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第1章
最善の生贄
しおりを挟む数時間後、エリアスは父に呼び出され、屋敷の広間へと連れて行かれた。
重い扉が開く。
そこに待っていたのは、一人の初老の男だった。
年齢は父と同じくらいだろうか。しかし、その身なりも、立ち居振る舞いも、父とは比べ物にならないほど洗練されており、圧倒的な「支配者」としての空気を纏っていた。
生まれながらの特権階級だけが持つ、傲慢な自信。
それが、彼が上位の貴族アルファであることを雄弁に物語っていた。
エリアスの姿をその目に映すと、男は口の端を吊り上げた。
一見、穏やかそうに見える微笑み。
だが、その瞳の奥には、嗜虐的で粘着質な光が宿っている。
男はエリアスを頭のてっぺんから爪先までじっくりと舐めるように眺め、満足そうに頷いた。
「初めまして。……噂以上の逸品だ」
男はバンガルド卿と名乗った。
エリアスは息を呑んだ。書庫で得た知識が正しければ、彼はこの国の貴族社会でも中枢に位置する、極めて地位の高い侯爵だ。
父が、ハルトマン家からの莫大な結納金を返してまで、エリアスを売ろうとした理由が分かった。
これほどの上位貴族に恩を売れるなら、金以上の価値がある。
もし万が一、あの一夜でエリアスが妊娠していたとしても、父はこの男に差し出していただろう。
(まあ、たった一度の行為でオメガが妊娠することはない。ありえない話だが)
エリアスは冷めた頭でそう分析し、父に背を押されるまま、バンガルド卿の元へ歩み寄った。
バンガルド卿は、父がそばで見ていることなど全く気に留めず、エリアスに手を伸ばした。
「……っ」
冷たい指が、エリアスの黒髪を掬い、頬を撫で、首筋を這う。
そして、無遠慮に腰へと回された。
その手つきはいやらしく、所有欲に満ちている。
エリアスの身体が微かに震えた。
恐怖と不快感、そして強烈な嫌悪感。
ヴォルフの手はあんなに温かくて心地よかったのに、この男の手に触れられるだけで、虫が這うようなおぞましさを感じる。
ヴォルフとは番ですらないのに、身体中の細胞が「他のアルファ」を拒絶して悲鳴を上げている。
馬鹿みたいだ、と自嘲しながらも、本能的な拒否反応は止められなかった。
バンガルド卿は、震えるエリアスを楽しむように背中を撫で下ろし、静かな声で囁いた。
「あの夜会で、お前を見つけられたことは幸運だった。夜の闇のようで、吸い込まれるような綺麗な髪だ……」
指先が、うなじを執拗に弄る。
「あの成金貴族の男には勿体ない。一目見てそう思ったよ。……お前の父がもしこの話を拒絶したとしても、私はあの成金を潰してでもお前を手に入れただろう。……私は今まで、手に入れられなかったものなどないのだから」
その言葉を聞いた瞬間、エリアスの中に走ったのは、恐怖ではなく安堵だった。
(……よかった)
何故こんな自分にそれほど執着するのかは理解できない。
けれど、この男は本気だ。
もし父が断っていたら、あるいはバンガルド卿が直接ヴォルフに「妻を寄越せ」と迫っていたら、どうなっていただろう。
ヴォルフは真面目で、貴族としての矜持を持っている。
たとえ形式だけの妻であっても、理不尽に奪われそうになれば、彼は地位の差を顧みず、ハルトマン家の名誉にかけて拒絶したかもしれない。
そうなれば、新興貴族のヴォルフは、どれだけ金があろうが貴族社会では新参者。この強大な権力を持つ男に潰されてしまっていただろう。
だからこそ、バンガルド卿は歯向かってくる可能性のあるヴォルフと争うのを避け、父という「抜け道」を使ったのだ。
父が金と権力に目が眩み、すんなりとエリアスを売り渡したからこそ、ヴォルフには何の損も害もなく、平和的に解決した。
(これが、全てにおいての『最善』だ)
エリアスはすとんと納得した。
エリアス一人が犠牲になれば、全てが丸く収まる。
ヴォルフには迷惑をかけず、彼の地位も財産も守られた。
そして今頃、ヨハンがあの屋敷に着いているだろう。
美しい「本物」の妻を迎えたあの家も、ヴォルフも、これから順風満帆に幸せになる。
自分以外、誰も傷つかない。
その事実に、エリアスは心の底から胸を撫で下ろした。
ヴォルフに少しでも害が及んでいたら、それこそ死んでも死にきれないところだった。
エリアスの中から、最後の抵抗の意志が消え失せた。
身体を這うバンガルド卿の手を、脱力して受け入れる。
それに満足したのか、バンガルド卿はエリアスの首筋に顔を寄せた。
スウスウと、ヒートの名残があるフェロモンの香りを深く吸い込み、そして――。
「ん……」
ざらりとした舌が、首筋をゆっくりと舐め上げた。
あまりの気持ち悪さに、絶叫しそうになる。
けれど、エリアスは奥歯を噛み締めて耐えた。
そして、ゆっくりと顔を上げ、バンガルド卿に向かって微笑んでみせた。
「……お気に召していただいて、光栄です。旦那様」
エリアスが何一つ抵抗せず、従順な人形になること。
それだけが、愛するヴォルフの平穏な未来と、周りにとっての「最善」の状態を守ることに繋がる。
そう、理解したから。
エリアスの瞳から光が消え、その顔には聖女のように美しく、そして哀しい仮面が張り付いた。
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