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17.伊崎美里の悩みについて(Hパート)
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ボーイさんに案内されて『御予約』という札が置かれた席に座る。九十分、食べ残しは禁止、ドリンクはセルフだけど最初の一杯はオーダー制。そう言って渡されたドリンクのメニュー表から、私はコーヒーを、結衣ちゃんはレモンティーを頼んだ。
ごゆっくりどうぞ、と一礼して、ボーイはメニューを持って下がっていく。
「私、こういうとこ初めてです」
と結衣ちゃんは言う。久しぶりに会ったその顔は相変わらず綺麗で、でもそれ以上に、表情が豊かになったように思える。駅で待ち合わせた時に私を見て浮かべた笑顔も、イベントの時とは比べ物にならないほどキラキラしたもので、それが少しだけアイツの笑顔に似ているように思えた。
「ケーキバイキングが?」
「それもなんですけど、こう有名なホテルでご飯食べるっていうのが」
毎年、期間限定でやってるここのケーキバイキングは一瞬で土日の予定は埋まるほど人気で、今日の予約も私が一ヶ月以上も前にとったものだ。
「連れてきてもらえばいいのに。あいつに安月給でこき使われてるんでしょ?」
「そんな事は……。家賃も光熱費も水道も、全部持ってもらってますし」
「安い安い。結衣ちゃんをメイドにして働かせてるんだから、十倍はもらわなきゃ」
「それは、ぜひ伊崎さんの口から」
「私から言ったって聞きはしないわよ。やっぱ結衣ちゃんが言わなきゃ。こうやって」
私は自分の胸を寄せて上目遣いになる。結衣ちゃんは手を口元に当てて品よく笑う。ちょうどその時さっきのボーイさんがやって来て、私は何食わぬ顔でぱっと胸から手を離した。ボーイはそれぞれの前にカップを置き、柔らかな微笑みのまま再び一礼して下がっていく。私たちは顔を見合わせて、ふっ、と噴出した。
「乾杯、しますか?」
「いや、まずケーキでしょ」
「そうですね」
私達は二人でバイキングコーナーへ向かった。ホールの中心に設けられた縦長のテーブルの上に、きらびやかな装飾と共に小さく切り分けられたケーキが並べられている。
「どう? あいつとは」
「おかげさまで、仲良くしています」
「この間のは? なんだっけ、襲ってくれないとか」
「ちょ、ちょっと伊崎さん。ここでそれは」
焦る結衣ちゃんを見て私はカラカラ笑う。それほど大きな声で話していないとはいえ、近くにはちらほらとケーキを選んでいる人がいる。それでもあえて口にしたのは、何のことはないちょっとしたいたずら心だ。
意地悪、と言ったほうが良いのかもしれないけど。
「まぁそれはそれとして、ほんとにどんな感じ? なんかあいつに不満とか無い?」
「いえそれは……、あ、そういえばですね」
「お、悪口?」
いやまさか、と結衣ちゃんは笑う。私は一口サイズにカットされたケーキを手当たり次第にお皿に盛っていく。ショート、モンブラン、チョコブラウニー、チーズ、パンプキン。等分されたケーキをトングの先でそっとつまみながら、私は結衣ちゃんの横顔を見る。何度見ても綺麗な顔だ。もし私が学生時代に、結衣ちゃんからアイツを紹介してと言われたら、断っていたかもしれない。だって、こんな子がすぐ隣にいたら、男だけじゃなく女だって好きになってしまう。私だってそれなりに可愛げのある顔をしているつもりだが、結衣ちゃんは全然違う。生き物として一つ上のランクにいる感じ。
「最近になって、ようやく結衣と呼んでくれるようになったんです」
ケーキを選ぶ手が一瞬止まって、またすぐいつもどおりに動き出す。「中学生かよー、お前ら」と言うと、結衣ちゃんは照れた顔で「えへへ」と笑った。
下の名前か。
セックスだったら私もしたことがある。だけど下の名前で呼ばれたことは無い。この微妙な気持ちをなんと言うのだろう。いつもは遅れて来るバスが時間通りに来て、結果、いつも通りポチポチ歩いてきた私が乗り遅れた時と、同じ気持ち。耳元に流れる結衣ちゃんの惚気話に相槌を打ちながら、あぁ今の私は悔しがっているのだと気づいた。
だっさ。
と、我ながらに思う。
:::
思い出せばまだ五年、という気もするし、もう五年、と言う気もする。
あいつと出会った時の私はただの大学生で、希望に満ち溢れている、という程ではなくても、まぁそこそこ将来に対して夢も不安も抱えていた。サークルは三つ掛け持ちしていて、そのうちの一つがあいつがいる文芸サークルだった。興味はあるけど一人じゃ不安だから、という理由で友達に誘われて入ったのが確か一年の終わり頃。
あいつは入学したときから入っていたみたいで、第一印象は、まぁそこそこ顔はいいかなっていう感じ。塩系、というか品があると言うか。あと背は高いほうだから、その分もプラスに働いていた。重要でしょ? だって。
サークルに入りたての時期はあまりしゃべる方でもなかった。もちろん険悪なんてことはなく、たまたま二人になればなにか話すし、ラインも交換してた。だけどそれはサークル内だったら誰とでも交換していたし、そもそもグループ以外では互いにメッセージを交わすこともなかった。私は私で他のサークルやバイト、それに大学を出たらイベント系の会社でも作ろうかなと考えていたし、そのための勉強や資格取得にも忙しかった。
ようやくそれらが落ち着いてきた大学三年、ふと気づけば周りが就職活動で忙しくなっていて、今までしつこいくらいに誘ってきてた人たちが、逆に誘っても予定が合わない、という時も多くなってきた。
そんな中、変わらずのんびりとしているのはあいつぐらいだった。
「俺、実は家が会社やってるから、そこで働くつもりなんだよね」
サイゼだったかガストだったか、どっかの喫茶店だったか。就職の話になって、あいつがそんな事を言い出したのは覚えている。
「マジで? 初めて聞いた」
「誰にも言ってないから。大企業ならともかく、傾きかけだし」
「何そんなやばいの?」
「親父に危機感がない、ってのが一番やばい。昔からの名残であっちこっちの事業に手伸ばして、採算悪い仕事も付き合いが、とか言ってなかなか切ろうとしないから。だから俺が恨み役を買って切らないと、十年後とかはまじで倒産すると思う」
へぇ、と私は呟く。いつも大人しい印象しか無いあいつが、語気を強めて語る姿は珍しく、頼もしさすら感じた。
だから、かもしれない。
「私も、大学出たら会社作りたいなって思ってて」
ずっと考えていた将来の目標を、誰かに漏らしたのはこの時が初めてだった。会社を立ち上げる、なんて言ったら意識高い系に見られそうで、少し嫌だったから。
だけど彼は、私の心配を微塵も感じさせない純粋さで、
「へぇ、どんな?」
目を丸くしてそう訊ねた。
「イベント運営。例えば、どっかの会社が自分とこの製品のイベントやりたいな、って思ったときにどんな内容にするかの相談から会場の押さえ、収益の管理に、うちわやタオルの手配まで、色々とやってあげるような会社」
「すごいな、伊崎には向いてるよそれ」
「雑用係は慣れてるからねぇ」
昔から頼まれたら断れず、なんだかんだと担ぎあげられる事が多かった。でもそれ自体をまんざらに思っていない自分自身がいて、だからこそイベント運営会社なんて事を考えている。自分が会社をやりたい理由を冷静に考えたらなんだかバカみたいに思えた。だけどあいつは私の皮肉に砂をかけるみたく、
「皆頼りにしてるんだよ」
「便利に思ってるだけよ」
「そんな事無い、皆『良いやつ』だって言ってるよ」
「頭に『都合が』をつけ忘れてるわよ」
自分でも卑屈だなぁと思うほどアイツの言葉を否定した。いつもはそんなでもなく、むしろ褒められたら軽く『そうでしょ』とか言ってあっさり流す方なのに、これでは私が嫌っているめんどくさい女そのものではないかと思って、また陰鬱な気持ちになる。
「ピクサー、しってる?」
私は頬杖ついたままアイツを見つめた。一瞬、何を言ってるか分からなかったし、
「トイ・ストーリー作ったとこでしょ」
