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番外編
悩める弟2
しおりを挟む実家を飛び出し、この平民の町で暮らすようになってから、ヨハンは密かに自身の「オメガ」という性に苦しめられていた。
幸いなことに、貴族街とは違い、平民の町にアルファは多くない。
強力なフェロモンを嗅ぎつけられたりしなければ、一見してオメガだと特定されることはない。
だが、ヨハンはかつて「社交界の華」と謳われたほどの美貌の持ち主だ。
母親譲りの柔らかな金髪に、エリアスと同じセピア色の瞳。透き通るような白い肌に、熟れた果実のような赤い唇。
そして、華奢で細く、しなやかな腰つき。
ラフなシャツにエプロンという質素な格好をしていても、隠しきれない気品と、成長してますます妖艶さを増したその美しさは、町の中でも異彩を放っていた。
それでも、この町で長く花屋を営み、顔が広いジョセヌの元にいることで、ヨハンは無用に男たちから声をかけられたり、危険な目に遭ったりすることはなかった。
ジョセヌを慕う周りの商店街の人たちが、「あの子はジョセヌさんの大事な跡取りだから」と目を光らせ、守ってくれているからだ。
だが、他人の目は防げても、身体の内側から湧き上がる生理現象だけはどうにもならなかった。
定期的に訪れる「ヒート期間」は、今のヨハンにとっては地獄だった。
実家にいた時、両親はヨハンの身体を、高く売るための「商品」としてしか見ていなかった。
金がないと言いながらも、商品の価値を損なわないため、後遺症が出ない最高品質の抑制剤を与えられていたのだ。効果も強く、副作用もないその薬のおかげで、ヨハンにとってのヒート期間は「少し微熱が出て、身体が火照る」程度の認識でしかなかった。
しかし、実家を出て平民の町で手に入る薬は、種類も質も限られている。
さすがに身体を壊すような粗悪品ではないが、貴族用とは比べ物にならないほど効果が薄い、安価なものだ。
今の生活で高価な薬にお金をかける余裕はないし、そもそもこの町ではそんな高級品は流通していない。
初めて、安価な薬で迎えたヒート期間の辛さは、衝撃的だった。
身体の芯から燃えるような高熱、理性を焼き切るような倦怠感。
そして何より、本能的に「アルファ」を求めて疼き、渇望する強烈な衝動。
全身が軋むような痛みに襲われながら、幸い3日程度で終わるその期間、ヨハンは花屋も手伝えず、小さな自室のベッドの上で、一人シーツを握りしめて泣きながらやり過ごすしかなかった。
その苦しみの中で、考えるのはいつも兄・エリアスのことだ。
実家で冷遇されていた兄は、両親からまともな薬など与えられていなかったはずだ。
第二性が覚醒してからずっと、兄はこんなにも辛く、苦しい思いをたった一人で耐えていたのか。
改めて自分の無知と、兄への無関心だった過去を知り、ヨハンは高熱の中で「ごめんなさい」と何度も謝り、悔いた。
そして、熱に浮かされる意識の隙間で、どうしても考えてしまうのは――あの苗屋の青年、カイのことだ。
日焼けした健康的な肌に、屈託のない明るい笑顔。
重い苗木を軽々と持ち上げる、体格の良い逞しい腕。
あの腕に抱きしめられたい。あの温かさに包まれたいと、ずっと思っている。
けれど、彼は平民で、おそらくベータだ。
貴族のようなアルファ特有の威圧感もないし、ヨハンのフェロモンに反応して理性を失うような様子もない。平民の中にアルファは少ないと聞く。
だから……もし、彼と心が通じ合い、結ばれたとしても。
彼との愛が、このオメガ特有のヒートの苦しみを完全に鎮めてくれることはない。
どれだけヨハンが心で彼を愛し、求めていても、オメガの肉体が本能的に求めているのは、彼ではなく「アルファ」なのだから。
その身体的なすれ違いが、ヨハンを絶望させた。
「……ぅ……っ」
熱に浮かされ、目の前が霞む。
朦朧とする意識の中で、ヨハンは叶わないかもしれない願いを口にした。
「…………カイ…………好き…………」
誰もいない部屋で、愛しい人の名前を呼ぶ。
いまだに本人には言えていない、けれど溢れ出しそうな切ない恋心を、ヨハンは譫言のように繰り返し呟き続けた。
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