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ほんの一コマ
森の記憶①
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当時、別に国王が悪徳だったというわけでもなかった。寧ろ民の声に耳を傾け、周囲には心優しい王様だという認識であったと思う。けれどそれも長くは続かなかった。
争いを好んでいると認識であったイグニート国。向こうとこちらの領土の間にある自然の要塞である山脈がそびえ立っていたおかげで、イグニート国は簡単に攻め込むことはできないでいた。だが、ある日を堺に奴らはその山脈を越えようとしてきた。
もちろんその話はすぐに首都内に広がる。バプティスタ国がよく攻め込まれているという話はよく聞いていたからだ。だからいよいよ、等々、という言葉があちこちから上がっていた。バプティスタ国に攻め込んでいて、こちらに攻め込まない保証がどこにもなかったせいだ。
私の母は優秀な頭だった故に城に勤めていた。詳しい話は聞かされなかったが重宝されているということは人づてに聞いてはいた。その母が家に帰って来る度にどこか重々しい雰囲気になっていく様に、事態は私たちが思っているより深刻なものだと察せられた。
「母さん」
「……ああ、ごめんね。いつもご飯つくってくれてありがとう」
「ううん、それよりも早く休んだら? 顔色が悪いよ……」
「そう、ね……ご飯食べたら早く休もうかしら……」
本当はどういう状況になっているのか聞きたい。けれど母は私を心配させまいとそう簡単に口を割ることはしないだろう。そもそも口外できない内容も多いかもしれない。
顔色が悪いまま食事をする母に気遣わしげな視線を送りつつ、食べ終わり身体を引き摺りながら寝室に向かう姿に追い打ちをかけるような真似はできなかった。
けれど数日後、母の感情は爆発した。
「一体いつになったら決めるのよッ!」
激しく物に当たるような人ではなかった。けれど家に持ち帰った書類を叩きつけるように投げ飛ばした母に、小さく息を呑む。母がここまで感情を顕にするということは、もうすでに限界を迎えているということだ。
「どうしたの、母さん」
「あっ……ごめんね……あなたが悪いわけじゃないのよ。ちょっと、仕事のことでね……」
「母さん」
私に謝りながら散らばった書類を拾い上げようとする母の手に、そっと自分の手を重ねた。
「私は母さんに似ているの。何も理解できない頭じゃないわ。一体何があったのか、教えてくれる?」
「っ……! ……あの王は、優しいわけじゃない。ただの、何も決めることができない優柔不断な王よ……!」
言葉を詰まらせながらも、吐き捨てた母に椅子に座るように促す。それから母はゆっくりと教えてくれた。
実はイグニート国の兵士がじわじわと山脈を越え、周辺の村々を襲い始めたこと。このままだと我が国にも攻め込んでくるのも時間の問題とのこと。そうなったらもう遅いのだと今のうちにあらゆる手を打つべきなのに、王がいまいち踏み込んだことを一切言ってくれない。
理由としては、今襲われている村を放って首都のみに守りを固めるのはどうかということ。確かに王の言い分はわからないわけでもないけれど、その村はほぼ壊滅状態。今から救援に駆けつけてももう間に合わない。それならば次の村が襲われる前に手を打つべきだというのに、王から出てくる言葉は「でも」や「だって」というものばかりだそうだ。
「我が国には他所の国と違って魔力のない者が多い。他所のように戦うことはできないだろうと言うのよ。だから、私は前からガジェットにより一層力を入れるようにと進言していたのよ。それなのにっ……!」
「職人に対して、手厚い保障は未だにない」
「そうなのよ。時間とコストがかかるからってずっと先延ばしにされていたわ。でもガジェットがあれば例え魔力がなくとも、ある人間と同等の魔術を扱える。今この国にとって何よりも必要なものだわ!」
それなのに、と母は唇を噛み締めた。私は母がガジェットの促進に尽力していることをずっと見てきた。けれど、思うように事が進まないところも。
王は別に悪徳というわけではない。王は王なりに国民を愛している。けれど、優しさ故に周りに甘やかされてきた王は基本的に厳しさを持ち合わせていない。理想主義者であり現実を直視しようともしない。
ただその甘さで厳しいことを意見する母の首が未だに繋がっている部分もあるけれど、こうした非常事態の時にはどうしても頼りなさが目立ってしまう。母が憤り感情を爆発させるのは回避できないものでもあった。
「……私のほうでどうにかするしかないわ。時間が足りないかもしれないけれどやらないよりマシよ。やらないと……このままだとこの国は……」