言葉の意味を理解してもやっぱり何を言ってるか分からなかった。
「ローレンス・レビーは?」
「誰?」
「ピクサーの昔のCFO」
「ジョブズとジョン・ラセターぐらいは知ってるけど」
アイツは体を前に乗り出して、
「ピクサーのアニメって、エンドロールに必ず制作部門以外のスタッフがクレジットされるんだ。財務とかマーケティングとかの管理部門が。でもハリウッドっで映画のエンドクレジットに乗ること自体がその人の履歴書みたいに見られるし、なによりトイ・ストーリーを作った頃のピクサーってディズニーと奴隷みたいな契約結んでたから、普通クレジットってされないはずなんだよ。ローレンス・レビーが何度もディズニーと交渉して、制作部門以外のスタッフをクレジットされるようにしたんだ。ある一つの条件をつけて」
「条件?」
「社員は良いけど、役員をクレジットする事はダメだって。ローレンスはそれを喜んで受け入れた。だから今でも、ピクサーの映画をローレンスは必ず最後の最後まで見るし、スペシャルサンクスのクレジットが流れたときは涙ぐむんだって、」
話を終えてもアイツが何を言いたいのか、私は分からなかった。アイツは私の真似をするように頬杖を突く。まるで放課後の教室で、後ろの席の仲良しさんと週末の予定でも話すみたく、
「その話を呼んだ時、僕は伊崎みたいだなって思ったよ」
「私? なんで」
「お前がそういうやつだからだよ。伊崎の周りはいつも人いるし、本当に皆『良いやつだ』って言ってる。頭に都合が、なんて付かないよ。お前の人徳、才能だ。たまに嫌に思うことだってそりゃあるだろうけど、それは間違いなくお前の長所だし、いざとなったら誰か助けてくれるよ、絶対。だから、お前が会社作ったら絶対に成功する」
その時、あいつが浮かべていた笑顔は今でも覚えている。アイツが言った事は、実は、何度も自分自身に言い聞かせていた事でもあった。大丈夫、きっとうまくいく、困った時は助けてくれる誰かがいる、と。だけど他人から面と向かってそう言われたのは初めてで、私はろくに返事もできず、それどころかあいつの視線を受け止めることもできず、思わずそっぽを向いてしまった。
「じゃあ、私の会社が潰れかけたら、あんたのとこに買い取ってもらおうかな」
「むしろ、僕のところが買われるかも」
そんな事を言いあい、二人で笑った。ラインをグループでなく、個人でやり取りし始めたのはこの頃からだった。
:::
「大学の時の彼は、どんな人だったんですか?」
「あいつ?」
シフォンケーキにフォークをぶっ刺しながら私は考える。ふと逸らした窓の向こうは通りになっていて、道行く男はかなりの確率で結衣ちゃんをチラ見している。結衣ちゃんと一緒にいると、特別な人がどれだけ人の視線を集めるか、というのがよく分かる。男女問わず、世の勘違い共に一日結衣ちゃんの隣を歩かせてみたい。本物は常に見られるし、それを本人は当たり前に思ってるから気にもとめない。
私は普通の人間だから、いつもより集まる誰かの視線がチクチクしてしょうがない。針のむしろよりずっと優しいけど、くすぐったさだってずっと浴びせ続けられればただの拷問だ。
「普通、っていえば普通だけど、まぁ少しはもててたかな」
「少し、というのは?」
「私も友達、紹介したことはあるよ。中学校からの友達を」
「彼はその人と付き合っていたんですか?」
私は視線をそらして、「いや」と答える。
「結局、付き合わなかった」
結衣ちゃんは奥歯に物が挟まったように「そうですか」と言った。そしてしばしの無言。
なんとなく、結衣ちゃんが聞きたいことは分かっていた。
なんでもあいつは、私が『言わなくてもいい』と言ったのに、あの夜のことを正直に言ったらしい。ーー自分から私をホテルに誘った、と。元々、結衣ちゃんには私からアイツと体の関係があった事を教えているが、その時は私から誘って私からフった、ということにしていた。してあげていた。だからこそ、結衣ちゃん的には私の事が気になると思う。仕事上とはいえ、今でも付き合いのある間柄ならば尚の事。
ーー彼のことは好きですか?
もしこう聞かれたら、私は何でも無いふりをしてこう言ってやろう。
ーー好きよ。
ちょっと時間を置いてから、
ーーなんてね。
そしてトドメに、
ーーとか言ったり。
混乱する結衣ちゃんの顔が浮かんで私は不意に笑ってしまった。だけど結衣ちゃんがその質問をすることはなく、あっさりと私の仕事の話に移っていった。
:::
ーーねぇ、あの人かっこいいよね。
ーーあの人?
ーー文芸サークルにいる、あの人。
夏休み前、私が幹事になって主催した飲み会。文芸サークルだけじゃなく、掛け持ちしていた他のサークルや知り合いにも声をかけて、それなりの大所帯にした。就活の鬱憤を晴らす、というのと、夏休み前で田舎に帰る人もいるからその前に皆でわいわいやろう、という名目。あっちこっちで飲み会をやるという話があるから、じゃあ一緒にしちまえ、という発想。賛同者のみが参加、という趣旨。
全部嘘っぱちだった。
中学からの友達に言われたら頑張るしか無いでしょ。
店を予約して人集めて予定を調整して、そこまでは別になんとも思っていなかった。優子からは死ぬほど感謝されたし、お礼としてご飯とかもよく奢ってもらったりしたから、まぁ良いことやってあげたなぁって。だけど乗り気じゃないアイツを説得し、無理やり参加という事にしたあたりからちょっと憂鬱になってきて、実際に飲み会の席でアイツと優子を隣同士に座らせた時には、後悔すらしていた。遠くの席で当たり障りのない会話をしながら、横目であいつの笑顔を追ってた。
私、何やってるんだろう。
傍目からはいい感じに見えたけど、一次会が終わって路上でたむろっている時にアイツと優子はもう隣同士ではなかった。他人の迷惑も顧みず、道端のあっちこっちで固まって皆が話す中、優子は私のところに来て、
「今日はごめんね、ここまでやってもらって」
ありがとう、ではなく、ごめんね、と言われた時点でもうある程度察した。その時に浮かび上がった感情を隠し、できるだけ心配そうな顔をして、
「どうだった?」
「んー、どう、かなぁ。一応ラインは交換できたけど」
「やったじゃん、後は押すだけだって」
「うん」
と言った幼馴染の切なそうな顔を見て喜ぶ自分が心底嫌だった。お酒も相まってか、本気で吐き気がした。アイツが褒めてくれた『誰からも頼られる良い人』が、こんな薄っぺらいものだなんて思いたくなかった。
何度と無く誘われた二次会を断りながらアイツの姿を探すがどこにもいない。誰に聞いても分からず、だからと言ってラインを送る気になれなかった。
そのまままっすぐ帰るつもりだったけど、ふと通りかかった本屋がまだ開いていて、思わずそこに入っていった。彼が言っていた人の本が気になって、スマホで『ピクサー CFO』と検索。記憶に引っかかったローレンス・レビーの本をお店の端末で検索したけれど、結局在庫はなかった。
ふんっ、と鼻で笑う。
つまんないつまんない、世の中こんなんばっかだ。できたらこのお行儀よく並んだ本棚を全部なぎ倒してしまいたい。だけどそんな事、物理的にも倫理的に無理に決まっていて、私にできることと言ったらその頃You Tubeでよく聞いていたホリデイ・イン・ザ・サンを口ずさみながら、店内を闊歩することぐらいだった。
ちょうど本屋の一番奥、お堅い内容の文庫が並べられた棚まで来たときだった。どうせこの時間の本屋の、こんな棚に誰もいないだろうと思っていたら、棚の真ん中辺りで立ち読みしている人が一人いた。そいつは私を見て、いつかと同じ純粋な笑顔を向けた。
私は口ずさむのを止めた。
近づくアイツに、
「飲み会帰りに岩波文庫かよ」
そっぽを向きながらそう吐き捨てる。
「そっちこそ、本屋でセックスピストルズか」
「悪い?」
「全然」
いつもだったらすぐに出る軽口がその時に限ってちっとも出てこなかった。私は少しだけドキドキしていた。
