7 / 21
7
しおりを挟む
高校を卒業した私は福岡で就職先を見つけました。車の部品を検査する道具を作る会社、と面接を受ける前も受けた後も結局どんな物を作っているのかあまりピンときていませんでしたが、あまりそこにこだわりはありませんでした。海が近い街で働く、というのが私にとっての大事な要素でした。
卒業してから就職するまでの一ヶ月、私は引っ越しの準備を進めました。生きる場所を変えるというのはとても面倒です。身支度に引っ越し屋さんの手配、市役所で書類をとったり新居の手続きをしたり。私の場合は病気もありますので、いつも行っている鹿児島の大学病院で紹介状を書いてもらう必要がありました。
「本当に行っちゃうんだね」
大学病院に行く車の中で、母さんはそう口にしました。ガラガラの高速道路で、左側には桜島と錦江湾が見えました。
「行っちゃうよ」
と私は冗談っぽく言いました。母さんは何かを飲み込んだかのように唇をぎゅっと締めた後、
「ごめんね」
と言いました。「何が?」と私が訊ねると母さんは「色々と」とだけ言いました。私は少しだけ涙がにじんできました。だけど母さんには知られたくなくて、窓の外に目を向けながら、
「こちらこそ、色々とありがとう」
とだけ言いました。
私は今になって、母さんが言った『色々』を聞いておけば良かったと後悔しています。その色々には、私を産んだ事を後悔した事も含まれているのか、とか。母さんと一緒に病院に行くことは、あまりに当たり前すぎていて気付いていませんでしたが、それが人生で最後の、病院に向かう母さんとの旅路だったのです。私が生まれてから何度も何度も通った道。片側二車線だけの狭い高速道路も、いくつもの山をくりぬいたトンネルも、紙コップのジュースを買ってもらったパーキングエリアも、ビルの上にドンと座る西郷さんも、桜島もそれを囲う海も、その後の人生で母さんと見ることの無い光景で、失われていく日常で、どれも、空っぽで満たして良い物ではありませんでした。
:::
引っ越しの準備をしている時、母さんは何か欲しいものが無いかと訊ねました。私はいいと言いましたが、どうしてもと引きません。色々考えて、私はニンテンドースイッチをお願いしました。高三の時に出て、だけどずっと品薄だったのがようやく電気屋さんでも並ぶようになっていたのです。
母さんは「そんなのでいいの?」と言いました。服とか、イヤリングとか、化粧品とか、そういう女の子らしいものをイメージしていたようです。私は「それがいいの」と言って、スイッチとゼルダの伝説ブレスオブザワイルドを買って貰いました。
一人暮らしを始めたら開けるつもりでしたが、やっぱり目の前にある未開封のゲームというのはあらがいがたい魅力があるものです。私は箱を開け、すっかり小さくなったカセットを差し込んでハイラルを救う冒険を始めました。おかげ、色々な準備が後回しになり、出発が近づいてもまだ手つかずの身支度が残っていました。
「本当、お父さんにそっくりね」
と母さんが笑ってくれたのが、素直に嬉しかったです。車の中で満たさないと行けなかった何かの一部が、確かにそこにありました。
:::
私は家を出て福岡で暮らすようになりました。だけどそこでの日々は思い描いていた物とは違いました。私はアパートを選ぶ時に理想よりも実用性を重視してしまって、駅は近くても、海は電車を乗り継がないと行けない場所にありました。
それに仕事。
私は事務員として入ったはずですが、人手が足りないと言うことで設計の補助もやるようになりました。新卒三ヶ月目なのに。勿論何も知識は無くて、先輩からの指示も満足に分かりません。時に日付を超えるまで仕事をして、近くのネットカフェに泊まるなんて事もありました。
繁忙期が特に忙しいだけで毎日がそうだったわけではありません。だけど一年、二年と経つ度に体が少しずつ不調を訴えてくるようになりました。疲れからか、何度か熱を出しました。
そして三年目の二〇二○年の二月。仕事中に、急に気分が悪くなって、病院に行くと胆管炎と診断されました。そのまま入院し、栄養剤と抗生物質を点滴されながら、私はもう無理なのかもしれないと思いました。
幸い一週間ほどの入院でよくなりましたが、結局、仕事は辞めました。ちょうど良く、と言ったらダメなのかもしれないですが、その時は中国で流行っている変な風邪が中国初のウィルスと分かり、世界的なパンデミックになった頃です。私の会社も山のようにあった仕事が激減して、すんなりと辞めることが出来ました。