頭を抱えていた母が顔を上げ、泣きそうな表情を浮かべて私を見つめてきた。
「……あなたを失うなんて、耐えられない」
「……母さん」
「あなたは私の宝なのよ、クレイン」
そう言って私の身体を抱きしめてきた母の腕は、震えていた。けれど、忘れてほしくない。私もまた母のことを愛していると。他の誰よりも大切に想っているのだと。
安全を考慮した上で、ガジェットの量産が急務とされた。恐らく王が決めたのではなく側近たちが独断で決行したのだと思う。母は忙しさ故に家に帰ってくることが少なくなり、自然と顔を合わせる時間もなくなっていた。
イグニート国の兵士の話が出てから王は国民たちの前に顔を出してはいない。噂によると心労が祟って寝込んでいるらしい。心労が祟っているのは王ではなくその側近たちではないかと正直思うところはある。民の前に立ち、民たちが不安にならないよう演説をする、という場面は一切なかった。
そして事態が悪化しているという実感を国民たちが持つことになったのは、目視できる距離で大きな爆発が起こった時だった。もうこんなにもイグニート国の兵士が迫ってきているのだと知り、首都は混乱に陥った。
こんな時、国民が不安にならないよう王が目の前に立ち声を上げてくれたら。そう多くの者が願っていても、王は一切姿を現さない。そのせいで王は自分だけ安全な場所に逃げているんじゃないかという噂まで立っている。けれどその噂を払拭する余裕がないほど、城のほうは慌ただしいのだろう。
この情勢でいつ金が支払われるかわからない状況でも、職人たちは必死でガジェットを作っていた。そもそも国が滅びてしまうと話にならない。自分たちの家族を守るために、大切な人を守るためにもみんな必死だった。私も、そして他の人たちも自分にできることがあるのならばとあらゆることに勤しんだ。
そんな中、数ヶ月ぶりに母が家に帰ってきた。久しぶりに目にした母は明らかにやつれ顔色も悪い。とにかく休んでほしい、と母に告げる前に母は倒れた。
本当なら重たいはずの身体は抱えてみると随分と軽くなっており、気力も感じられない。こんなになる前に帰ってきてほしかった、と思ってもそれができないことも重々にわかっていて奥歯を噛み締めながら母を寝室に運ぶ。
意識がないはずの母はずっとうなされていた。汗もかき始め発熱してきたのだとわかり、急いで濡れたタオルを額に置く。少しでも早くよくなるようにと手を握りしめてみるものの、母から握り返されることはない。ただひたすら、呻き声だけが聞こえる。
母が目を覚ましたのは三日後。熱も少し落ち着いた時だった。ゆっくりとまぶたを持ち上げ、小さく開閉する口に急いで水を与える。
「ど……て……」
「なに? どうしたの、母さん」
「どう、して……どうして、なのよっ……」
喋るのもつらそうなのに、それでも母は言葉を続けた。
これ以上我が国が攻め込まれるのならば、相手の要求を飲むと王は言い始めたそうだ。まず王が喋れるほど元気なのだということがわかった。母はこうして喋るのもやっとだというのに。
イグニート国の要求は、我が国が相手の国の傘下になること。それならばこれ以上攻撃はしないとのことだった。普段はそこまで感情が動くことはないのにその言葉にカッと頭に血が上った。そんなこと、そんな要求飲めるわけがない。
イグニート国の傘下になるということは、属国になるということだ。国民は今まで通りの生活は叶わず奴隷のような扱いを受けることになる。それを、今この場をしのぐためにその言葉に頭を縦に振るというのか。
王が言うには国民の生活は保証されるとのことだが、その言葉の保証が一体どこにある。あらゆるところに戦を仕掛ける国が、そんな口約束を守るわけがない。今の状況では子どもでもわかることなのに、なぜ国の王である人物がそれをわからない。
「今、側近たちが必死にそれを止めようとしているわ……王がやろうとしていることは、この国を売るということだもの……あんなもの、優しさじゃないっ……!」
「母さん。わかった、わかったから……今は休んでよ。お願い……」
「……ごめんね、クレイン……」
ここのところ母は私に謝ってばかりだ。謝るようなことは何一つやっていないというのに。本来ならば、母がここまで弱ることもなかったというのに。
今までひたすら自分に言い聞かせてきた。平常心でなければ物事を正しく判断することはできないと。母がずっとそうしてきたように、私も常にそうあるべきだと。でもその母が感情を爆発させ、倒れるほど弱ってしまっている。
人は耐え続けているといずれ限界がやってくる。私にとってそれが今だった。今まで腹の底で沸々と沸き起こっていた怒りが、母が倒れたことによって外に溢れ出た。
