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第1章
灼熱の孤独
しおりを挟む次に瞼を持ち上げた時、視界に広がっていたのは、見飽きたはずの薄汚れた天井だった。
あちこちに雨染みが浮き、蜘蛛の巣が張った灰色の天井。
ハルトマン邸の、あの高貴で温かみのある寝室とは雲泥の差だ。
「……っ、ぐ……」
起き上がろうとしたが、身体が鉛のように重く、胸が押し潰されるように苦しい。
あの馬車で嗅がされた薬の影響だろうか。
頭がガンガンと痛み、視界が回る。
エリアスは荒い息を吐きながら、自分が置かれた状況を理解した。
戻ってきてしまったのだ。
この、冷たくて狭い、実家の小部屋へ。
(これから、地獄が始まる)
ヴォルフに嫁ぐ前もここは地獄だったが、少なくとも「知らなかった」。
けれど今は、あの天国のような日々を知ってしまった。
ヴォルフは、形式だけの妻である自分に、これ以上ないものを与えてくれた。
美味しい食事、温かい風呂、美しい衣服。そして、優しさとぬくもり。
結局、身体を繋げたのは一度きりだったけれど、あの夜の記憶は、本当にエリアスの一生の宝物になった。
(忘れたくない……)
彼の匂いも、触れ方も、火傷しそうな熱も。
与えられた快感も、耳元で囁かれた甘い声も。
何一つ、取りこぼしたくない。
だが、これからエリアスを待っているのは、別の男に売られるという苦痛だけの未来だ。
その地獄の中で、いつまで彼を覚えていられるだろうか。
もしかしたら、オメガとしての機能だけを求められ、薬漬けにされて廃人のようになるかもしれない。
そうなれば思考さえ奪われ、ただ子を産むだけの動物のように扱われる可能性だってある。
人間として、妻として扱ってくれたのは――形だけだったとはいえ、ヴォルフだけだ。
「う、ぅ……」
涙が溢れてきて、止まらなくなった。
泣くまいと思っても、身体の奥から競り上がってくる苦しさが異常だった。
息苦しい。熱い。
これは、薬のせいだけじゃない。
(……ヒートだ)
最悪のタイミングで、恐れていた波がやってきたのだ。
抑制剤はない。何も持たずに連れ去られ、この部屋には何一つ残されていない。
まずい、と思った。
エリアスは這うようにしてドアへ向かい、ノブを回した。
ガチャン、と無機質な音がするだけ。外から鍵がかけられている。
「開けて……っ、誰か! 薬を……!」
懸命にドアを叩くが、返ってくるのは静寂だけだ。
この屋敷の使用人たちは、この北側の隅の部屋には近づかない。
食事を運んでくる者はいるかもしれないが、エリアスの懇願を聞き入れることはないだろう。
父の命令通り、貴族に売られるその日まで、ここに放置される。
それまで、一錠の薬もなく、一人でこのヒートに耐えろというのか。
それは、想像を絶する地獄だった。
「はぁ、はぁ、っ……!」
ドアを叩く手が赤く腫れ上がり、やがて力が入らなくなってずるずるとその場に座り込んだ。
床の冷たさが心地よく感じるほど、身体が芯から発熱している。
エリアスは熱い身体を抱え、這うようにしてベッドまで戻った。
煎餅のように薄い布団にくるまり、ぎゅっと目を瞑る。
誰かが来るまで、このまま意識を手放してやり過ごすしかない。
そう思ったが、薬のないヒートの症状は、容赦なくエリアスの身を裂くように襲いかかった。
骨の髄が溶けるような感覚。
子宮が疼き、本能がアルファを求めて悲鳴を上げる。
苦しい。助けて。
(どうして……どうして今、私は一人なんだ)
混濁する意識の中で、理不尽な問いが浮かぶ。
どうして、彼はそばにいてくれないの。
『ヒートは、夫として一緒に過ごしたい』って、言ってくれたのに。
「うぅ……っ、ぅっ……」
ボロボロと涙がこぼれ落ち、枕を濡らす。
意味が分からない思考が止まらない。
あれだけ、ヒートが来たら彼を拒むと、固く決めていたはずなのに。
いざその時が来て、こんなにも苦しいと、心は彼を求めて泣き叫んでいる。
「……ヴォルフ……っ」
声に出してみると、身体がおかしいくらいにビクリと跳ねた。
ただのアルファではない。
明確に、ヴォルフ・ハルトマンという個体を求めていた。
彼の大きな手、包み込むようなフェロモン、優しいキス。
それ以外は何もいらない。
熱に浮かされて、正常な意識が薄れていく。
それでもエリアスは懸命に、自分の身体を抱きしめて丸くなり、嵐に耐えた。
「ヴォルフ……ヴォルフ……」
名前を呼ぶたびに、胸が張り裂けそうで涙が出る。
もう二度と会えない。
彼は戻ってくる金と、新しく送られてくるヨハンを見て、納得するだろう。
(……お似合いだ)
脳裏に、ヴォルフの隣にヨハンが並んでいる姿が浮かぶ。
それはもう想像ではなく、確定した「未来」だ。
光り輝く二人の姿。
誰もが祝福する、完璧な夫婦。
「幸せに……なって……」
激痛と灼熱の狭間で、エリアスは震える唇で呟いた。
これからのヴォルフの幸せだけを願おう。
そうすれば、この苦しみも報われる気がした。
けれど。
(……少しだけでも……)
その輝かしい未来の片隅で、ほんの一瞬でもいい。
自分のことを思い出す瞬間があればいい。
「あんな妻もいたな」と、あの湖の景色と共に思い出してくれれば。
ヒートの熱に浮かされて、最期に少しだけ我儘なことを願った。
限界を超えた身体が痙攣し、視界がブラックアウトする。
エリアスはあまりの苦しみに、泥の底へ沈むように気絶した。
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