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第1章
身代わりの花嫁
しおりを挟む「ここでは話せない大事な話がある。このまま馬車に乗りなさい」
父は有無を言わせぬ口調で告げ、エリアスの腕を掴んで強引に出口へと促した。
玄関ホールにはアンナやシュミットが控えており、心配そうにこちらを窺っている。
彼らは主人の義父である公爵に対し、明確な敵意を示すこともできず、戸惑っているようだった。
「……分かりました」
エリアスは抵抗しなかった。
ここで大声を上げて拒めば、父は激昂し、エリアスを罵倒するだろう。
そうすれば、自分が実家でどんな扱いを受けてきた惨めな人間か、使用人たちに知れ渡ってしまう。
築き上げてきた「ハルトマン家の妻」としての体裁が崩れるのが怖かった。
大人しく、なるべく波風を立てずに従おう。そう思って、父の背中を追った。
ハルトマン邸の門前に停められた、古びた紋章入りの馬車。
エリアスは乗り込みながら、父の目的を冷静に分析していた。
(きっと、金が欲しいのだ)
ヴォルフが贈ってくれた宝石や高価な調度品を見て、欲が出たに違いない。
エリアスが現金を持っていないことは知っているはずだ。
だから、部屋を舐めるように見ていたあの視線は、換金できそうな物を探していたのだろう。
「夫からの贈り物を寄越せ」と。
(……それなら、渡そう)
ヴォルフには申し訳ないが、表立って金を無心されている姿を見られるよりはマシだ。
アンナたちにバレないように、少しずつ部屋から持ち出して渡せばいい。
それで父が満足して帰るなら、安いものだ。
しかし――。
エリアスが座席に座るや否や、御者が鞭を振るう音が響き、馬車が動き出した。
しかも、ゆっくりとではなく、急ぐように速度を上げていく。
「お父様?話をするだけではないのですか?なぜ馬車を出すのです」
不審に思って尋ねると、向かいに座った父は、冷酷な笑みを浮かべて言い放った。
「決まっているだろう。このまま、お前は家に帰るんだ」
「……家に帰る?何故ですか」
父の言葉の意味が理解できず、エリアスは目を見開いた。
もう縁付いた身だ。父自身が「二度と戻るな」と言ったはずなのに。
「お前が先日出席した夜会でな、お前を見初めた貴族の方がいるんだよ」
父は愉悦に浸るように語り出した。
「その方は、お前にいたく執着されていてな。あんな成金よりももっと金を出すから、お前をあの男と離縁させて、自分の元へ嫁がせるようにと申し入れてきたのだ」
「――ッ」
エリアスの思考が凍りついた。
売られる。また、売られるのだ。
しかも今度は、一度嫁いだ先から無理やり引き剥がされて。
「そ、そんな……嫌です!降ろしてください!」
震える声で叫び、ドアノブに手をかける。
だが、馬車はすでに全速力で走っており、飛び降りればただでは済まない。
それでも構わないとドアを開けようとした瞬間、父が身を乗り出してきた。
「ぐっ……!?」
強い力で押さえ込まれ、口元に白い布を押し当てられる。
ツンとした薬品の刺激臭が鼻を突き、瞬く間に視界が揺らぎ始めた。
(……薬、だ……)
「暴れるな。商品に傷がついたらたまらないからな。大人しく帰るんだよ」
父の声が遠く、水の中にいるように響く。
手足の力が抜け、抵抗できずに崩れ落ちるエリアスを見下ろし、父は満足げに続けた。
「心配するな。あの男に貰った結納金は送り返してやる。今度の相手からは、それ以上の大金が入るからな」
「う……あ……」
「金さえ戻れば、商人のあの男も文句はないだろう。少しの期間いただけの、形式上の妻のことなどすぐに忘れるさ」
薄れゆく意識の中で、父の言葉が残酷に突き刺さる。
そして、トドメとばかりに、父はとんでもない計画を口にした。
「それに、あの家は思った以上に金持ちだったようだからな……私も気が変わった。冴えないお前の代わりに、ヨハンを妻として送ることに決めた」
ヨハンを。
あの美しく、愛らしい弟を。
「あの子なら、お前の比じゃないくらい愛されて、うまくやるだろう。そして我が家にもさらなる大金を運んでくれるはずだ。ハルトマンにとっても、最初から欲しかった『当たりの嫁』が手に入るのだ。誰も損はしない」
(ああ……そうか)
朦朧とする頭で、エリアスはその言葉をすとんと受け入れた。
あまりにも理に適っている。
ヴォルフは最初、ヨハンだと思って縁談を申し込んだ。やはり、それはエリアスの想像通りだったのだ。
父はそれを分かった上でエリアスを嫁がせた。
その結果、間違いで来た自分にも優しくしてくれたが、本物が手に入るなら、それに越したことはない。
金も返ってきて、さらに望んでいた美しいオメガが妻になるのだ。
彼が自分を追う理由は、何一つない。
エリアスの瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
ヴォルフは、追ってこない。
形式だけの妻よりも、元々見初めていた正しい相手が嫁いでくるのだから。
(……よかった)
彼を解放できる。
こんな卑怯な形ではなく、もっと綺麗に身を引きたかったけれど。
それでも、彼が理想の相手と結ばれるなら。
「……ヴォル、フ……」
貴方が幸せになる姿を、どれだけ苦しくても、遠くからでも見たかった。
でも、それすらも叶わない。
自分はこれから、金で買われた所有物として、どこかの恐ろしい貴族の元へ売られていくのだから。
愛しています。
さようなら。
心の中で最期の別れを告げ、エリアスは深い闇の中へと意識を手放した。
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