krystallos

みけねこ

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ほんの一コマ

母の愛

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 窓から外を眺めて子守唄を口ずさみながら、腕の中にある小さな赤ん坊の身体を揺らす。こんな穏やかな時間の中この子の成長を見守ることができたら、どれほど幸せなことだろう。
 けれどそんな些細な幸せすらも難しいことを、私は知っている。せめて目の色だけでも、でもその思いは届かなかった。私と同じ目と髪の色、それだけで今後この子に待ち受けている試練に打ち拉がれる。せめて、争いなどない穏やかな時代であればとどれほどよかったか。
 でも僅かな時間だけでもいい、この子と穏やかに過ごせることを感謝しよう。そう思ったばかりだというのに。この空間に似つかわしくない音が家の外から聞こえてくる。
 ああ、どうして。木々は揺らめき空はこんなにも晴れやかだというのに。
「イグニート国の兵士らしき奴らが周辺をうろついているらしい。早く逃げろ!」
「どうして……ここはミストラル国領土だというのに」
 慌ただしく帰ってきた夫に表情を歪める。ここはリヴィエール大陸の端にあるほんの小さな名もなき村だというのに。なぜこんな場所にもイグニート国の兵士がやってくるのか。
「奴らはそんなことどうでもいいんだよ。『赤』が見つかり次第どの国であろうと連れ去ろうとしている。ここも見つかるのも時間の問題だ。君は子どもと一緒に逃げるんだ」
 他国の領土に侵入すれば問題になる。だから奴らは一応偽装してその辺りを彷徨いている。見つかったとしても相手の口を封じればいいという安易な考えだ。他国に踏み入れて暴れたところで罪悪感なんて持ってはいない。
「あなたはどうするの……⁈」
「……その子が生まれた時に決めただろう。何があっても俺たちがその子を守ろう、って。だから」
 一気に外が騒がしくなる。声はこの村の人たちのみならず、恐らく兵士たちが発しているんだろう。怒号が響き渡り、村人たちに威圧的な態度で問い詰めようとしているのがここまで伝わってくる。そんな兵士たちがこのまま大人しく国に帰るわけがない。
「急げ! ここは俺が食い止める。君たちだけでも逃げるんだ!」
「あなたっ」
「ここにいるのはわかっているんだぞッ! 早く出てこいッ‼」
 等々家ドアの前から聞こえてくる声に、私たちの平穏がもう終わってしまったのだと唇を噛みしめる。村の人たちが家の外で立ち塞ごうとしてくれているのがわかる。夫も、使い慣れていない剣を片手に家から出ていく。私も彼らと同じように魔術を使って戦えるのに、でもそうした場合この子を一人置いていくことになってしまう。
 涙を堪えて転移魔術を使う。せめて私たちがいなくなったことに気付いた兵士たちが、彼らに害を成すことがなくなるようにと祈りながら。

 一度見つかってしまったら終わりだと、他の『赤』から言い伝えられていた。なぜこうも執拗に『赤』を襲うのかわからない。私たちは別に一団となって彼の国を襲ったわけでもない。ただ、『赤』というだけで彼の王は恐れているのではないか、という話がちらほらと出ていた。
 『赤』はどの色よりも優れている、という言い方は私は嫌だけれど、でも実質的にそうだ。『赤』を上回る術者はこの世にはいない。しかし昔は今よりもっと数が多かったと聞いたけれど、こうして減ってしまったのもきっと何か理由があるに違いない。それが、私たちが見つかると追われている理由でもあると思えざる得なくなる。
 一度家に帰って夫や村の様子を見たい、そう思うけれどきっと今戻ってしまうのは得策ではない。私は夫と決めたように、ひたすらこの子を守るために逃げるしかない。
 でも、例え他より優れている『赤』と言えど、常に魔術を使っているとまるで毒に蝕まれていくかのように徐々に疲弊していく。物音や気配に敏感になり、イグニート国の兵士のものだとわかるとすぐに転移魔術を使う。恐ろしいことに、『赤』を捕らえるためにイグニート国の兵士は世界各地に潜んでいた。
 このままじりじりと追い詰められていくと、私だけではなくこの子も無事では済まされない。どうするのが一番、この子のためになるのだろう。そんな考えが頭の中をぐるぐると回る。
 そうして心身共に追い詰められていく中、森の中でひっそりと身を隠している時ふとあることを思い出した。曾祖母から聞いた話だ。まだ『赤』がめずらしい色と捉えられるのではなく、普通に生きていた時代。曾祖母が話していたまるでお伽噺のような昔話の内容を必死に記憶の奥から手繰り寄せる。
「……そうよ、あの場所なら……」
 迷っている暇なんてない。意を決して転移魔術を使う。この場所から少し離れていることと、私が疲弊していることを考えて一気に飛ぶのではなく徐々に近付くように転移しなければ。
 そうして目的の場所に移動し終えた時、私はハッとした。今各地で穢れが出現するようになってしまった世界で、この場所は他よりもずっと精霊の力で満たされている。これならば、とその場所でもより一層人目につかない場所へと移動する。
 せめて雨風がしのげる場所で、すぐに水を飲めるよう川が流れている近くがいい。本当ならばせめて残っている建物を選ぶべきなのだろうけれど、そこだと見つかってしまう可能性があるから。
 この小さな島の中で必死で探して、そしてやっと見つけたその場所にホッと息を吐き出した。ここなら、きっと大丈夫。
「ごめんね……あなたを守るためには、こうするしかないの」
 私が捕まってしまうのも時間の問題だから。今のところ私が見つかってしまっただけで、この子は見つかってはいない。だからせめて、夫と約束したようにこの子だけでも守らなければ。
 この子を包んでいた布が解くことがないよう、けれど締め付けることがないよう強く巻き付けて汚れない地面へとそっと置く。
 まだまだ幼い顔が、自分が置かれている状況がまったくわからない我が子がくりくりと可愛らしい目を私に向けてくる。伸ばしてくる小さい手を、ずっと握れたらどれほどよかったか。どれほど幸せなことだったか。
「女神エーテル、あなたの加護でどうかこの子をお守りください……!」
 あなたが降り立っていたと言われているこの地ならば、きっとこの子を守れるはず。まだ女神の力が残っているのか穢れが発生する恐れもないし、それにここに溢れている力だけでこの子は生きていけるはず。
 可愛い我が子を眺めていると、名残惜しくなってしまう。私を追ってイグニート国の兵士がここに来てしまうと元も子もない。今ならまだ女神の力が残っているから他の誰かがこの島に上陸することは難しいだろう。でももし女神の力が弱まってしまえば、イグニート国の兵士も簡単にこの島にやってくることができてしまう。
 だからせめてこの子はここにいないものだと思わせなければ。ここには誰もいない、だからここに来ても無意味だと信じさせなければ。
「……ずっと一緒に、いたかった」
 この子から、お母さんと呼ばれる日を楽しみにしていた。その日まで傍にいたかった。それももう叶わない。まだ言葉を発することができない我が子の額にキスを落として、私は転移魔術を使った。

