それではまた、どこかでお会いしましょう。

スイ

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 私は障害者手帳を給付されました。そのおかげで、毎月途方もない程の額に上る免疫抑制剤の支払いも、月に外食一回分程度の出費で済むようになりました。職場へも復帰し、私は以前と同じような生活に戻ることが出来ました。

 けれど、子供を望む湊斗にとって、私はもうそれを叶えられる妻では無くなってしまいました。

 決して不可能なわけではありません。医者の指導の下で免疫抑制剤を止めれば妊娠は可能です。だけど妊娠を機に体調が悪化する可能性は、決して低くありません。病院の先生が優しく丁寧に、そして遠回りに説明する言葉の裏側に、三十を目前に控えた私にとって、妊娠は文字通り死の危険を孕んでいる事をひしひしと感じていました。

 同じ説明は、移植の前に湊斗にもされました。その説明を聞いてどう感じていたかは分かりません。だけど一つだけはっきり言えることは、湊斗は諦めたということです。

 私が退院してから『子供がほしい』と言う事は無くなりました。代わりに口にするの二人の未来についてです。旅行に行くならどこがいいか、何を食べたいか、どんな映画を見たいか。私の体調が戻るにつれて、また色んな所に出掛けるようになりました。やる時間なんて無いというのに、その頃続々と出始めていた次世代ゲーム機を全部揃えました。パソコンにしたって、どんな重いゲームも出来るハイスペックな物を買いました。

「家、欲しくない?」

 ある日、湊斗はそう言い出しました。最初は冗談かと思いましたが、仕事の出来る湊斗の事です。その日から色んな資料を集め、休日は不動産を回り、あっという間に中古の一軒家を見つけてきました。会社からは少し離れますが、閑静な場所に立つ平屋の建物です。割に古く、そして狭い家でしたが、その分価格は湊斗一人の稼ぎでも十分余裕を持って払える物でした。

「二人だから、これくらいがちょうどいいだろ」

 強がりでも何でも、そう言ってくれるのがとても嬉しかったのを覚えています。同時に、子供を産まなくてはいけない義務から解放されたように感じました。

 湊斗はローンを組んでその家を買いました。新居の空気はよそよそしくて、知らない人の匂いがして、でもすぐに私たちの日常に馴染んでいきました。その家は広い畳の部屋があって、お昼になるとお日様がまっすぐに降り注ぎます。暖かいお休みの日、布団も引かずその部屋に寝転がって、湊斗の腕を枕にお昼寝するのが好きでした。

 今思えば、この頃の湊斗は少しやけになっていたのだと思います。

 必要だから、欲しかったからと色んな物を買い込むのは、たぶん、鬱憤晴らしです。どうにもならない現状、つまり、私という子供を産めない妻を愛さないといけない人生に対して、です。

 :::

 私の体に変調が訪れたのは、家を買ったあたりからでした。

 時々、私の中に『モヤモヤ』とした感情が渦巻きました。最初にモヤモヤを感じたのは新しい家で、湊斗とセックスをしていた時です。湊斗が私の上で腰を振る中、私は快楽と共に、これまで感じたことの無い感情の渦を感じました。以前感じていた、子供が出来ることに対する恐怖とは、まるで違う物です。悲しさと空しさ、それに怒りと恐れが入り交じった、ひどく複雑な感情です。もし、警察署で棺桶の窓を開けて、変わり果てた母さんを見たら、これに近い物を感じていたかもしれません。

 どうして愛する人との愛し合う時間に、こんなモヤモヤを抱くのか分かりませんでした。だけどそれはセックスする度に感じ、そして行為の終わりと共にゆっくりと盛り下がっていきます。そして、湊斗が寝息を立てる頃にはすっかりなくなっているのです。