三ヶ月ほど、私は無職で過ごしました。幸い残業をたくさんしていたのでお金だけは少し余裕があったのです。世間は自粛ムードで、用も無いのに外をぶらつく人はとんでもない極悪人という風潮だった物ですから、部屋に引きこもりスイッチで山ほどゲームをしました。というか、あつ森で延々と自分の島を作っていました。新しいパソコンも買って久しぶりにニコ動を見ましたが、昔のように夢中で見れる動画には出会えませんでした。結局私も、YouTubeでつまらなくは無いけどさほど面白くも無い動画を、惰性で流すようになりました。
母さんからは「帰ってきたらいい」と言われましたが、また宮崎で暮らす気にはなれませんでした。離れてしまうと、母さんと過ごした気まずい空気ばかり思い出して、その日常に戻る気にはなれなかったのです。それに、こっちですら就職が怪しいのに、宮崎でまた働く場所を見つけられるとは到底思えませんでした。
口座の目減りが気になり始めた頃、私は流石に働こうと求人情報をチェックするようになりました。幸い若さと資格のおかげで入れそうな所はありましたが、それでも前の職場での激務が少しトラウマになって二の足を踏み続ける毎日でした。
派遣でいいところが無いかと探し、軽い気持ちで派遣会社に登録しました。勿論、事務員としてです。けど私の経歴を見た担当者が「神戸で設計の仕事をしてみないか」と声をかけてきました。曰く、事務員は求人が少ないが設計は沢山あるし時給も高い、派遣先とはきっちり契約を結んでいるから無理な働き方をする事は無い、と。
また引っ越すのか、と思いました。だけどGoogleマップで勤務地を見たら少し気持ちが変わりました。今住んでいる場所よりもずっと海に近い場所だったのです。
「海に近いところに住めますか?」
私はそう訊ねると、担当者は、
「そういうアパートを探しますよ」
と言ってくれました。信じられる物かは分かりませんでしたが信じました。結果的に、その担当者はとてもいい場所を見つけてくれました。
私は神戸に行くことになり、そこで湊斗と出会いました。
卒業してから就職するまでの一ヶ月、私は引っ越しの準備を進めました。生きる場所を変えるというのはとても面倒です。身支度に引っ越し屋さんの手配、市役所で書類をとったり新居の手続きをしたり。私の場合は病気もありますので、いつも行っている鹿児島の大学病院で紹介状を書いてもらう必要がありました。
「本当に行っちゃうんだね」
大学病院に行く車の中で、母さんはそう口にしました。ガラガラの高速道路で、左側には桜島と錦江湾が見えました。
「行っちゃうよ」
と私は冗談っぽく言いました。母さんは何かを飲み込んだかのように唇をぎゅっと締めた後、
「ごめんね」
と言いました。「何が?」と私が訊ねると母さんは「色々と」とだけ言いました。私は少しだけ涙がにじんできました。だけど母さんには知られたくなくて、窓の外に目を向けながら、
「こちらこそ、色々とありがとう」
とだけ言いました。
私は今になって、母さんが言った『色々』を聞いておけば良かったと後悔しています。その色々には、私を産んだ事を後悔した事も含まれているのか、とか。母さんと一緒に病院に行くことは、あまりに当たり前すぎていて気付いていませんでしたが、それが人生で最後の、病院に向かう母さんとの旅路だったのです。私が生まれてから何度も何度も通った道。片側二車線だけの狭い高速道路も、いくつもの山をくりぬいたトンネルも、紙コップのジュースを買ってもらったパーキングエリアも、ビルの上にドンと座る西郷さんも、桜島もそれを囲う海も、その後の人生で母さんと見ることの無い光景で、失われていく日常で、どれも、空っぽで満たして良い物ではありませんでした。
:::
引っ越しの準備をしている時、母さんは何か欲しいものが無いかと訊ねました。私はいいと言いましたが、どうしてもと引きません。色々考えて、私はニンテンドースイッチをお願いしました。高三の時に出て、だけどずっと品薄だったのがようやく電気屋さんでも並ぶようになっていたのです。
母さんは「そんなのでいいの?」と言いました。服とか、イヤリングとか、化粧品とか、そういう女の子らしいものをイメージしていたようです。私は「それがいいの」と言って、スイッチとゼルダの伝説ブレスオブザワイルドを買って貰いました。
一人暮らしを始めたら開けるつもりでしたが、やっぱり目の前にある未開封のゲームというのはあらがいがたい魅力があるものです。私は箱を開け、すっかり小さくなったカセットを差し込んでハイラルを救う冒険を始めました。おかげ、色々な準備が後回しになり、出発が近づいてもまだ手つかずの身支度が残っていました。