「見つけたぞ!」
 せめて夫がどうなったか知りたい、そう思って村に向かっている最中だった。等々兵士たちに追いつかれた私は四方を囲まれ剣を突きつけられた。
「やはり『赤』のようです。どうします、このまま連れていきますか」
 一人の男がそう口にした途端空間が歪み、背筋に悪寒が走る。転移魔術で現れた男は私たちと同じ人間だというのに、言いようのない何かに感じた。
「その必要はない。このまま、奪い取る」
「しかし、『赤』は『赤』でもごく一般的な」
「我の目は騙されはしない」
 伸ばされた手のひらに、酷い頭痛を覚えた。自分に施している魔術に干渉されているのがわかる。そんな、私の魔術は他の誰にも見破れはしないはずなのに。そう思っていてもまるで端からどんどん剥がされていくような感覚だった。
 そうして施している魔術が破られた瞬間、辺りの兵士たちが息を呑む。
「ッ……!」
「青髪……⁈」
「己を偽る魔術か。お前たちハルシオンの民は何でも有りだな」
 ハルシオンという名は曾祖母から聞いていた。昔私のような青髪の者たちはその土地に住んでいたのだと。けれど滅ぼされ、生き残った者たちは各地に散り散りになった。曾祖母の親もその一人だった。
「これはいい。ハルシオンの民ならばその魔力も上質なものだろう」
「あなたは『赤』の瞳の者たちに何をしているのっ……⁈ そして、あなたは一体何者なのよ⁈」
「ハッ、この女。どうやら愚か者のようです。貴方様のことも存じ上げないとは」
「所詮田舎者だからだろう。どうしますか、イグニート国王」
 兵士たちの言葉に絶句する。まさか一国の王が『赤』の瞳を狙ってわざわざ自ら動いているというのだろうか。
 王と呼ばれた老人は僅かに口角を上げ、何もない空間から一つの剣を取り出した。一見透明度のある美しい剣のように見えるけれど、この目で見るとなぜかそこから禍々しいものも感じる。
「お前を匿っていた者たちと同じ場所に送ってやる」
 突きつけられた剣先よりも、その言葉に絶望した。私のことを守ろうとしてくれた村の人たち。そして、私の夫。一人の兵士が私に対して何かを投げ込んできた。地面に転がったそれを見て、悲鳴を上げる。
 同時に、剣に貫かれた。腹から血が出ていないというのに、自分の中にある魔力がどんどん奪われていくのがわかる。そこですぐにわかった。一般的にいたはずの『赤』の数がどんどん減っていったのを。そして、目の前にいる男の異様な存在を。
「随分と濃い魔力だ。これでまた我の力が増幅する」
 このまま奪われたままでいるものかと、まだ僅かに残っている魔力を総動員させる。大地の穢れは人の血から発生する。今各地で発生している穢れはイグニート国が血を流させているからだ。
 けれど、人の中にも穢れが宿る例があることも私は知っている。この男、こうしていくつもの人の魔力を奪ってきたに違いない。見た目に反して年齢は重ねているように見えるけれど、他の人の魔力で延命しているにすぎない。そして奪われた人たちは、好きで奪われたわけでもない。
 ならば私はその起爆剤となる。いつかきっと、この男が自らの行いで身を滅ぼすことになるように。
「ッ……⁈ 女、一体何をしたッ!」
「うっ……」
 そうして私はこの男から、我が子を守ってみせる。
 残っていた魔力の最後の一滴が、奪い取られた。身体に力が入らず地面に崩れ落ちる。脳裏に横切るのは夫の優しい笑顔、生まれたばかりの我が子。
 あの子の成長する姿を間近で見守っていたかった。大きくなったらきっと夫に似て、身長も私を抜いて立派な男性になっていたはず。もしかするとお嫁さんも連れてきたかもしれない。
 そんな夢を描きながら、重たくなってきたまぶたをそっと閉じた。どうか、どうか生きてほしいと願いながら。
 あなたを愛している、カイム。と、我が子の幸せを願いながら。
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