そしてふと、彼の視線がいつもとは違う所を泳いでいるのに気がついた。いつもは私の目や、口元を見て話をするというのに、今の彼はそれよりずっと下、Tシャツを盛り上げる胸元や、スカートから伸びる脚をちらちら見つめていた。アイツはアイツで酔っ払っていたらしい。だけどそれを承知の上で、その時私が感じたのは優子に対する途方もない優越感だった。さっきまであれ程感じていた自分自身への嫌悪感は、アイツの視線一つで綺麗に消し飛んでしまった。
「ねぇ」
と彼が言う。私は「ん?」と何も知らない振りをする。
「ちょっと酔いさましに、そこのカフェでコーヒーでも飲まない?」
私は「まぁ別に」と答えた。もうその時には、あそこは少しだけ濡れていたと思う。
:::
ちょっとトイレに立って戻ると、結衣ちゃんがナンパされていた。
随分と身なりの良い男性だった。四十代くらいだろうかブランド物のジャケットにスキニーを着て、結衣ちゃんに名刺を渡している。そして二、三度頭を下げると、手に持っていたハットを被って出口に向かっていった。私の前を通り過ぎた時、香水の匂いがふっと漂った。
私が戻ると、結衣ちゃんは貰った名刺をしげしげと眺めていた。
「今の誰?」
顔を上げた結衣ちゃんは、
「プロダクションの役員、とのことです」
「プロダクション?」
「芸能界に興味はないか、と」
「デビューするの?」
「いえ、まさか」
結衣ちゃんは名刺を裏返しにしてテーブルの隅に押しやった。
「私にそんな才能はありません。伊崎さんみたいに、いつも堂々と出来ればそういう道もあるのかもしれませんが」
きっと謙遜のつもりで言ったのだろうけど、私はその言葉に少しズキッと来た。今の男は私の前を通り過ぎても、横目を投げることすらなかった。結衣ちゃんの前にはわざわざ挨拶をして名刺を置いていった。それが全てだ。結衣ちゃんが持って無いものは努力すれば手に入るけど、私が持っていないものは努力しても手に入れる事はできないだろう。
「ねぇ、今更こんな事聞くのもなんだけどさ」
「はい?」
「アイツの何がそんなに良いの? 結衣ちゃんだったら、もっと良い男が選び放題じゃん」
「そんな事ないですよ。彼は優しいですし、いろいろ尽くしてくれて、私にはもったいない人です」
「じゃ、一番好きなところは?」
「えー」
と苦笑しながら結衣ちゃんはどこか遠くを見つめる。私はお皿の上に最後まで残っていたショートケーキの1/8カットのイチゴを指でつまんで口に放り込む。お店の壁に掛けられた時計をちらりと見ると、もうそろそろ九十分経ちそうだった。
「一番は、何でしょう。ちょっとぱっとは浮かばないというか、」
結衣ちゃんはそう、照れた笑みを浮かべながら言った。
「見つけたら、必ず連絡します」
:::
カフェでアイツと何を話したか、今となってはちっとも覚えていない。ただいつになく饒舌で、必死すぎるほどに必死だったという印象だけが残っている。終電の時間が近づいても私は自分から帰ろうとはしなかった。アイツの会話に相槌をうち、話が途切れても私から会話をふった。日付が変わり、終電が過ぎてからはアイツの饒舌さも落ち着いていつもの喋り方になっていった。だんだんと会話の間に割り込む沈黙も長くなり、お互い意味もなくスマホを見つめていた。優子からラインが来ていて、だけどそれに既読をつける勇気もなく指先は何度もツイッターを更新ばかりしていた。
「電車」
ポツリと、アイツは言った。
「なくなったな」
「そうね」
私はわざとそっけなく答える。
「どうする?」
「どうするもこうするも、」
私は右手の人差しに何度も髪の毛を巻きつける。
「どっかに泊まるしか無いと思うけど」
「そうだな」
私はふと窓を見つめる。半透明の私とアイツがそこにいた。私達がそこに写り込んでいると言うより、今日という日のためにずっと昔からそこで私達が座るのを待っていたかのように思えた。
ラブホは駅の裏手にいくらでもあって、だけど私達は誰かに見られる事を恐れてそれよりずっと遠くの、隣駅との間にある風俗街まで歩いて行った。私達はお互い無言で、ようやくたどり着いたボロボロのラブホの、空いていた部屋の中で一番安い部屋を「ここが良い」と言って、私からボタンを押した。後ろから夫婦にも恋人にも見えない年の離れた男女が入ってきて、アイツは奪うように鍵を取って立ち去った。手も繋がず、でも腕は時折偶然を装って当てながら、エレベーターが来るのを待っていた。
開く途中で一瞬何かに引っかかった扉、最上階のボタンに貼り付けられた『STAFF ONLY』の手書きの紙、趣味が良いとは言えない斑模様の壁、ホテルのアメニティとケーブルテレビの案内、一階だけがオレンジ色に変色した階数ランプ。恐竜がいた時代からありそうなボロボロのエレベーターを降りると薄暗い廊下が真っ直ぐに伸びていて、アイツが手に持つ鍵と同じ部屋番のランプが点滅していた。
私達はお互い何も話さなかった。言葉がいらない間柄ではなく、むしろこんなところに来るまでにもっと多くの言葉が必要なはずだった。なのにもう冷めてしまった酔いのせいにして、心臓の鼓動だけをバカみたいにバク付かせて、こんなところまで来てしまった。
ドアを締めた途端、本当の沈黙が訪れたような気分になった。それなりの防音が施されたホテルの一室の玄関で、靴を脱ぐアイツを見ながら、私はその沈黙に耐えきれず、
「そういえば、優子、どうだった?」
アイツは「え?」と振り返る。コンバースのスニーカーの踵は数年がかりで踏み潰され、縦にシワが出来ていた。
「結構、今日仲良さそうに話してたけど」
「お前が隣に座らせたからだろ」
「そうよ」
私はドアに背中に預けながら、目の前に垂れた髪を耳に引っ掛けた。
「あんたって、結構モテるよね」
「ーーいや別に。伊崎こそ、そうだろ」
「私はアテにされてるだけよ、良い人だから」
「皆言ってるよ、伊崎は美人だって」
「その皆には、あんたも含まれてるの?」
アイツは振り返り、私の目をじっと見つめた後、頭に手を回してぐっと抱き寄せた。唇を重ねたらコーヒーの味がして、お互いに舌を絡めあったら少しだけお酒も残っていた。私は優子のラインを既読もつけずにスルーしていた事を思い出して、またすぐに忘れていった。
「もちろん」
鼻が触れ合うほどの距離でアイツはそう言った。どうだか、と私は思った。だけど体は単純で、アイツが発したその一言がぐるぐる頭を回り体中の感覚をより鋭敏なものにしていた。彼の手から伝わる熱は皮膚を通り越して私の血を直接温めているようで、私の冷静さをあっという間に興奮へと変えていった。
二度目のキスは私からだった。足をピンと伸ばし唇へと食らいつく。腰に手を回すとアイツは私の体を抱き寄せて、もう十分なほど膨れたちんぽを押し付けてくる。「ん」と思わず声が漏れ、彼は熱い吐息を漏らした。股間に触れる。張ったジーパンのチャックをおろし、パンツの前にある切れ目からちんぽを出して逆手でしごく。カウパーが手の平を滑らしてラブホの玄関先に卑猥な水音が響き渡る。
「ん、あ」
微かにだが喘ぎ声を上げたアイツに、私は喜びを感じる。そのまま更に手の動きを早めるとアイツの腰が小刻みに震えてきて、「ちょっと」と言いながら手首を掴まれた時には、アイツの首筋に一粒汗が見えた。
「やばい、出るとこだった」
「早くない? 溜まってる?」
「少し」
「何日?」
「3日ぐらい?」
アイツは私の腰に手を回して部屋の奥に誘う。網掛けのサンダルを脱ぎ捨てて部屋に上がり、逆にアイツの前に進んでベッドルームへの扉を開けた。ダブルベッドに背中から飛び込んで仰向けになり、靴下を脱ぎ捨てる。ロングスカートが脚を滑り、ぎりパンツが見えるか見えないかの位置までずり上がった。アイツは私の隣に横たわり、お腹を撫で、また唇にキスをした。唾液がタレ落ちるほど長く、視界がくらむほど濃密に。
「3日前は何見て抜いたの?」
アイツは私の質問には答えなかった。太ももに手を滑らせ、ロングスカートの下の秘部に手を這わせる。もうとっくの昔から濡れている割れ目にすっと指を潜り込ませ、中で指先を暴れさせる。
「ん……」
アイツの腕が私の首の下に差し込まれる。私はアイツの胸元に顔を押し付ける。少し汗ばんだアイツの匂い。頭がくらくらする。