「本当、お父さんにそっくりね」
と母さんが笑ってくれたのが、素直に嬉しかったです。車の中で満たさないと行けなかった何かの一部が、確かにそこにありました。
:::
私は家を出て福岡で暮らすようになりました。だけどそこでの日々は思い描いていた物とは違いました。私はアパートを選ぶ時に理想よりも実用性を重視してしまって、駅は近くても、海は電車を乗り継がないと行けない場所にありました。
それに仕事。
私は事務員として入ったはずですが、人手が足りないと言うことで設計の補助もやるようになりました。新卒三ヶ月目なのに。勿論何も知識は無くて、先輩からの指示も満足に分かりません。時に日付を超えるまで仕事をして、近くのネットカフェに泊まるなんて事もありました。
繁忙期が特に忙しいだけで毎日がそうだったわけではありません。だけど一年、二年と経つ度に体が少しずつ不調を訴えてくるようになりました。疲れからか、何度か熱を出しました。
そして三年目の二〇二○年の二月。仕事中に、急に気分が悪くなって、病院に行くと胆管炎と診断されました。そのまま入院し、栄養剤と抗生物質を点滴されながら、私はもう無理なのかもしれないと思いました。
幸い一週間ほどの入院でよくなりましたが、結局、仕事は辞めました。ちょうど良く、と言ったらダメなのかもしれないですが、その時は中国で流行っている変な風邪が中国初のウィルスと分かり、世界的なパンデミックになった頃です。私の会社も山のようにあった仕事が激減して、すんなりと辞めることが出来ました。
三ヶ月ほど、私は無職で過ごしました。幸い残業をたくさんしていたのでお金だけは少し余裕があったのです。世間は自粛ムードで、用も無いのに外をぶらつく人はとんでもない極悪人という風潮だった物ですから、部屋に引きこもりスイッチで山ほどゲームをしました。というか、あつ森で延々と自分の島を作っていました。新しいパソコンも買って久しぶりにニコ動を見ましたが、昔のように夢中で見れる動画には出会えませんでした。結局私も、YouTubeでつまらなくは無いけどさほど面白くも無い動画を、惰性で流すようになりました。
母さんからは「帰ってきたらいい」と言われましたが、また宮崎で暮らす気にはなれませんでした。離れてしまうと、母さんと過ごした気まずい空気ばかり思い出して、その日常に戻る気にはなれなかったのです。それに、こっちですら就職が怪しいのに、宮崎でまた働く場所を見つけられるとは到底思えませんでした。
口座の目減りが気になり始めた頃、私は流石に働こうと求人情報をチェックするようになりました。幸い若さと資格のおかげで入れそうな所はありましたが、それでも前の職場での激務が少しトラウマになって二の足を踏み続ける毎日でした。
派遣でいいところが無いかと探し、軽い気持ちで派遣会社に登録しました。勿論、事務員としてです。けど私の経歴を見た担当者が「神戸で設計の仕事をしてみないか」と声をかけてきました。曰く、事務員は求人が少ないが設計は沢山あるし時給も高い、派遣先とはきっちり契約を結んでいるから無理な働き方をする事は無い、と。
また引っ越すのか、と思いました。だけどGoogleマップで勤務地を見たら少し気持ちが変わりました。今住んでいる場所よりもずっと海に近い場所だったのです。
「海に近いところに住めますか?」
私はそう訊ねると、担当者は、
「そういうアパートを探しますよ」
と言ってくれました。信じられる物かは分かりませんでしたが信じました。結果的に、その担当者はとてもいい場所を見つけてくれました。
私は神戸に行くことになり、そこで湊斗と出会いました。
0
あなたにおすすめの小説
夫と愛し合った翌朝、一方的に離縁されました【完結保証】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
美しい公爵夫人マルグリートは、冷徹な夫ディートリヒと共に、王国の裏で密かに任務をこなす“悪女”。
だがある日、突然夫から離婚を言い渡される。しかもその裏には、平民の愛人の存在が──。
失意の中、王命で新たな婚約者・エルンストと結ばれることに。
どうやら今回の離婚再婚は、王家の陰謀があるよう。
「悪女に、遠慮はいらない」
そう決意した彼女は、華やかな舞踏会で王に真っ向から言い放つ。
「わたくし、人の家庭を壊しておきながら悪びれない方に、下げる頭は持っていませんの。
王族であられる前に、人におなりくださいませ。……失礼」
愛も、誇りも奪われたなら──
今度はこの手で、すべてを取り戻すだけ。
裏切りに燃える、痛快リベンジ・ロマンス!