それは平和を脅かしているイグニート国に対して。重要なところで決断できない不甲斐ない王に対して。
争いを好んでいると認識であったイグニート国。向こうとこちらの領土の間にある自然の要塞である山脈がそびえ立っていたおかげで、イグニート国は簡単に攻め込むことはできないでいた。だが、ある日を堺に奴らはその山脈を越えようとしてきた。
もちろんその話はすぐに首都内に広がる。バプティスタ国がよく攻め込まれているという話はよく聞いていたからだ。だからいよいよ、等々、という言葉があちこちから上がっていた。バプティスタ国に攻め込んでいて、こちらに攻め込まない保証がどこにもなかったせいだ。
私の母は優秀な頭だった故に城に勤めていた。詳しい話は聞かされなかったが重宝されているということは人づてに聞いてはいた。その母が家に帰って来る度にどこか重々しい雰囲気になっていく様に、事態は私たちが思っているより深刻なものだと察せられた。
「母さん」
「……ああ、ごめんね。いつもご飯つくってくれてありがとう」
「ううん、それよりも早く休んだら? 顔色が悪いよ……」
「そう、ね……ご飯食べたら早く休もうかしら……」
本当はどういう状況になっているのか聞きたい。けれど母は私を心配させまいとそう簡単に口を割ることはしないだろう。そもそも口外できない内容も多いかもしれない。
顔色が悪いまま食事をする母に気遣わしげな視線を送りつつ、食べ終わり身体を引き摺りながら寝室に向かう姿に追い打ちをかけるような真似はできなかった。
けれど数日後、母の感情は爆発した。
「一体いつになったら決めるのよッ!」
激しく物に当たるような人ではなかった。けれど家に持ち帰った書類を叩きつけるように投げ飛ばした母に、小さく息を呑む。母がここまで感情を顕にするということは、もうすでに限界を迎えているということだ。
「どうしたの、母さん」
「あっ……ごめんね……あなたが悪いわけじゃないのよ。ちょっと、仕事のことでね……」
「母さん」
私に謝りながら散らばった書類を拾い上げようとする母の手に、そっと自分の手を重ねた。
「私は母さんに似ているの。何も理解できない頭じゃないわ。一体何があったのか、教えてくれる?」
「っ……! ……あの王は、優しいわけじゃない。ただの、何も決めることができない優柔不断な王よ……!」
言葉を詰まらせながらも、吐き捨てた母に椅子に座るように促す。それから母はゆっくりと教えてくれた。
実はイグニート国の兵士がじわじわと山脈を越え、周辺の村々を襲い始めたこと。このままだと我が国にも攻め込んでくるのも時間の問題とのこと。そうなったらもう遅いのだと今のうちにあらゆる手を打つべきなのに、王がいまいち踏み込んだことを一切言ってくれない。
理由としては、今襲われている村を放って首都のみに守りを固めるのはどうかということ。確かに王の言い分はわからないわけでもないけれど、その村はほぼ壊滅状態。今から救援に駆けつけてももう間に合わない。それならば次の村が襲われる前に手を打つべきだというのに、王から出てくる言葉は「でも」や「だって」というものばかりだそうだ。
「我が国には他所の国と違って魔力のない者が多い。他所のように戦うことはできないだろうと言うのよ。だから、私は前からガジェットにより一層力を入れるようにと進言していたのよ。それなのにっ……!」
「職人に対して、手厚い保障は未だにない」
「そうなのよ。時間とコストがかかるからってずっと先延ばしにされていたわ。でもガジェットがあれば例え魔力がなくとも、ある人間と同等の魔術を扱える。今この国にとって何よりも必要なものだわ!」
それなのに、と母は唇を噛み締めた。私は母がガジェットの促進に尽力していることをずっと見てきた。けれど、思うように事が進まないところも。
王は別に悪徳というわけではない。王は王なりに国民を愛している。けれど、優しさ故に周りに甘やかされてきた王は基本的に厳しさを持ち合わせていない。理想主義者であり現実を直視しようともしない。
ただその甘さで厳しいことを意見する母の首が未だに繋がっている部分もあるけれど、こうした非常事態の時にはどうしても頼りなさが目立ってしまう。母が憤り感情を爆発させるのは回避できないものでもあった。
「……私のほうでどうにかするしかないわ。時間が足りないかもしれないけれどやらないよりマシよ。やらないと……このままだとこの国は……」
頭を抱えていた母が顔を上げ、泣きそうな表情を浮かべて私を見つめてきた。
「……あなたを失うなんて、耐えられない」
「……母さん」
「あなたは私の宝なのよ、クレイン」