指先が私も知らないツボを押す。肺の空気が一気に押し出されて「んはぁっ……!」と水中から顔を出した時のような声を出した。膣の中を右往左往にさまよっていたアイツの指先が、その一点だけを目指して集中的に攻めてくる。指の腹で押し付け、撫で、時に違う指でクリトリスを同時に攻めながら私を絶頂へと引っ張っていく。
「ちょ、ちょっと、だめっ……」
「いきそう?」
首をただ横に振る。アイツのTシャツを噛んで、割れ目を責め立てる腕を掴む。鼻息が荒くなり、太ももをぎゅっと締め、崖から突き落とされたような浮遊感が体に生まれる。
「っ、あ、はっ……!」
ビクビク体が震えた。アイツは震える私の体を抱きながらゆっくりと指を往復させて引き抜いていく。
私はあいつを睨みつけ、
「……慣れてるでしょ」
「慣れてない慣れてない」
と必死になって首を振る。
「こういうの、久しぶりだから」
私はアイツに持たれかかり、そのまま体を回転させて押し倒す。「おぉ」と驚いたような喜んだようなアイツの声。私はベルトを外し、ズボンとパンツを抜き取って下半身を丸出しにする。いきり勃つアイツのペニスを握り咥えこんだ。
「あ、やばっ……」
口の中で亀頭が膨らむ。口の中の唾液をわざと垂らしながら奥まで咥え込み、また先端まで戻して先端を吸い上げる。右手は根本を支え、左手は垂れる前髪を常に押さえる。髪の合間から上目遣いでチラ見したアイツの顔は眉間にシワを寄せていて、私のお尻の下で引きつったように脚をピンと張っている。
私は長い時間、アイツのちんぽをフェラし続けた。早々にいってしまわないよう、ゆっくりゆっくりじらしながら。次第にアイツの口から漏れる声と吐息の間隔が短くなっていく。裏筋が気持ちいいみたいで、舌をちんぽの裏側に這わせながら往復すると特に苦しそうに声を上げた。
私は口を離し、でも右手はゆっくりと動かしながら、
「いくときはちゃんと言ってよね」
「いや、だから、やばいってそれ……」
「いきそう?」
「やばい」
余裕のないアイツが面白くて、私はつい右手を数秒だけ激しく動かした。「あ、あ、だから、むりっ……」と声を張り上げた所でピタッと止め、恐る恐るこちらを見たアイツと目があい声を上げて笑った。そして、その笑いを引きずりながら、
「そろそろ、する?」
アイツは手をベッドの上に這わせて、
「ゴム、あるかな」
「そこ、ベッドの上の、……もうちょい右、その灰皿の横……そう、それ」
ゴムを探り当てる。私はベッドの上を這っていき、「穴、空いてない?」と訊ねる。アイツは光にかざして「大丈夫、だと思う」と答えた。
私は仰向けになってロングスカートとパンツを脱ぐ。アイツも上着とTシャツを脱いでタンクトップ一枚になる。細身だと思っていたけど思いの外に体がしまっていて、思わずぼうっと見とれてしまう。アイツは不慣れな感じでゴムをつけると、私に向き直り、
「何見てたの?」
「え、いや、さっさとつけないかなって」
「うるせぇ」
アイツは私の脚の間に座って、割れ目にちんぽの先端を這わせる。むず痒い快感が何度も往復しているうちに、私はふと笑ってしまう。
「なんで笑った?」
「いや、展開早いなって。まだシャワーも浴びてないのに」
「あ、ごめん……」
「そんな謝らなくても」
私は腕を胸の下で組む。両手で互いの二の腕を掴みながら、「ねぇ」とアイツに訊ねる。
「いつから?」
「いつからって?」
私のことが好きだったの? とは聞けなかった。
「そういう目で見てたの?」
「いいな、って意味?」
「まぁそんな感じ」
「……初めから結構美人だと思ってたけど、」
弾んだ私の心を、悲しげな優子の顔が押さえつけた。
しまったな、と自分でも思う。
変な会話をしなければよかった。そのままゴムも着けずに、頭ピンク色のままガンガン突きまくってもらえばよかった。ただ気持ちいいことだけを感じてこの夜を終えたかった。難しいことは明日にすればよかった。だけど一度でも浮かんだ友達の顔は消えてくれない。消えて欲しい、と思うことそのものに罪悪感を感じる。
「気になりだしたのは最近、みんな忙しそうになってお前とよく話すようになってから。ほら、僕ら結構気が合うだろ? それに、今日はあまり乗り気じゃなかったし早めに帰ろうと思ってたけど、その、たまたま会ったから、こう、勝手に自分の中で盛り上がって」
分かるよ、めっちゃ分かる。私だってそうだった。本屋で会った時、同じことを考えていた。今日ならお酒のせいにできるし、終電を逃しても明日は休みだし、それに、カフェで必死に私を引き止めている姿を見ていたら、正直、私って結構いい女なんじゃないかな、って思ってしまった。少なくても、優子になびかなかったけど私には食いついた、っていうのがすごく優越感だった。性格、悪いよね。自覚してる。できたら誰かに相談したい。そして『そんなの関係ないよ、だって好きになったんでしょ』とか安っぽい共感の言葉が欲しい。でも、こんなこと誰にも言えない。私にはこうやって墓場まで持っていく小さい秘密が多すぎる。
私は脚をアイツの腰に巻きつけて「しよっか」と言った。アイツは右手をベッドについて、左手でちんぽを支えながら私の中に入ってくる。初めてじゃないはずなのに凄くきつくて、奥に押し付けられた時は本当にそれだけでいっちゃうかと思った。真上はちょうど照明がきらめいていて、思わず「眩しい」と口にする。アイツは枕元の照明スイッチを手当たり次第に操作して、廊下側は点いたままだけど部屋の明かりは消すことに成功した。
暗闇の中、アイツの体が動き出す。ぱん、ぱん、と腰が打ち付けられて、ちょろい私はその最初の数回で軽くいってしまう。私は体中でアイツの体温を感じ、ぼんやり暗闇の天井を見ながら、これが映画だったらここでエンドロールが流れてくれないかな、と考える。そうすれば私の名前は最初か二番目か、主人公かヒロインかでいられる。だけどここで終わらないし、ハッピーエンドにもならない。
明日の朝には優子に嘘のラインを送って、夜にはきっとあいつとこれまでと同じ仲に戻っている。それが一番うまいやり方だ。そして何十年もあとにくる本当のエンドロールでは、きっと私の名前はスペシャルサンクスか、もしくは奴隷みたいな契約のせいでそこに載せることもできないかもしれない。
仕方ない。
私のせいだし。
それが私が望むことだ。
「あ、いくっ」
:::
改札前で結衣ちゃんはくるりと回れ右をし、「今日はありがとうございました」と頭を下げた。
「ありがとうもなにも割りかんじゃない」
「いえ、凄く楽しかったので。よければまた、ぜひ食べにいきましょう」
「じゃ、次は結衣ちゃんおすすめの所で」
「探しときますねっ」
結衣ちゃんはカバンにぶら下げたパスケースを手にとり、その瞬間「あ」と呟いた。「なに、忘れ物?」と訊ねると、
「いえ、でも、思いつきました。彼の、好きな所」
私はふっ、と吹き出し「今になってかい」と独り言のように言う。結衣ちゃんも照れくさそうに笑いながら「全然、当たり前のことなんですけど」と言いながら、
「私達、結構気が合うと思うんです」
その一瞬だけ、周囲のざわめきが遠のいた。うまく笑えていたか自信がない。だけど結衣ちゃんは変わらない微笑みを浮かべながら、
「彼も、その私の事を綺麗と言ってくれますし、一緒に話していて楽しいなと思えるところも多くて。ありきたりなんですけど、それが好きな所ですかね」
ある種の郷愁を感じてぎゅっと胸を締め付けられる。今、結衣ちゃんが立っている場所に、私も一晩だけいた事がある。恐竜がいた頃からありそうなあのボロホテルのきしむベッドの上で、私は確実に自分の人生の主人公であり、アイツにとってのヒロインだった。望みさえすればまだ私がいたかもしれないその位置に、今や正真正銘のヒロインがいて光を受けている。幸せな笑顔と本物の美貌。観客席にいるだけの私は何も出来ず、その権利もなく、ただその幸せを見つめることしか出来ない。
「最後の最後にのろけてくれるわね」
自分でも随分わざとらしいな、と思える口調で結衣ちゃんを小突く。結衣ちゃんは「すみません」と言いながら幸せの笑みを崩さず、そのまま改札を通り抜けていく。
