銀色の商人と贋作の妻

真大(mahiro)

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第1章

怒りと安堵

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外から施錠され、密室となった馬車の中で、エリアスは膝を抱えて震えていた。
外の怒号と争うような音は、永遠のように長く感じられたが、やがて唐突に静まり返った。
不気味な静寂が訪れる。

(……どうなったんだ?)

ヴォルフの声が聞こえた気がした。けれど、それは幻聴だったのかもしれない。
彼が勝ったのか、それとも追い返されたのか。
心臓が破裂しそうなほど早鐘を打つ中、ガチャガチャと乱暴に鍵を回す音が響いた。

バンッ!

扉が荒々しく開け放たれる。
そこに立っていたのは、バンガルド卿だった。
先ほどまでの余裕と嗜虐的な笑みは消え失せ、顔を真っ赤にし、血管が浮き出るほどの怒りに満ちた形相をしている。

「……来いッ!」
「ひっ!?」

バンガルド卿は馬車の中に手を突っ込み、エリアスの腕を力任せに掴んだ。
そのまま、物品でも扱うように引き摺り出そうとする。
エリアスは恐怖で反射的に身体を仰け反らせて拒んだが、体格の良いアルファの腕力に、弱りきったオメガが敵うはずもない。

「いや、離して……!」
「黙っていろ!」

身体が前のめりに引っ張られる。
どういうことだ? ヴォルフはどうした? 負けてしまったのか?
絶望が脳裏をよぎった、その時だった。

「――っ!?」

目の前にいたバンガルド卿の身体が、不自然に後ろへと吹っ飛んだ。
いや、何者かに強烈な力で引き剥がされたのだ。

「うわっ!」

拘束が解け、反動でエリアスは座席に倒れ込んだ。
何が起きたのか理解できず、弾かれたように顔を上げる。
入れ替わりに、馬車の入り口に大きな影が差した。

「……エリアス」

そこにいたのは、ヴォルフだった。
肩で息をし、全身から周囲を焼き尽くすような、凄まじい怒りのフェロモンを立ち昇らせている。
その瞳は、獲物を八つ裂きにする獣のように鋭く光っていた。

けれど、エリアスと目が合った瞬間。
まるで魔法が解けたように、その場の空気が一変した。
フッ、と殺気が霧散する。

エリアスにだけは分かった。
空気を支配していた攻撃的な匂いが、瞬時に凪いだ森のような、深く甘い香りへと変わったのだ。
ヴォルフの瞳から険しさが消え、代わりに泣き出しそうなほどの、深い深い安堵の色が浮かぶ。

「……無事か」

ヴォルフは馬車の中へ手を差し伸べた。
怯えて身を震わせていたエリアスの手を、壊れ物を扱うようにそっと包み込む。

「さあ。もう大丈夫だ」

呆然とするエリアスには、抵抗する力など残っていなかった。
ただ導かれるままに、ヴォルフの手を支えにして馬車を降りる。
地面に足がつくと、そこには信じられない光景があった。

「ぐ、う……」

あの上位貴族であるバンガルド卿が、土の地面に尻餅をつき、無様に座り込んでいたのだ。
先ほど、乱暴にエリアスを引きずり出そうとしたところを、ヴォルフによって物理的に引き摺り下ろされたのだろう。

泥にまみれた高級な服。
バンガルド卿は屈辱と怒りに顔を歪めていたが、ヴォルフを見上げるその目には、隠しきれない「恐怖」が浮かんでいた。
外で具体的に何があったのかは分からない。

殴り合いになったのか、それともヴォルフが放つ圧倒的な「格」の違いを見せつけられたのか。
確かなのは、爵位では上であるはずのバンガルド卿が、今はただの敗北者としてそこにいるという事実だけだった。
彼にはもう、先ほどまでの威厳も風格も欠片も残っていない。

「……失礼する」

バンガルド卿は、ヴォルフから視線を逸らすように短く吐き捨てると、逃げるように立ち上がり、エリアスを乗せるはずだった馬車に一人で乗り込んだ。
すぐに御者が馬を走らせ、豪奢な馬車は砂煙を上げて去っていった。

その姿を、エリアスは呆然と見送った。
助かったのか。
本当に、ヴォルフが助けてくれたのか。
混乱の中、ヴォルフと言葉を交わす間もなく、背後の屋敷からバタバタと慌ただしい足音が近づいてきた。

「お、おい! 待て、何事だ!!」

大慌てで飛び出してきたのは、父だった。
彼は去っていくバンガルド卿の馬車と、エリアスを抱き寄せて立っているヴォルフを見て、顔面蒼白になって立ち尽くした。
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