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第1章
生きる屍の化粧
しおりを挟む次に目を覚ました時、窓の外は既に明るくなっていた。
数日間続いた嵐のようなヒートは、予想通り潮が引くように治まっていた。
後に残っているのは、重い風邪を引いた後のような気怠さと、芯に残る微熱だけだ。
ぼんやりと天井を見上げていると、ガチャリと鍵が開く音がして、無愛想な使用人が一人入ってきた。
「エリアス様、起きておいでですか。旦那様より、結納の支度をするようにと申し付けられております。お急ぎください」
「手伝う」という言葉とは裏腹に、その態度は厄介な荷物を早く出荷したいという焦りに満ちていた。
ヒートの熱と汗でぐちゃぐちゃになった衣服を剥ぎ取られ、用意されたたらいのぬるい湯に浸けられる。
スポンジで身体を擦られる感触は乱暴で、ただ汚れを落とすだけの作業だ。
(……アンナは、優しかったな)
ふと、温かい記憶が蘇る。
良い香りのするオイル、慈しむような手つき、楽しそうな会話。
あの幸せなバスタイムを思い出し、また視界が滲んだ。
けれど、もういいのだ。
アンナも、これからは新しく来る美しい主人――ヨハンに仕えることができる。
彼女は優秀で優しいメイドだ。自分のような陰気な男よりも、華やかなヨハンの方が仕え甲斐があるだろう。
アンナがヨハンを飾り立て、さらに美しく仕立て上げる光景を想像する。
それはとても美しい絵画のようで、エリアスは胸の痛みをその想像で無理やり塗りつぶした。
ヨハンが嫁げば、ヴォルフが陰で「貴族社会での半人前」と揶揄されることもなくなる。
名門の華を手に入れた彼は、自信を持ってその力を発揮し、さらに輝いていくだろう。
そんな輝かしい未来を想像している間に、流れ作業のように身支度が整えられていった。
支度が終わった頃、父が部屋に入ってきた。
満足そうな笑みを浮かべ、エリアスを見下ろす。
「ちょうど今、ヨハンと母親があの男の屋敷へ向かったところだ」
父の言葉に、エリアスは「そうですか」と小さく頷いた。
入れ違いだ。これで本当にもう、ヴォルフの屋敷に戻る道は断たれた。
「お前の迎えも、もうすぐ来るぞ。先方は随分とお前を気に入っているようだ」
父は愉快そうに喉を鳴らした。
「あの男に感謝しなければいけないな。夜会であれだけお前を着飾り、磨き上げてくれたおかげで、もっと金払い良い貴族の目に留まったのだから」
「……っ」
エリアスは息を呑んだ。
あの夜会。ヴォルフが「私のものだ」と言ってブローチを贈ってくれた、あの日。
ヴォルフがエリアスのために選び、美しくしてくれたあの行為が、結果としてエリアスを別の男に売るための品評会になってしまっていたなんて。
あまりにも残酷な皮肉に、エリアスは膝が震えた。
俯くエリアスの顎を、父の手がぐいと持ち上げた。
品定めするような視線が、エリアスの顔を舐める。
「ふむ……この家にいた時よりは、本当にマシになったな。ヨハンには劣るが、あの方も満足するはずだ」
父はニヤリと笑い、指に力を込めた。
「愛されるように、尽くせよ」
これからエリアスがどんな目に遭うか、どんな扱いを受けるかを知りながら。
よくもそんな言葉が吐けるものだ。
父にとって子供は、愛する対象ではなく、愛させて金を搾り取る道具でしかないのだと、改めて思い知らされる。
「おい、ヒートの疲れがまだ顔に出ているぞ。化粧でなんとかしろ。商品に傷があると思われたら敵わん」
父はそばにいた使用人に命じると、興味を失ったように部屋を出て行った。
椅子に座らされ、使用人によって白粉が叩かれる。
目の下の隈が隠され、蒼白な頬に紅が差される。
鏡の中に映るのは、綺麗に飾り立てられた、けれど中身の空っぽな人形だった。
「……死化粧みたいだ」
エリアスは鏡の中の自分に向かって、自嘲気味に微笑んだ。
まさに、これからのことを思えば相応しい言葉だ。
あの屋敷を出た瞬間から、エリアス・フォン・ハルトマン……いや、もうハルトマンの妻とは言えないか。
ただのオメガのエリアス。
人としての尊厳は終わる。
これから始まるのは、ただ息をして、オメガとしての機能だけを生かされる、生ける屍としての日々。
地獄への片道切符を持った馬車が、もうすぐやってくる。
エリアスは感情の消えた瞳で、ただ呆然とその時を待った。
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