「それでは、またラインします」
私は人混みの中に消えていく結衣ちゃんの背中を、いつまでもいつまでも眺めていた。
ごゆっくりどうぞ、と一礼して、ボーイはメニューを持って下がっていく。
「私、こういうとこ初めてです」
と結衣ちゃんは言う。久しぶりに会ったその顔は相変わらず綺麗で、でもそれ以上に、表情が豊かになったように思える。駅で待ち合わせた時に私を見て浮かべた笑顔も、イベントの時とは比べ物にならないほどキラキラしたもので、それが少しだけアイツの笑顔に似ているように思えた。
「ケーキバイキングが?」
「それもなんですけど、こう有名なホテルでご飯食べるっていうのが」
毎年、期間限定でやってるここのケーキバイキングは一瞬で土日の予定は埋まるほど人気で、今日の予約も私が一ヶ月以上も前にとったものだ。
「連れてきてもらえばいいのに。あいつに安月給でこき使われてるんでしょ?」
「そんな事は……。家賃も光熱費も水道も、全部持ってもらってますし」
「安い安い。結衣ちゃんをメイドにして働かせてるんだから、十倍はもらわなきゃ」
「それは、ぜひ伊崎さんの口から」
「私から言ったって聞きはしないわよ。やっぱ結衣ちゃんが言わなきゃ。こうやって」
私は自分の胸を寄せて上目遣いになる。結衣ちゃんは手を口元に当てて品よく笑う。ちょうどその時さっきのボーイさんがやって来て、私は何食わぬ顔でぱっと胸から手を離した。ボーイはそれぞれの前にカップを置き、柔らかな微笑みのまま再び一礼して下がっていく。私たちは顔を見合わせて、ふっ、と噴出した。
「乾杯、しますか?」
「いや、まずケーキでしょ」
「そうですね」
私達は二人でバイキングコーナーへ向かった。ホールの中心に設けられた縦長のテーブルの上に、きらびやかな装飾と共に小さく切り分けられたケーキが並べられている。
「どう? あいつとは」
「おかげさまで、仲良くしています」
「この間のは? なんだっけ、襲ってくれないとか」
「ちょ、ちょっと伊崎さん。ここでそれは」
焦る結衣ちゃんを見て私はカラカラ笑う。それほど大きな声で話していないとはいえ、近くにはちらほらとケーキを選んでいる人がいる。それでもあえて口にしたのは、何のことはないちょっとしたいたずら心だ。
意地悪、と言ったほうが良いのかもしれないけど。
「まぁそれはそれとして、ほんとにどんな感じ? なんかあいつに不満とか無い?」
「いえそれは……、あ、そういえばですね」
「お、悪口?」
いやまさか、と結衣ちゃんは笑う。私は一口サイズにカットされたケーキを手当たり次第にお皿に盛っていく。ショート、モンブラン、チョコブラウニー、チーズ、パンプキン。等分されたケーキをトングの先でそっとつまみながら、私は結衣ちゃんの横顔を見る。何度見ても綺麗な顔だ。もし私が学生時代に、結衣ちゃんからアイツを紹介してと言われたら、断っていたかもしれない。だって、こんな子がすぐ隣にいたら、男だけじゃなく女だって好きになってしまう。私だってそれなりに可愛げのある顔をしているつもりだが、結衣ちゃんは全然違う。生き物として一つ上のランクにいる感じ。
「最近になって、ようやく結衣と呼んでくれるようになったんです」
ケーキを選ぶ手が一瞬止まって、またすぐいつもどおりに動き出す。「中学生かよー、お前ら」と言うと、結衣ちゃんは照れた顔で「えへへ」と笑った。
下の名前か。
セックスだったら私もしたことがある。だけど下の名前で呼ばれたことは無い。この微妙な気持ちをなんと言うのだろう。いつもは遅れて来るバスが時間通りに来て、結果、いつも通りポチポチ歩いてきた私が乗り遅れた時と、同じ気持ち。耳元に流れる結衣ちゃんの惚気話に相槌を打ちながら、あぁ今の私は悔しがっているのだと気づいた。
だっさ。
と、我ながらに思う。
:::
思い出せばまだ五年、という気もするし、もう五年、と言う気もする。
あいつと出会った時の私はただの大学生で、希望に満ち溢れている、という程ではなくても、まぁそこそこ将来に対して夢も不安も抱えていた。サークルは三つ掛け持ちしていて、そのうちの一つがあいつがいる文芸サークルだった。興味はあるけど一人じゃ不安だから、という理由で友達に誘われて入ったのが確か一年の終わり頃。
あいつは入学したときから入っていたみたいで、第一印象は、まぁそこそこ顔はいいかなっていう感じ。塩系、というか品があると言うか。あと背は高いほうだから、その分もプラスに働いていた。重要でしょ? だって。
サークルに入りたての時期はあまりしゃべる方でもなかった。もちろん険悪なんてことはなく、たまたま二人になればなにか話すし、ラインも交換してた。だけどそれはサークル内だったら誰とでも交換していたし、そもそもグループ以外では互いにメッセージを交わすこともなかった。私は私で他のサークルやバイト、それに大学を出たらイベント系の会社でも作ろうかなと考えていたし、そのための勉強や資格取得にも忙しかった。
ようやくそれらが落ち着いてきた大学三年、ふと気づけば周りが就職活動で忙しくなっていて、今までしつこいくらいに誘ってきてた人たちが、逆に誘っても予定が合わない、という時も多くなってきた。
そんな中、変わらずのんびりとしているのはあいつぐらいだった。
「俺、実は家が会社やってるから、そこで働くつもりなんだよね」
サイゼだったかガストだったか、どっかの喫茶店だったか。就職の話になって、あいつがそんな事を言い出したのは覚えている。
「マジで? 初めて聞いた」
「誰にも言ってないから。大企業ならともかく、傾きかけだし」
「何そんなやばいの?」
「親父に危機感がない、ってのが一番やばい。昔からの名残であっちこっちの事業に手伸ばして、採算悪い仕事も付き合いが、とか言ってなかなか切ろうとしないから。だから俺が恨み役を買って切らないと、十年後とかはまじで倒産すると思う」
へぇ、と私は呟く。いつも大人しい印象しか無いあいつが、語気を強めて語る姿は珍しく、頼もしさすら感じた。
だから、かもしれない。
「私も、大学出たら会社作りたいなって思ってて」
ずっと考えていた将来の目標を、誰かに漏らしたのはこの時が初めてだった。会社を立ち上げる、なんて言ったら意識高い系に見られそうで、少し嫌だったから。
だけど彼は、私の心配を微塵も感じさせない純粋さで、
「へぇ、どんな?」
目を丸くしてそう訊ねた。
「イベント運営。例えば、どっかの会社が自分とこの製品のイベントやりたいな、って思ったときにどんな内容にするかの相談から会場の押さえ、収益の管理に、うちわやタオルの手配まで、色々とやってあげるような会社」
「すごいな、伊崎には向いてるよそれ」
「雑用係は慣れてるからねぇ」
昔から頼まれたら断れず、なんだかんだと担ぎあげられる事が多かった。でもそれ自体をまんざらに思っていない自分自身がいて、だからこそイベント運営会社なんて事を考えている。自分が会社をやりたい理由を冷静に考えたらなんだかバカみたいに思えた。だけどあいつは私の皮肉に砂をかけるみたく、
「皆頼りにしてるんだよ」
「便利に思ってるだけよ」
「そんな事無い、皆『良いやつ』だって言ってるよ」
「頭に『都合が』をつけ忘れてるわよ」
自分でも卑屈だなぁと思うほどアイツの言葉を否定した。いつもはそんなでもなく、むしろ褒められたら軽く『そうでしょ』とか言ってあっさり流す方なのに、これでは私が嫌っているめんどくさい女そのものではないかと思って、また陰鬱な気持ちになる。
「ピクサー、しってる?」
私は頬杖ついたままアイツを見つめた。一瞬、何を言ってるか分からなかったし、
「トイ・ストーリー作ったとこでしょ」
言葉の意味を理解してもやっぱり何を言ってるか分からなかった。
「ローレンス・レビーは?」
「誰?」
「ピクサーの昔のCFO」
「ジョブズとジョン・ラセターぐらいは知ってるけど」
アイツは体を前に乗り出して、