 初めは、移植のせいだと思いました。

 移植後にメンタルを崩す、というのはよく聞く話です。きっと子供を埋めないことに対する罪悪感とかが、セックスの時に湧き出てしまうのだろう。そう考えていました。

 だけどやがて、そういった感情は夜以外にも湧き上がるようになりました。それはご飯を作っている時であったり、休日にショッピングモールに行ってる時であったり、はたまた仕事中であったり。唐突に湧き上がるこのモヤモヤがなんなのか、私には分かりませんでした。

 一つだけ、共通点があるとすれば、それは湊斗と一緒にいる時に湧き上がるという事です。

 一人で買い物に行っていたり、湊斗が留守だったり、そういう時にモヤモヤがわき上がることはありませんでした。

 何度も経験しているうちに、どんどんそれの具体的な形が分かってきました。例えるなら、何度やっても倒せないボスの行動パターンが、ふとした瞬間、手に取るように理解できたような感覚に似ています。それまで一つの固まりだと思っていたモヤモヤは、無数の何かが寄り集まった物ではないかと思ったのです。瞼を瞑れば、その一つ一つが選り分けられるほど、モヤモヤは私の中で具体性を増していきました。

 私は、一番にモヤモヤを感じる夜に、その選り分けをしていこうと思いました。湊斗のを口に含み、コンドームをつけ、私の中へとあてがい、一気に入ってくる快楽の中、浮かび上がるモヤモヤーー無数の糸を、私は瞑った瞼の裏で見つめました。

 お腹の奥に快感を感じる中、そのモヤモヤはいつものように強く大きくなっていきます。私は暗闇の中でモヤモヤを構成する糸に手をかけ、そこにある意志を読み取ろうとします。打ち付けられる腰の激しさや私の腕を押しつける手の力が徐々に増すなか、不意に私の頭に、言葉が流れてきました。

『何で子供を持てないんだ』
『もっと早く作っていれば』
『澪が断りさえしなければ』
『違う人を愛していれば』
『澪と、結婚さえしなければ』

 最後に腰を打ち付けられ、私の中で湊斗のが脈動しているのを感じます。子供になれない精子達が、決して打ち破れないゴムの壁へと放たれていきます。私が目を開けたとき、湊斗は荒い息を挙げながら、いつも通り私の髪を優しく撫でてくれました。

「……泣いてる?」

 涙に触れたのでしょうか、暗闇の中で、湊斗が心配そうに声をかけてくれました。

「ううん」

 と私は言って、それでも指で溢れた涙を拭いました。私の中でモヤモヤは急速に小さくなっていきました。代わりに『どうして泣いているんだろう?』という心の声が聞こえてきました。文字通り、はっきりと聞こえたのです。本当に優しい人です。何も与えられない私に対して、本心から気をかけてくれるんですから。

「大丈夫、ありがとう」

 私は湊斗の首に手を回してぎゅっと抱き寄せました。耳元に口を近づけて、

「ごめんなさい」

 湊斗は一瞬黙り込んだ後、笑いました。いつもの自然な笑みではありません。少し不器用な笑い方でした。

「どうして謝るのさ」

 そう湊斗は言いました。

 :::

 モヤモヤは、湊斗の心の声でした。湊斗が私に対して感じた思いが、私に流れ込んでいたのです。そしてそのほとんどは、湊斗の純粋な願いーー子供が欲しいという思いを叶えない、私への怨嗟でした。

 湊斗は、私を憎んでいました。

 子供を持てない私を。

 子供を持つ事を拒否してきた私を。

 まだ間に合う、思いました。

 湊斗はその時三二歳で、二十代の一番盛んな時期を奪ってしまったにしろ、まだ男性としては次の相手を見つけて、結婚して、子供を作る事は出来ると思ったのです。

 湊斗は、とても素敵な男性です。顔も、声も、性格も。仕事だって安定していますし、蓄えだってあります。私という邪魔者がなければ、きっと湊斗を好きになる女性は見つかるはずでした。

 私はその夜、湊斗との別れを決意しました。
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