そう言って私の身体を抱きしめてきた母の腕は、震えていた。けれど、忘れてほしくない。私もまた母のことを愛していると。他の誰よりも大切に想っているのだと。
安全を考慮した上で、ガジェットの量産が急務とされた。恐らく王が決めたのではなく側近たちが独断で決行したのだと思う。母は忙しさ故に家に帰ってくることが少なくなり、自然と顔を合わせる時間もなくなっていた。
イグニート国の兵士の話が出てから王は国民たちの前に顔を出してはいない。噂によると心労が祟って寝込んでいるらしい。心労が祟っているのは王ではなくその側近たちではないかと正直思うところはある。民の前に立ち、民たちが不安にならないよう演説をする、という場面は一切なかった。
そして事態が悪化しているという実感を国民たちが持つことになったのは、目視できる距離で大きな爆発が起こった時だった。もうこんなにもイグニート国の兵士が迫ってきているのだと知り、首都は混乱に陥った。
こんな時、国民が不安にならないよう王が目の前に立ち声を上げてくれたら。そう多くの者が願っていても、王は一切姿を現さない。そのせいで王は自分だけ安全な場所に逃げているんじゃないかという噂まで立っている。けれどその噂を払拭する余裕がないほど、城のほうは慌ただしいのだろう。
この情勢でいつ金が支払われるかわからない状況でも、職人たちは必死でガジェットを作っていた。そもそも国が滅びてしまうと話にならない。自分たちの家族を守るために、大切な人を守るためにもみんな必死だった。私も、そして他の人たちも自分にできることがあるのならばとあらゆることに勤しんだ。
そんな中、数ヶ月ぶりに母が家に帰ってきた。久しぶりに目にした母は明らかにやつれ顔色も悪い。とにかく休んでほしい、と母に告げる前に母は倒れた。
本当なら重たいはずの身体は抱えてみると随分と軽くなっており、気力も感じられない。こんなになる前に帰ってきてほしかった、と思ってもそれができないことも重々にわかっていて奥歯を噛み締めながら母を寝室に運ぶ。
意識がないはずの母はずっとうなされていた。汗もかき始め発熱してきたのだとわかり、急いで濡れたタオルを額に置く。少しでも早くよくなるようにと手を握りしめてみるものの、母から握り返されることはない。ただひたすら、呻き声だけが聞こえる。
母が目を覚ましたのは三日後。熱も少し落ち着いた時だった。ゆっくりとまぶたを持ち上げ、小さく開閉する口に急いで水を与える。
「ど……て……」
「なに? どうしたの、母さん」
「どう、して……どうして、なのよっ……」
喋るのもつらそうなのに、それでも母は言葉を続けた。
これ以上我が国が攻め込まれるのならば、相手の要求を飲むと王は言い始めたそうだ。まず王が喋れるほど元気なのだということがわかった。母はこうして喋るのもやっとだというのに。
イグニート国の要求は、我が国が相手の国の傘下になること。それならばこれ以上攻撃はしないとのことだった。普段はそこまで感情が動くことはないのにその言葉にカッと頭に血が上った。そんなこと、そんな要求飲めるわけがない。
イグニート国の傘下になるということは、属国になるということだ。国民は今まで通りの生活は叶わず奴隷のような扱いを受けることになる。それを、今この場をしのぐためにその言葉に頭を縦に振るというのか。
王が言うには国民の生活は保証されるとのことだが、その言葉の保証が一体どこにある。あらゆるところに戦を仕掛ける国が、そんな口約束を守るわけがない。今の状況では子どもでもわかることなのに、なぜ国の王である人物がそれをわからない。
「今、側近たちが必死にそれを止めようとしているわ……王がやろうとしていることは、この国を売るということだもの……あんなもの、優しさじゃないっ……!」
「母さん。わかった、わかったから……今は休んでよ。お願い……」
「……ごめんね、クレイン……」
ここのところ母は私に謝ってばかりだ。謝るようなことは何一つやっていないというのに。本来ならば、母がここまで弱ることもなかったというのに。
今までひたすら自分に言い聞かせてきた。平常心でなければ物事を正しく判断することはできないと。母がずっとそうしてきたように、私も常にそうあるべきだと。でもその母が感情を爆発させ、倒れるほど弱ってしまっている。
人は耐え続けているといずれ限界がやってくる。私にとってそれが今だった。今まで腹の底で沸々と沸き起こっていた怒りが、母が倒れたことによって外に溢れ出た。
それは平和を脅かしているイグニート国に対して。重要なところで決断できない不甲斐ない王に対して。
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