「ピクサーのアニメって、エンドロールに必ず制作部門以外のスタッフがクレジットされるんだ。財務とかマーケティングとかの管理部門が。でもハリウッドっで映画のエンドクレジットに乗ること自体がその人の履歴書みたいに見られるし、なによりトイ・ストーリーを作った頃のピクサーってディズニーと奴隷みたいな契約結んでたから、普通クレジットってされないはずなんだよ。ローレンス・レビーが何度もディズニーと交渉して、制作部門以外のスタッフをクレジットされるようにしたんだ。ある一つの条件をつけて」
「条件?」
「社員は良いけど、役員をクレジットする事はダメだって。ローレンスはそれを喜んで受け入れた。だから今でも、ピクサーの映画をローレンスは必ず最後の最後まで見るし、スペシャルサンクスのクレジットが流れたときは涙ぐむんだって、」
話を終えてもアイツが何を言いたいのか、私は分からなかった。アイツは私の真似をするように頬杖を突く。まるで放課後の教室で、後ろの席の仲良しさんと週末の予定でも話すみたく、
「その話を呼んだ時、僕は伊崎みたいだなって思ったよ」
「私? なんで」
「お前がそういうやつだからだよ。伊崎の周りはいつも人いるし、本当に皆『良いやつだ』って言ってる。頭に都合が、なんて付かないよ。お前の人徳、才能だ。たまに嫌に思うことだってそりゃあるだろうけど、それは間違いなくお前の長所だし、いざとなったら誰か助けてくれるよ、絶対。だから、お前が会社作ったら絶対に成功する」
その時、あいつが浮かべていた笑顔は今でも覚えている。アイツが言った事は、実は、何度も自分自身に言い聞かせていた事でもあった。大丈夫、きっとうまくいく、困った時は助けてくれる誰かがいる、と。だけど他人から面と向かってそう言われたのは初めてで、私はろくに返事もできず、それどころかあいつの視線を受け止めることもできず、思わずそっぽを向いてしまった。
「じゃあ、私の会社が潰れかけたら、あんたのとこに買い取ってもらおうかな」
「むしろ、僕のところが買われるかも」
そんな事を言いあい、二人で笑った。ラインをグループでなく、個人でやり取りし始めたのはこの頃からだった。
:::
「大学の時の彼は、どんな人だったんですか?」
「あいつ?」
シフォンケーキにフォークをぶっ刺しながら私は考える。ふと逸らした窓の向こうは通りになっていて、道行く男はかなりの確率で結衣ちゃんをチラ見している。結衣ちゃんと一緒にいると、特別な人がどれだけ人の視線を集めるか、というのがよく分かる。男女問わず、世の勘違い共に一日結衣ちゃんの隣を歩かせてみたい。本物は常に見られるし、それを本人は当たり前に思ってるから気にもとめない。
私は普通の人間だから、いつもより集まる誰かの視線がチクチクしてしょうがない。針のむしろよりずっと優しいけど、くすぐったさだってずっと浴びせ続けられればただの拷問だ。
「普通、っていえば普通だけど、まぁ少しはもててたかな」
「少し、というのは?」
「私も友達、紹介したことはあるよ。中学校からの友達を」
「彼はその人と付き合っていたんですか?」
私は視線をそらして、「いや」と答える。
「結局、付き合わなかった」
結衣ちゃんは奥歯に物が挟まったように「そうですか」と言った。そしてしばしの無言。
なんとなく、結衣ちゃんが聞きたいことは分かっていた。
なんでもあいつは、私が『言わなくてもいい』と言ったのに、あの夜のことを正直に言ったらしい。ーー自分から私をホテルに誘った、と。元々、結衣ちゃんには私からアイツと体の関係があった事を教えているが、その時は私から誘って私からフった、ということにしていた。してあげていた。だからこそ、結衣ちゃん的には私の事が気になると思う。仕事上とはいえ、今でも付き合いのある間柄ならば尚の事。
ーー彼のことは好きですか?
もしこう聞かれたら、私は何でも無いふりをしてこう言ってやろう。
ーー好きよ。
ちょっと時間を置いてから、
ーーなんてね。
そしてトドメに、
ーーとか言ったり。
混乱する結衣ちゃんの顔が浮かんで私は不意に笑ってしまった。だけど結衣ちゃんがその質問をすることはなく、あっさりと私の仕事の話に移っていった。
:::
ーーねぇ、あの人かっこいいよね。
ーーあの人?
ーー文芸サークルにいる、あの人。
夏休み前、私が幹事になって主催した飲み会。文芸サークルだけじゃなく、掛け持ちしていた他のサークルや知り合いにも声をかけて、それなりの大所帯にした。就活の鬱憤を晴らす、というのと、夏休み前で田舎に帰る人もいるからその前に皆でわいわいやろう、という名目。あっちこっちで飲み会をやるという話があるから、じゃあ一緒にしちまえ、という発想。賛同者のみが参加、という趣旨。
全部嘘っぱちだった。
中学からの友達に言われたら頑張るしか無いでしょ。
店を予約して人集めて予定を調整して、そこまでは別になんとも思っていなかった。優子からは死ぬほど感謝されたし、お礼としてご飯とかもよく奢ってもらったりしたから、まぁ良いことやってあげたなぁって。だけど乗り気じゃないアイツを説得し、無理やり参加という事にしたあたりからちょっと憂鬱になってきて、実際に飲み会の席でアイツと優子を隣同士に座らせた時には、後悔すらしていた。遠くの席で当たり障りのない会話をしながら、横目であいつの笑顔を追ってた。
私、何やってるんだろう。
傍目からはいい感じに見えたけど、一次会が終わって路上でたむろっている時にアイツと優子はもう隣同士ではなかった。他人の迷惑も顧みず、道端のあっちこっちで固まって皆が話す中、優子は私のところに来て、
「今日はごめんね、ここまでやってもらって」
ありがとう、ではなく、ごめんね、と言われた時点でもうある程度察した。その時に浮かび上がった感情を隠し、できるだけ心配そうな顔をして、
「どうだった?」
「んー、どう、かなぁ。一応ラインは交換できたけど」
「やったじゃん、後は押すだけだって」
「うん」
と言った幼馴染の切なそうな顔を見て喜ぶ自分が心底嫌だった。お酒も相まってか、本気で吐き気がした。アイツが褒めてくれた『誰からも頼られる良い人』が、こんな薄っぺらいものだなんて思いたくなかった。
何度と無く誘われた二次会を断りながらアイツの姿を探すがどこにもいない。誰に聞いても分からず、だからと言ってラインを送る気になれなかった。
そのまままっすぐ帰るつもりだったけど、ふと通りかかった本屋がまだ開いていて、思わずそこに入っていった。彼が言っていた人の本が気になって、スマホで『ピクサー CFO』と検索。記憶に引っかかったローレンス・レビーの本をお店の端末で検索したけれど、結局在庫はなかった。
ふんっ、と鼻で笑う。
つまんないつまんない、世の中こんなんばっかだ。できたらこのお行儀よく並んだ本棚を全部なぎ倒してしまいたい。だけどそんな事、物理的にも倫理的に無理に決まっていて、私にできることと言ったらその頃You Tubeでよく聞いていたホリデイ・イン・ザ・サンを口ずさみながら、店内を闊歩することぐらいだった。
ちょうど本屋の一番奥、お堅い内容の文庫が並べられた棚まで来たときだった。どうせこの時間の本屋の、こんな棚に誰もいないだろうと思っていたら、棚の真ん中辺りで立ち読みしている人が一人いた。そいつは私を見て、いつかと同じ純粋な笑顔を向けた。
私は口ずさむのを止めた。
近づくアイツに、
「飲み会帰りに岩波文庫かよ」
そっぽを向きながらそう吐き捨てる。
「そっちこそ、本屋でセックスピストルズか」
「悪い?」
「全然」
いつもだったらすぐに出る軽口がその時に限ってちっとも出てこなかった。私は少しだけドキドキしていた。
そしてふと、彼の視線がいつもとは違う所を泳いでいるのに気がついた。いつもは私の目や、口元を見て話をするというのに、今の彼はそれよりずっと下、Tシャツを盛り上げる胸元や、スカートから伸びる脚をちらちら見つめていた。アイツはアイツで酔っ払っていたらしい。だけどそれを承知の上で、その時私が感じたのは優子に対する途方もない優越感だった。さっきまであれ程感じていた自分自身への嫌悪感は、アイツの視線一つで綺麗に消し飛んでしまった。