⚠️本作は AI の生成した文章を一部に使っています。タイトル変えました。コメディーです。主人公は悪女です。
大丈夫のその先は…
水姫
恋愛
実来はシングルマザーの母が再婚すると聞いた。母が嬉しそうにしているのを見るとこれまで苦労かけた分幸せになって欲しいと思う。
新しくできた父はよりにもよって医者だった。新しくできた兄たちも同様で…。
バレないように、バレないように。
「大丈夫だよ」
すいません。ゆっくりお待ち下さい。m(_ _)m
君と暮らす事になる365日
家具付
恋愛
いつでもぎりぎりまで疲れている主人公、環依里(たまき より)は、自宅である築28年のアパートの扉の前に立っている、驚くべきスタイルの良さのイケメンを発見する。このイケメンには見覚えがあった。
何故ならば、大学卒業後音信不通になった、無駄に料理がうまい、変人の幼馴染だったのだから。
しかし環依里は、ヤツの職業を知っていた。
ヤツはメディアにすら顔を出すほどの、世間に知られた天才料理人だったのだ!
取扱説明書が必要な変人(世間では天才料理人!?)×どこにでもいる一般人OL(通訳)の、ボケとツッコミがぶつかりあうラブコメディ!(予定)
二十年以上無視してきた夫が、今さら文通を申し込んできました
小豆缶
恋愛
「お願いです。文通から始めてもらえませんか?」
二十年以上会話もなかった夫――この国の王が、ある日突然そう言ってきた。
第一王妃マリアは、公爵家出身の正妃。だが夫はかつて、寵愛する第三王妃の話のみを信じ、彼女を殴ったことがある。その事件が原因で、マリアは男性恐怖症が悪化して、夫と二人きりでは会話すらできなくなっていた。
それから二十年。
第三王妃はとある事故で亡くなり、夫は反省したらしい。だからといって――今さら夫婦関係をやり直したいと言われても遅すぎる。
なのに王は諦めない。毎日の手紙。花を一輪。夜食の差し入れ。
不器用すぎる求愛に振り回されるうち、マリアの中で止まっていた感情が少しずつ動き始める。
これは、冷えきった政略夫婦が「文通」からやり直す恋の話。
※本作は「存在されていないことにされていた管理ギフトの少女王宮で真の家族に出会う」のスピンオフですが、単体で読めます。
王女殿下のモラトリアム
あとさん♪
恋愛
「君は彼の気持ちを弄んで、どういうつもりなんだ?!この悪女が!」
突然、怒鳴られたの。
見知らぬ男子生徒から。
それが余りにも突然で反応できなかったの。
この方、まさかと思うけど、わたくしに言ってるの?
わたくし、アンネローゼ・フォン・ローリンゲン。花も恥じらう16歳。この国の王女よ。
先日、学園内で突然無礼者に絡まれたの。
お義姉様が仰るに、学園には色んな人が来るから、何が起こるか分からないんですって!
婚約者も居ない、この先どうなるのか未定の王女などつまらないと思っていたけれど、それ以来、俄然楽しみが増したわ♪
お義姉様が仰るにはピンクブロンドのライバルが現れるそうなのだけど。
え? 違うの?
ライバルって縦ロールなの?
世間というものは、なかなか複雑で一筋縄ではいかない物なのですね。
わたくしの婚約者も学園で捕まえる事が出来るかしら?
この話は、自分は平凡な人間だと思っている王女が、自分のしたい事や好きな人を見つける迄のお話。
※設定はゆるんゆるん
※ざまぁは無いけど、水戸○門的なモノはある。
※明るいラブコメが書きたくて。
※シャティエル王国シリーズ3作目!
※過去拙作『相互理解は難しい(略)』の12年後、
『王宮勤めにも色々ありまして』の10年後の話になります。
上記未読でも話は分かるとは思いますが、お読みいただくともっと面白いかも。
※ちょいちょい修正が入ると思います。誤字撲滅!
※小説家になろうにも投稿しました。
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる