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第3章
日常という奇跡
しおりを挟むそれからしばらくして、エリアスはようやくその身を自力で起こすことができるようになった。
食事も、味気ない流動食から消化の良い固形物に変わり、それに伴って体力も目に見えて回復し始めた。
そんなエリアスの順調な回復を見守り、ヴォルフは断腸の思いで、王宮の病棟にエリアスを預け、通常の仕事に復帰することを決めた。
「……行きたくない」
出発の朝、ヴォルフは子供のように駄々をこねたが、さすがにこれ以上、ハルトマン家の当主としての責務を放棄し続けるわけにはいかない。
「ヴォルフ。お仕事に戻ってください」
ベッドの上で、エリアスは優しく、しかし凛とした声で諭した。
「仕事なんて、君のそばにいることに比べれば……」
「いいえ。貴方が働くのは、私たちが暮らす領地と、そこに住む人々を守るためでもあります。それに、今回の叙任式で爵位も上がったのですから……今まで以上に、お国のためにも尽くさなくてはなりません」
エリアスの言葉は正論であり、そして何より、命がけでヴォルフを守った彼だからこそ言える重みがあった。
ヴォルフは苦渋の決断で頷き、後ろ髪を引かれながら屋敷を出た。
久しぶりに戻った執務室には、不在の間に滞っていた案件が山積みだったが、取引先や提携先からのクレームは驚くほど少なかった。
叙任式での凄惨な事件と、そこでハルトマン家が被害を受けたことは既に国中に知れ渡っている。
多くの人々が事情を理解し、ヴォルフが一定期間穴を開けていたことを寛容に受け入れてくれていたのだ。
「……ありがたいことだ」
それもこれも、ヴォルフがこれまで誠実に仕事に向き合い、築き上げてきた強固な信頼関係のおかげだと、改めて実感した。
同時に、王宮からも朗報が届いた。
バンガルド卿の裁判が、当初の予定よりも大幅に早められたのだ。
開廷後、アルシード陣営が周到に準備していた悪事の証拠が次々と提出され、バンガルド卿側は弁護のしようがない状況に追い込まれているという。
さらに、彼の手足となっていた傘下の貴族たちも、芋づる式にそれぞれの罪で逮捕され、次々と収監されている。
『この国の膿を、徹底的に排除する』
アルシードはそう意気込んでおり、その言葉通り、粛清の嵐が吹き荒れている。
この調子ならば、長引くと予想されていたバンガルド卿への断罪も、想定よりも遥かに早く決着がつきそうだった。
ヴォルフは鬼のような集中力でその日の仕事を片付けると、誰の誘いも断り、その足で真っ直ぐに王宮の病室へと向かった。
「ただいま、エリアス」
病室に入ると、ちょうど夕食の時間だった。
エリアスはベッドの上で身を起こし、スプーンを使って自分で食事を摂っていた。
「おかえりなさい、ヴォルフ」
「……ああ、元気そうでよかった」
ヴォルフは安堵の息を吐き、上着を脱ぐと、当然のようにエリアスの手からスプーンを取り上げた。
「私にさせてくれ」
「えっ? で、でも、もう自分で食べられますし……」
「いいから。あーん」
ヴォルフがスプーンに料理を乗せて差し出すと、エリアスは困ったように周囲を見渡した。
「ここは屋敷じゃありませんから……看護師さんに見られたら……」
「今更だろう?私たちの夫婦なのだから」
ヴォルフが笑って言うと、エリアスは顔を赤らめながらも、観念したように小さく口を開けた。
「……あーん」
パク、と一口食べる。ただそれだけの光景。
「……っ」
咀嚼するエリアスの頬が動き、喉が動く。
生きている。食べて、動いて、恥ずかしがってくれている。
そんな些細なやりとりでさえ、失いかけた恐怖を知るヴォルフにとっては奇跡のように尊く、視界が滲んでしまうのを止めることができなかった。
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