「ねぇ」
と彼が言う。私は「ん?」と何も知らない振りをする。
「ちょっと酔いさましに、そこのカフェでコーヒーでも飲まない?」
私は「まぁ別に」と答えた。もうその時には、あそこは少しだけ濡れていたと思う。
:::
ちょっとトイレに立って戻ると、結衣ちゃんがナンパされていた。
随分と身なりの良い男性だった。四十代くらいだろうかブランド物のジャケットにスキニーを着て、結衣ちゃんに名刺を渡している。そして二、三度頭を下げると、手に持っていたハットを被って出口に向かっていった。私の前を通り過ぎた時、香水の匂いがふっと漂った。
私が戻ると、結衣ちゃんは貰った名刺をしげしげと眺めていた。
「今の誰?」
顔を上げた結衣ちゃんは、
「プロダクションの役員、とのことです」
「プロダクション?」
「芸能界に興味はないか、と」
「デビューするの?」
「いえ、まさか」
結衣ちゃんは名刺を裏返しにしてテーブルの隅に押しやった。
「私にそんな才能はありません。伊崎さんみたいに、いつも堂々と出来ればそういう道もあるのかもしれませんが」
きっと謙遜のつもりで言ったのだろうけど、私はその言葉に少しズキッと来た。今の男は私の前を通り過ぎても、横目を投げることすらなかった。結衣ちゃんの前にはわざわざ挨拶をして名刺を置いていった。それが全てだ。結衣ちゃんが持って無いものは努力すれば手に入るけど、私が持っていないものは努力しても手に入れる事はできないだろう。
「ねぇ、今更こんな事聞くのもなんだけどさ」
「はい?」
「アイツの何がそんなに良いの? 結衣ちゃんだったら、もっと良い男が選び放題じゃん」
「そんな事ないですよ。彼は優しいですし、いろいろ尽くしてくれて、私にはもったいない人です」
「じゃ、一番好きなところは?」
「えー」
と苦笑しながら結衣ちゃんはどこか遠くを見つめる。私はお皿の上に最後まで残っていたショートケーキの1/8カットのイチゴを指でつまんで口に放り込む。お店の壁に掛けられた時計をちらりと見ると、もうそろそろ九十分経ちそうだった。
「一番は、何でしょう。ちょっとぱっとは浮かばないというか、」
結衣ちゃんはそう、照れた笑みを浮かべながら言った。
「見つけたら、必ず連絡します」
:::
カフェでアイツと何を話したか、今となってはちっとも覚えていない。ただいつになく饒舌で、必死すぎるほどに必死だったという印象だけが残っている。終電の時間が近づいても私は自分から帰ろうとはしなかった。アイツの会話に相槌をうち、話が途切れても私から会話をふった。日付が変わり、終電が過ぎてからはアイツの饒舌さも落ち着いていつもの喋り方になっていった。だんだんと会話の間に割り込む沈黙も長くなり、お互い意味もなくスマホを見つめていた。優子からラインが来ていて、だけどそれに既読をつける勇気もなく指先は何度もツイッターを更新ばかりしていた。
「電車」
ポツリと、アイツは言った。
「なくなったな」
「そうね」
私はわざとそっけなく答える。
「どうする?」
「どうするもこうするも、」
私は右手の人差しに何度も髪の毛を巻きつける。
「どっかに泊まるしか無いと思うけど」
「そうだな」
私はふと窓を見つめる。半透明の私とアイツがそこにいた。私達がそこに写り込んでいると言うより、今日という日のためにずっと昔からそこで私達が座るのを待っていたかのように思えた。
ラブホは駅の裏手にいくらでもあって、だけど私達は誰かに見られる事を恐れてそれよりずっと遠くの、隣駅との間にある風俗街まで歩いて行った。私達はお互い無言で、ようやくたどり着いたボロボロのラブホの、空いていた部屋の中で一番安い部屋を「ここが良い」と言って、私からボタンを押した。後ろから夫婦にも恋人にも見えない年の離れた男女が入ってきて、アイツは奪うように鍵を取って立ち去った。手も繋がず、でも腕は時折偶然を装って当てながら、エレベーターが来るのを待っていた。
開く途中で一瞬何かに引っかかった扉、最上階のボタンに貼り付けられた『STAFF ONLY』の手書きの紙、趣味が良いとは言えない斑模様の壁、ホテルのアメニティとケーブルテレビの案内、一階だけがオレンジ色に変色した階数ランプ。恐竜がいた時代からありそうなボロボロのエレベーターを降りると薄暗い廊下が真っ直ぐに伸びていて、アイツが手に持つ鍵と同じ部屋番のランプが点滅していた。
私達はお互い何も話さなかった。言葉がいらない間柄ではなく、むしろこんなところに来るまでにもっと多くの言葉が必要なはずだった。なのにもう冷めてしまった酔いのせいにして、心臓の鼓動だけをバカみたいにバク付かせて、こんなところまで来てしまった。
ドアを締めた途端、本当の沈黙が訪れたような気分になった。それなりの防音が施されたホテルの一室の玄関で、靴を脱ぐアイツを見ながら、私はその沈黙に耐えきれず、
「そういえば、優子、どうだった?」
アイツは「え?」と振り返る。コンバースのスニーカーの踵は数年がかりで踏み潰され、縦にシワが出来ていた。
「結構、今日仲良さそうに話してたけど」
「お前が隣に座らせたからだろ」
「そうよ」
私はドアに背中に預けながら、目の前に垂れた髪を耳に引っ掛けた。
「あんたって、結構モテるよね」
「ーーいや別に。伊崎こそ、そうだろ」
「私はアテにされてるだけよ、良い人だから」
「皆言ってるよ、伊崎は美人だって」
「その皆には、あんたも含まれてるの?」
アイツは振り返り、私の目をじっと見つめた後、頭に手を回してぐっと抱き寄せた。唇を重ねたらコーヒーの味がして、お互いに舌を絡めあったら少しだけお酒も残っていた。私は優子のラインを既読もつけずにスルーしていた事を思い出して、またすぐに忘れていった。
「もちろん」
鼻が触れ合うほどの距離でアイツはそう言った。どうだか、と私は思った。だけど体は単純で、アイツが発したその一言がぐるぐる頭を回り体中の感覚をより鋭敏なものにしていた。彼の手から伝わる熱は皮膚を通り越して私の血を直接温めているようで、私の冷静さをあっという間に興奮へと変えていった。
二度目のキスは私からだった。足をピンと伸ばし唇へと食らいつく。腰に手を回すとアイツは私の体を抱き寄せて、もう十分なほど膨れたちんぽを押し付けてくる。「ん」と思わず声が漏れ、彼は熱い吐息を漏らした。股間に触れる。張ったジーパンのチャックをおろし、パンツの前にある切れ目からちんぽを出して逆手でしごく。カウパーが手の平を滑らしてラブホの玄関先に卑猥な水音が響き渡る。
「ん、あ」
微かにだが喘ぎ声を上げたアイツに、私は喜びを感じる。そのまま更に手の動きを早めるとアイツの腰が小刻みに震えてきて、「ちょっと」と言いながら手首を掴まれた時には、アイツの首筋に一粒汗が見えた。
「やばい、出るとこだった」
「早くない? 溜まってる?」
「少し」
「何日?」
「3日ぐらい?」
アイツは私の腰に手を回して部屋の奥に誘う。網掛けのサンダルを脱ぎ捨てて部屋に上がり、逆にアイツの前に進んでベッドルームへの扉を開けた。ダブルベッドに背中から飛び込んで仰向けになり、靴下を脱ぎ捨てる。ロングスカートが脚を滑り、ぎりパンツが見えるか見えないかの位置までずり上がった。アイツは私の隣に横たわり、お腹を撫で、また唇にキスをした。唾液がタレ落ちるほど長く、視界がくらむほど濃密に。
「3日前は何見て抜いたの?」
アイツは私の質問には答えなかった。太ももに手を滑らせ、ロングスカートの下の秘部に手を這わせる。もうとっくの昔から濡れている割れ目にすっと指を潜り込ませ、中で指先を暴れさせる。
「ん……」
アイツの腕が私の首の下に差し込まれる。私はアイツの胸元に顔を押し付ける。少し汗ばんだアイツの匂い。頭がくらくらする。
指先が私も知らないツボを押す。肺の空気が一気に押し出されて「んはぁっ……!」と水中から顔を出した時のような声を出した。膣の中を右往左往にさまよっていたアイツの指先が、その一点だけを目指して集中的に攻めてくる。指の腹で押し付け、撫で、時に違う指でクリトリスを同時に攻めながら私を絶頂へと引っ張っていく。
