとして目覚めた「俺」は、希少な男性オメガであり、子を産んだ母親だった。
現世の記憶は失われているが、
この子を守らなければならない、という想いだけははっきりと残っている。
街の人々に助けられ、魔石への魔力注入で生計を立てながら、
ロアンと息子カイルは、番のいない街で慎ましく暮らしていく。
だが、行方不明の番を探す噂が、静かに近づいていた。
再会は望まない。
今はただ、この子との生活を守りたい。
これは、番から逃げたオメガが、
選び直すまでの物語。
*不定期連載です。
今からレンタルアルファシステムを利用します
夜鳥すぱり
BL
大学2年の鳴水《なるみ》は、ずっと自分がオメガであることを隠して生きてきた。でも、年々つらくなる発情期にもう一人は耐えられない。恋愛対象は男性だし、男のアルファに会ってみたい。誰でも良いから、定期的に安全に話し相手をしてくれる人が欲しい。でもそんな都合のいい人いなくて、考えあぐねた結果たどり着いた、アプリ、レンタルアルファシステム。安全……だと思う、評価も星5で良いし。うん、じゃ、お問い合わせをしてみるか。なるみは、恐る恐るボタンを押すが───。
◆完結済みです。ありがとうございました。
◆表紙絵を花々緒さんが描いてくださりました。カッコいい雪夜君と、おどおど鳴水くんです。可愛すぎますね!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる