銀色の商人と贋作の妻

真大(mahiro)

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第1章

慣れないぬくもり

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ふかふかのソファで膝を抱え、窓の外を眺めているうちに、いつの間にか空は群青色に沈んでいた。 部屋のランプに火が灯され、ドアがノックされる。

「エリアス様、夕食の準備が整いました」

シュミットの声に、エリアスは慌てて立ち上がり、皺になった服を伸ばした。

案内されたダイニングルームは、それだけで一軒家が入りそうなほどの広さだった。 高い天井にはシャンデリアが輝き、長いテーブルの中央には美しい花が生けられている。 だが、食器が並べられているのは一箇所だけだった。

「旦那様からは、やはり仕事が長引きそうで戻れないと連絡がありました」

シュミットが申し訳なさそうに告げる。 エリアスは「分かった」と短く頷き、席に着いた。

(……ヴォルフ様が家にいる時は、二人で食事を摂るのだろうか)

向かいにある空席を見る。 あの巨大で威圧的な男と、自分が向かい合って食事をする光景を想像してみるが、どうにも上手く描けない。 
きっと彼は不機嫌に黙り込み、自分は萎縮して喉を通らないだろう。 
いないほうがありがたいはずなのに、広すぎる空間に一人きりというのは、どこか落ち着かなかった。

運ばれてきた料理は、エリアスの想像を遥かに超えていた。 黄金色に透き通ったコンソメスープ、柔らかく煮込まれた仔牛の肉、艶やかな季節の野菜。 どれもエリアスがこれまで口にしたことがないほど上質で、繊細な味付けだった。

しかし――半分も食べないうちに、手が止まってしまった。 
実家では、使用人の食事の残りや、冷え切ったスープと硬いパンばかりを与えられてきたのだ。 
長い間、粗末な食事に慣らされてきたエリアスの胃は、これほど栄養価の高い料理を一度に受け付けることができなかった。

「……申し訳ない。残してしまって」

エリアスがナプキンを置くと、給仕に控えていたアンナが心配そうに歩み寄ってきた。

「お口に合いませんでしたか? それとも、どこかお加減が……」 
「いや、とても美味しかった。ただ、移動の疲れが出たみたいだ。食欲がなくて」

咄嗟に嘘をついた。 「普段ろくなものを食べていないので、高級な食事が喉を通りません」などと、口が裂けても言えない。 
これ以上、名門貴族の息子としての品位を――既に地に落ちているとはいえ――損なうわけにはいかなかった。

「左様でございますか。無理もありません、今日は大変な一日でしたでしょうから」

アンナは深く追求せず、優しく労ってくれた。 その気遣いに、エリアスは小さく安堵の息を吐いた。

「では、お湯の準備をして参りますね」

食後、部屋に戻るとすぐにアンナがバスルームへ案内してくれた。 湯船には芳しい香りのオイルが垂らされ、真っ白なタオルが用意されている。

エリアスが服を脱ごうとすると、アンナが自然な手つきで手伝おうとした。 思わず身を引いてしまう。

「あ、いや、自分で……」 
「エリアス様?」 
「……すまない。ずっと一人でしていたから、慣れていなくて」

実家では、湯浴みすら満足にさせてもらえなかった。 
週に数回、たらいの水で身体を拭くか、冷めきった残り湯を使うのが精一杯で、誰かに世話をされるなど生まれた時の記憶すらない。

「失礼いたしました。ですが、今日はお疲れでしょうから、どうぞ私に甘えてください。背中をお流しします」

アンナは嫌な顔一つせず、微笑んでくれた。 その笑顔に毒気を抜かれ、エリアスは強張っていた肩の力を抜いた。

湯に浸かると、芯まで冷えていた身体がじんわりと解けていくようだった。 アンナがスポンジで背中を洗ってくれる感触はくすぐったいが、とても丁寧で優しい。 緊張を表に出さないよう、エリアスは湯船の縁を見つめてじっとしていた。

「……あの、エリアス様」

背中越しに、アンナが控えめな声を出した。

「メイドの分際で、差し出がましいことを申し上げるようですが……どうか、旦那様のことを誤解なさらないでください」
 「誤解?」 
「はい。旦那様はあのような強面ですし、仕事一筋で口数も少ない方です。ですが、私たち使用人にはとても良くしてくださる、情の厚いお方なのです」

アンナの手が、優しく背中を撫でる。

「ハルトマン家は、近年爵位を賜ったばかりの貴族社会の新参者です。旦那様は、この家を確固たるものにし、未来へ繋ぐために、誰よりも必死に働いておられます。ですので……どうしても留守にしがちで、エリアス様にも寂しい思いをさせてしまうかもしれませんが、決してエリアス様を蔑ろにしているわけではないのです」

必死な響きだった。 
彼女は、主人が初日から新妻を放置していることを気に病み、エリアスが愛想を尽かさないようフォローしているのだ。

エリアスは少しだけ表情を緩め、振り返った。

「ありがとう、アンナ。君は優しいな」
 「えっ?」 
「私はガッカリなどしていないよ。彼が多忙なのは知っているし、こんな優しい君がそう言うのなら、旦那様は本当に良いご主人なのだろう」

エリアスにとっては、放置されることは「蔑ろ」ではなく「平穏」を意味する。 それに、最初から愛されるなどと期待していないのだから、傷つくこともない。

「……エリアス様」

アンナは少し潤んだ瞳でエリアスを見つめ、それから嬉しそうに「はい!」と力強く頷いた。

(良い人たちだ)

湯から上がり、柔らかなナイトウェアに袖を通しながら思う。 この屋敷は温かい。 物も、お湯も、そして人も。

自分は、ここで「ハルトマン家の正当な配偶者」にはなれないかもしれない。 
けれど、せめて誰の邪魔にもならないようにしよう。 
アンナのような優しい人たちを困らせたり、ガッカリさせるような人間にだけはなりたくない。

「それでは、おやすみなさいませ。何かあれば、呼び鈴を鳴らしてくださいね」

アンナが下がり、エリアスは広いベッドに一人潜り込んだ。 シーツは絹のように滑らかで、身体を優しく包み込んでくれる。 あまりにも快適すぎて、逆に眠れないかもしれないと思ったが、張り詰めていた糸が切れたのか、強烈な眠気が襲ってきた。

意識が遠のく中、一つの不安だけが胸に残る。

(旦那様とは、いつ顔を合わせることになるのだろう……)

今夜は帰ってこない。 明日の朝だろうか、それとも数日後か。 
その時、彼は自分を見てどんな顔をするだろう。 またあの、落胆と侮蔑の入り混じった目で見られるのだろうか。

それだけが怖かった。 エリアスは身体を丸め、逃げるように深い眠りへと落ちていった。
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