「ちょ、ちょっと、だめっ……」
「いきそう?」
首をただ横に振る。アイツのTシャツを噛んで、割れ目を責め立てる腕を掴む。鼻息が荒くなり、太ももをぎゅっと締め、崖から突き落とされたような浮遊感が体に生まれる。
「っ、あ、はっ……!」
ビクビク体が震えた。アイツは震える私の体を抱きながらゆっくりと指を往復させて引き抜いていく。
私はあいつを睨みつけ、
「……慣れてるでしょ」
「慣れてない慣れてない」
と必死になって首を振る。
「こういうの、久しぶりだから」
私はアイツに持たれかかり、そのまま体を回転させて押し倒す。「おぉ」と驚いたような喜んだようなアイツの声。私はベルトを外し、ズボンとパンツを抜き取って下半身を丸出しにする。いきり勃つアイツのペニスを握り咥えこんだ。
「あ、やばっ……」
口の中で亀頭が膨らむ。口の中の唾液をわざと垂らしながら奥まで咥え込み、また先端まで戻して先端を吸い上げる。右手は根本を支え、左手は垂れる前髪を常に押さえる。髪の合間から上目遣いでチラ見したアイツの顔は眉間にシワを寄せていて、私のお尻の下で引きつったように脚をピンと張っている。
私は長い時間、アイツのちんぽをフェラし続けた。早々にいってしまわないよう、ゆっくりゆっくりじらしながら。次第にアイツの口から漏れる声と吐息の間隔が短くなっていく。裏筋が気持ちいいみたいで、舌をちんぽの裏側に這わせながら往復すると特に苦しそうに声を上げた。
私は口を離し、でも右手はゆっくりと動かしながら、
「いくときはちゃんと言ってよね」
「いや、だから、やばいってそれ……」
「いきそう?」
「やばい」
余裕のないアイツが面白くて、私はつい右手を数秒だけ激しく動かした。「あ、あ、だから、むりっ……」と声を張り上げた所でピタッと止め、恐る恐るこちらを見たアイツと目があい声を上げて笑った。そして、その笑いを引きずりながら、
「そろそろ、する?」
アイツは手をベッドの上に這わせて、
「ゴム、あるかな」
「そこ、ベッドの上の、……もうちょい右、その灰皿の横……そう、それ」
ゴムを探り当てる。私はベッドの上を這っていき、「穴、空いてない?」と訊ねる。アイツは光にかざして「大丈夫、だと思う」と答えた。
私は仰向けになってロングスカートとパンツを脱ぐ。アイツも上着とTシャツを脱いでタンクトップ一枚になる。細身だと思っていたけど思いの外に体がしまっていて、思わずぼうっと見とれてしまう。アイツは不慣れな感じでゴムをつけると、私に向き直り、
「何見てたの?」
「え、いや、さっさとつけないかなって」
「うるせぇ」
アイツは私の脚の間に座って、割れ目にちんぽの先端を這わせる。むず痒い快感が何度も往復しているうちに、私はふと笑ってしまう。
「なんで笑った?」
「いや、展開早いなって。まだシャワーも浴びてないのに」
「あ、ごめん……」
「そんな謝らなくても」
私は腕を胸の下で組む。両手で互いの二の腕を掴みながら、「ねぇ」とアイツに訊ねる。
「いつから?」
「いつからって?」
私のことが好きだったの? とは聞けなかった。
「そういう目で見てたの?」
「いいな、って意味?」
「まぁそんな感じ」
「……初めから結構美人だと思ってたけど、」
弾んだ私の心を、悲しげな優子の顔が押さえつけた。
しまったな、と自分でも思う。
変な会話をしなければよかった。そのままゴムも着けずに、頭ピンク色のままガンガン突きまくってもらえばよかった。ただ気持ちいいことだけを感じてこの夜を終えたかった。難しいことは明日にすればよかった。だけど一度でも浮かんだ友達の顔は消えてくれない。消えて欲しい、と思うことそのものに罪悪感を感じる。
「気になりだしたのは最近、みんな忙しそうになってお前とよく話すようになってから。ほら、僕ら結構気が合うだろ? それに、今日はあまり乗り気じゃなかったし早めに帰ろうと思ってたけど、その、たまたま会ったから、こう、勝手に自分の中で盛り上がって」
分かるよ、めっちゃ分かる。私だってそうだった。本屋で会った時、同じことを考えていた。今日ならお酒のせいにできるし、終電を逃しても明日は休みだし、それに、カフェで必死に私を引き止めている姿を見ていたら、正直、私って結構いい女なんじゃないかな、って思ってしまった。少なくても、優子になびかなかったけど私には食いついた、っていうのがすごく優越感だった。性格、悪いよね。自覚してる。できたら誰かに相談したい。そして『そんなの関係ないよ、だって好きになったんでしょ』とか安っぽい共感の言葉が欲しい。でも、こんなこと誰にも言えない。私にはこうやって墓場まで持っていく小さい秘密が多すぎる。
私は脚をアイツの腰に巻きつけて「しよっか」と言った。アイツは右手をベッドについて、左手でちんぽを支えながら私の中に入ってくる。初めてじゃないはずなのに凄くきつくて、奥に押し付けられた時は本当にそれだけでいっちゃうかと思った。真上はちょうど照明がきらめいていて、思わず「眩しい」と口にする。アイツは枕元の照明スイッチを手当たり次第に操作して、廊下側は点いたままだけど部屋の明かりは消すことに成功した。
暗闇の中、アイツの体が動き出す。ぱん、ぱん、と腰が打ち付けられて、ちょろい私はその最初の数回で軽くいってしまう。私は体中でアイツの体温を感じ、ぼんやり暗闇の天井を見ながら、これが映画だったらここでエンドロールが流れてくれないかな、と考える。そうすれば私の名前は最初か二番目か、主人公かヒロインかでいられる。だけどここで終わらないし、ハッピーエンドにもならない。
明日の朝には優子に嘘のラインを送って、夜にはきっとあいつとこれまでと同じ仲に戻っている。それが一番うまいやり方だ。そして何十年もあとにくる本当のエンドロールでは、きっと私の名前はスペシャルサンクスか、もしくは奴隷みたいな契約のせいでそこに載せることもできないかもしれない。
仕方ない。
私のせいだし。
それが私が望むことだ。
「あ、いくっ」
:::
改札前で結衣ちゃんはくるりと回れ右をし、「今日はありがとうございました」と頭を下げた。
「ありがとうもなにも割りかんじゃない」
「いえ、凄く楽しかったので。よければまた、ぜひ食べにいきましょう」
「じゃ、次は結衣ちゃんおすすめの所で」
「探しときますねっ」
結衣ちゃんはカバンにぶら下げたパスケースを手にとり、その瞬間「あ」と呟いた。「なに、忘れ物?」と訊ねると、
「いえ、でも、思いつきました。彼の、好きな所」
私はふっ、と吹き出し「今になってかい」と独り言のように言う。結衣ちゃんも照れくさそうに笑いながら「全然、当たり前のことなんですけど」と言いながら、
「私達、結構気が合うと思うんです」
その一瞬だけ、周囲のざわめきが遠のいた。うまく笑えていたか自信がない。だけど結衣ちゃんは変わらない微笑みを浮かべながら、
「彼も、その私の事を綺麗と言ってくれますし、一緒に話していて楽しいなと思えるところも多くて。ありきたりなんですけど、それが好きな所ですかね」
ある種の郷愁を感じてぎゅっと胸を締め付けられる。今、結衣ちゃんが立っている場所に、私も一晩だけいた事がある。恐竜がいた頃からありそうなあのボロホテルのきしむベッドの上で、私は確実に自分の人生の主人公であり、アイツにとってのヒロインだった。望みさえすればまだ私がいたかもしれないその位置に、今や正真正銘のヒロインがいて光を受けている。幸せな笑顔と本物の美貌。観客席にいるだけの私は何も出来ず、その権利もなく、ただその幸せを見つめることしか出来ない。
「最後の最後にのろけてくれるわね」
自分でも随分わざとらしいな、と思える口調で結衣ちゃんを小突く。結衣ちゃんは「すみません」と言いながら幸せの笑みを崩さず、そのまま改札を通り抜けていく。
「それでは、またラインします」
私は人混みの中に消えていく結衣ちゃんの背中を、いつまでもいつまでも眺めていた。
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