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第1章
招かれざる客
しおりを挟むその日から、身体の奥が燻るような微熱を感じてはいたが、決定的なヒートの波はまだ訪れていなかった。
嵐の前の静けさのような、じりじりとした日々が過ぎていく。
ヴォルフは相変わらず多忙を極めていたが、それでも必ず夕食の時間には戻り、夜は寝室へ呼んでくれた。
といっても、あれ以来深い行為には及んでいない。
ソファに座って他愛のない話をしたり、髪を撫でたり、軽くキスをするだけの穏やかな時間だ。
「……本当は、今すぐ君に触れたいが」
ヴォルフの手が、エリアスの腰を熱っぽく撫でる。
「ヒートが近いからな。万全の状態で、君を愛したい」
その言葉には、これから来る発情期への期待と、エリアスへの執着が滲んでいた。
エリアスは胸が締め付けられる思いで、曖昧に微笑んで誤魔化すしかなかった。
『ヒートが来たら、貴方を拒みます』とは、とても言えなかった。
ヴォルフは、エリアスの反応が鈍くても、言葉数が少なくても、決して急かしたり問い詰めたりはしなかった。
ただ優しく、寄り添うようにそばにいてくれる。
その温かさに触れるたび、エリアスの中でヴォルフへの想いがどうしようもなく育っていった。
(……好きだ)
育ててはいけない花ほど、根を深く張る。
けれど、この想いには何の意味もない。
ヴォルフから「もういい」と別れを告げられる前に、彼をこの「夫としての責務」から解放してあげなければならないのだから。
もし彼を解放したら、きっとこの屋敷には、ヴォルフが本当に愛する美しいオメガが迎え入れられるだろう。
その時、エリアスの居場所はどこにあるのだろうか。
実家には戻りたくない。
形式だけの妻としてでいい。屋敷の隅の、小さな部屋でもいいから与えてもらえないだろうか。
ただ遠くから、彼が幸せになる姿を見守っていたい。
そんな未練がましく、浅ましい願いばかりが頭をもたげる。
そんなある日、ヴォルフが数日間家を空けることになった。
遠方での重要な商談が入ったためだ。
「すまない。ヒートが近いというのに、そばにいてやれなくて」
出発の朝、ヴォルフはエリアスの肩を強く抱きしめた。
「必ず、予兆があればすぐに便りを寄越すように。仕事を切り上げてでも飛んで帰ってくるから」
「……はい。お気をつけて、ヴォルフ」
名残惜しそうに何度も振り返るヴォルフを見送りながら、エリアスは心の中で、別のことを考えていた。
(もし、彼がいない間にヒートが来てくれたら……)
そうすれば、ヴォルフを直接拒まずに済むかもしれない。
「間に合わなかった」ことにして、一人で薬でやり過ごせば、彼を傷つけずにすむ。
そして、拒絶するという決定的な行動を先送りにできれば、次のヒートまでは、まだ彼の妻としていられるのではないか。
そんな卑怯な計算をしてしまう自分に嫌気が差しながら、エリアスはアンナを呼んだ。
「アンナ。念のため、抑制剤を用意しておいてくれないか」
「抑制剤、ですか?でも、今回は旦那様がいらっしゃる予定ですし……」
「ヴォルフの商談が長引くかもしれないだろう?もし戻れなかった時のために、万が一に備えておきたいんだ」
もっともらしい嘘をつくと、アンナは少し考えてからポンと手を打った。
「確かに、万が一ということもございますものね。分かりました、すぐに一番身体に負担の少ないものをご用意いたします」
「ありがとう」
アンナは納得してくれた。
エリアスが望んでいる「万が一」が、ヴォルフの帰宅が間に合わないことだとは夢にも思わないだろう。
ヴォルフのために、良い夫婦でいなければならない。
愛されている妻を演じ続けなければならない。
その仮面の下で、エリアスはただひたすらに、ヴォルフのいない間に嵐が過ぎ去ることを祈っていた。
ヴォルフが発ってから二日目の午後。
屋敷は静寂に包まれていた。
エリアスは自室で、読みかけの本を手に窓辺に座っていた。
身体の火照りは強くなっているが、まだ薬を飲むほどではない。
その時、廊下が慌ただしくなった。
不審に思って顔を上げると、ドアがノックされ、執事のシュミットが入ってきた。
その表情は、いつになく硬い。
「エリアス様。お客様がお見えです」
「客?ヴォルフは不在だと言ってくれ」
「それが……エリアス様に会いに来た、と仰っておりまして」
シュミットが言い淀む。
嫌な予感が背筋を走った。
この屋敷に、自分宛の客など来るはずがない。
「……どなただ?」
問いかけると同時に、シュミットの後ろから、聞き覚えのある、そして二度と聞きたくなかった足音が近づいてきた。
制止を振り切って、その人物が部屋へと入ってくる。
「やあ、エリアス。いい暮らしをしているようだな」
エリアスの血の気が一気に引いた。
そこに立っていたのは、実家の父――ベルク公爵だった。
「お、父様……?」
「なんだ、幽霊でも見るような顔をして。久しぶりに父親に会えたのだ、もっと嬉しそうな顔をしたらどうだ」
父は部屋の中を値踏みするように見回し、エリアスの着ている上質な服を見て、下卑た笑みを浮かべた。
「あの成り上がり者が、随分とお前を甘やかしているようじゃないか。これなら、話が早そうだ」
かつてエリアスを縛り付け、自尊心を削り取ってきた元凶。
ヴォルフという光に守られて忘れかけていた「過去の闇」が、土足で踏み込んできた瞬間だった。
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