銀色の商人と贋作の妻

真大(mahiro)

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第1章

正しい未来

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次に意識が浮上したのは、翌日の朝だった。
窓の隙間から差し込む光が、埃の舞う部屋を白々しく照らしている。

身体は酷いことになっていた。
シーツがぐっしょりと濡れるほどの寝汗をかき、熱は気絶する前よりもさらに上がっている。全身の節々が軋み、内臓が焼け付くようだ。

ふと見ると、ベッドの脇の古びたサイドテーブルに、水差しと硬そうなパンが置かれていた。
意識を失っている間に、使用人が置いていったのだろう。
これから高値で売る商品の管理だ。死なれては困るということか。
だが、高熱と情欲に喘ぐエリアスの身体を拭くことも、薬を置くこともなく、ただ餌を与えるような扱い。
その冷徹さが、今の自分の価値を何よりも雄弁に物語っていた。

「……ぁ……」

震える手を伸ばし、水差しを掴む。
うまく力が入らず、陶器の縁がカチカチと歯に当たった。
半分以上を胸元に零しながら、なんとか水を喉に流し込む。
ぬるい水が、焼けた食道を通り抜けていく。

けれど、渇きは癒えない。
この喉の渇きも、魂の飢えも、一生満たされることはないのだ。
自分を満たせる唯一の泉――彼に会うことは、もう二度とないのだから。

(……不思議だ)

そう思っても、昨日あんなに流れた涙は、もう出なかった。
エリアスは虚ろな目で、未だ震えが止まらない自分の手を見つめた。
身体はおかしいくらいに疼き、マグマのように熱いのに、心だけは氷海に沈んだように冷たく、静まり返っている。

それから数時間後。
重い足音が近づき、鍵が開く音がした。
入ってきたのは父だった。
父は上機嫌だった。

部屋に充満する濃厚なオメガのフェロモンと、荒い息をついてベッドに横たわるエリアスの惨状を見ても、眉一つ動かさない。
心配の言葉などあるはずもなく、ただ一方的に、事務連絡のように告げた。

「お前がこの部屋で寝ている間に、ヨハンの支度が整ったぞ」

父の声が、熱に浮かされた頭にガンガンと響く。

「あの男は今、商談で遠方へ行っていて留守らしいな。屋敷の者に便りを送らせたから、もうそろそろ返事が来るだろう。まあ、あの男からの返事は決まっているようなものだ。『本物』が手に入るのだからな」

父は愉快そうに笑った。

「だから、返事を待つまでもなく、ヨハンはあの屋敷へ連れて行くことにした。男が帰ってきた時には、美しい妻が出迎えるという寸法だ」

そして、エリアスを見下ろし、冷酷に言い放つ。

「お前の結納の日も決まったぞ。その、卑しいオメガのヒートは明日には終わるだろう。それが終わったらすぐに身支度をしろ。先方は待ちきれないそうだ」

薬を与えるそぶりもなく、用件だけを伝えて父は去っていった。

再び鍵が閉まる音が、この世の終わりの鐘のように聞こえた。
エリアスは、もう何も言わなかった。
ただ荒い息を吐き、天井を見つめた。

この辛い、地獄のようなヒートが終われば、この苦しみからは解放される。
けれど、それは救いではない。
あんなにも「早く過ぎ去れ」と願っていたこの苦しみが終わった瞬間、さらなる地獄――見知らぬ男への身売り――が始まるのだ。

「……っ」

その事実に気づいた時、枯れたと思っていた涙が、また一筋だけ零れ落ちた。
もう、ヴォルフの名前を呼んで助けを求めることはしない。
ただ、決められた未来へ向かうだけだ。

元々、あの間違いの縁談さえなければ、こうなる運命だったのだ。
それを覚悟して、今まで息を潜めて生きてきたはずなのに。
少しの間でも、あんなに甘やかな幸せを知ってしまったから、こんなにも辛い。

(……でも)

知ってしまったからこそ、これから地獄が待っているとしても。
ヴォルフが与えてくれた優しさ、ぬくもり、愛されていると錯覚させてくれた時間を抱きしめて、息絶えるまで生きよう。
そう静かに思った。

身体は本能に支配され、暴れ出したいほど辛いのに、心は奇妙なほど静かに凪いでいた。

(ヴォルフは、予定ではそろそろ帰ってくるはずだ)

彼が屋敷の扉を開けた時、そこにいるのは陰気な自分ではない。
光り輝くヨハンが、新しい、そして「正しい」妻として彼を出迎えるのだ。

(……よかった)

エリアスは心からそう思った。
社交界でも、彼は「妻の力を借りたい」と言っていた。
こんな自分にさえ、「助かった」とお礼を言ってくれたくらいだ。
優秀で愛らしいヨハンなら、もっと上手くやれる。

父が言っていた通りだ。ヨハンならもっと愛されて、もっと完璧に、妻としてヴォルフを支え、幸せにしてくれるはずだ。
ヨハンのことは、良い弟だと思っている。
彼もまた、家の道具として生きざるを得なかった被害者だ。

彼がヴォルフのような素晴らしい男性に愛され、幸せになれるなら、兄として喜ぶべきことだ。
二人が並んで笑い合う、これからの幸せな未来。
それをこの目で見られないのは悲しいけれど、薄れゆく意識の中でも、その光景は容易に描くことができた。
あまりにも完璧で、眩しい未来図。
エリアスはゆっくりと目を閉じた。

意識の糸が、ぷつりと切れそうだ。
次に目覚める時、きっとこの狂ったような熱は引いているだろう。
そうしたら、地獄へ送られる。

自分に待っている暗い未来もまた、明確に描くことができた。

相反する二つの未来を思い描きながら、エリアスは静かに涙を流し、深い闇へと沈んでいった。
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