krystallos

みけねこ

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ほんの一コマ

不変の男

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 子どもの頃、父と母に連れられて一度も行ったことのない場所へと向かった時があった。ただそこがどういう場所で、父がどういう用事があって赴いたのかは子どもながらわかっていたつもりだ。ただ、俺を連れて行くのはその時が初めてだった。
 その場所に辿り着き、その場所にいる者と話し込む父。母は長くなるだろうから遊んできてもいいと俺に告げた。ただしあまり遠くに行かないよう、離れた場所で遊ばないようにと付け加えて。正直父と相手の会話はかなり込み入ったものであり、当時は理解することができず時間を持て余していたところはあった。
 母の言葉に頷きその場を離れ、外へ出た。周囲にはそこで働いている者たちがいたがほとんどが大人。話が合いそうな年齢の子どもは見当たらない。それならばと近くにある木々へと足を向けた。たまにだが、自分なりに特訓と称して木登りなどをする年頃だったのだ。
 周囲は木々で囲まれていたためどの木が一番登りやすいか、などと思いながら見渡していたが、気付けば木についている昆虫に夢中になるようになっていた。自分が住んでいる場所よりも木が多かったため、昆虫を目にする頻度も高い。見るだけでもどこかわくわくとさせ、気付けば足は奥のほうへと向かっていた。
「あ……」
 はたと気付いた時にはもう遅い。辺りを見渡してみると見覚えのない場所へと辿り着いている。そもそも周りは木々しかなく、自分が一体どこから来たのかもわからなくなっていた。もしこれが二、三度来た場所であればすぐさま道を覚え引き返すことができる自信はあった。だが初見では流石に道は覚えきれない。しかも木に留まっている昆虫に集中していたから尚更だ。
 咄嗟に空を見上げ、時間の経過の確認をする。森に入る前は太陽は真上にあったはずだというのに、今はだいぶ傾いて来ている。話し込んでいる父の用事はまだ終わらないだろうが、俺のほうは今戻らなければならないと内心焦った。今でも道がわからないというのに、もし日が傾き辺りが暗くなってしまえば尚更道がわからなくなるからだ。
 もし建造物が見える範囲であれば明かりが灯り、それを目印にして進むことができただろう。しかしいくら見渡しても視界は木々で遮られている。父と母がいる建物を見ることができなかった。
 せめていつものように、目印をつけて歩けばよかったものの。自分の不甲斐なさに歯ぎしりしながらも、取りあえず太陽を目印にして方向の確認だけはしようともう一度辺りを見渡す。あの建物は、どっちの方面に立っていただろうか。
 平常心であればすぐにわかるようなものなのに、あの時の俺は子どもだった。未熟だった。焦燥感に襲われ尚更わからなくなる。
「どっち……どっちだ……」
 そうしているうちに時間は経過し、太陽は更に傾く。夕暮れ時だったはずなのに森は徐々に影を落とし始めていた。この時焦っていた原因は、このままだと父と母が俺を探す羽目になるということだった。母に遠くへ行くなと言われていたのに、マヌケにも遠くへ行ってしまった自分の不甲斐なさ。
 背伸びをしたい年頃で、両親の手を煩わせたくはなかった。一人でも大丈夫だと強がりたかった。そうでなければ、俺は将来父のような立派な騎士にはなれないと思っていた。
「おや?」
 ガサッと草が揺れた音と共に聞こえた声に、一瞬小さく身体が跳ねた。慌てて振り返ると、こっちを見て首を傾げている男と目が合う。
「えーっと、この付近の子じゃないよね?」
 男の言葉に固まっていた俺は、慌てて首を縦に振った。
「間違えて森に入り込んじゃったのかな? そしたら私と一緒に教会に行こうか」
 男が言う教会には今、父と母がいる。俺の目的地でもあった。願ってもない言葉に再び急いで頷くと、男は両手に持っていた草の入っている籠を脇に抱え身を屈め俺のほうに手を伸ばしてきた。
「それじゃ行こう?」
 無意識に、伸ばされた手に自分の手を重ねていた。ギュッと握られた手はまったく強くなく、寧ろ包み込むような力加減だった。
 淀みなく男の足は森の中を真っ直ぐに進んでいく。こんな場所歩いてきたかな、と内心驚きながらも引かれた手につられるようについていく。するとあっという間に森を抜け出したではないか。目の前に森に入る前に見ていた建物が見えて、ホッと息を吐いたのと同時に身体の力が抜けた。
 教会の扉が開かれ、そこから父と母が俺のところへ駆け寄ってくる。一体どこにいたんだ、心配したのよと二人から同時に言われ、途端に羞恥に襲われ「ごめんなさい」と言うことしかできなかった。
 俺の隣にいた男は父と母のあとから出てきた教会の人間と軽く挨拶を交わしていた。それに気付いた父と母が男に対して頭を下げる。
「連れてきてくださってありがとうございます」
「いえいえ、たまたま森の中で会っただけなんです。手を繋いでいたのも、ほら、私が転けて持っている薬草を落とさないようにって繋いでくれたんですよ」
 思わず目を丸めて男に勢いよく振り向いた。そんな会話、一度もこの男とはしなかった。手を繋いでいたのも、恥ずかしいが俺がまた森で迷わないためだろう。
 男はわかっているんだ。俺が今どんな気持ちでいるかを。子どもの小さいプライドのために、平気で嘘を吐いた目の前の大人に驚きを隠せない。
 その男と目が合い、男はこっそりと片目を閉じて俺に笑みを向けてきた。
「まったくお前は……」
「ははは、いいじゃないですか。ね? 実際いっぱい薬草持っていたわけですし」
「まぁ、色んな意味でご苦労だった」
「いえいえ」
 教会の者とさっきから親しげに話しているようだが、今更ながらこの男も教会の人間なのだろうかと内心首を傾げる。男が着ている服はその辺りの村人の男が着ているようなもので、教会とはまったく結びつかない。
 すると父と母が教会の者に挨拶をしている間に、男が俺のところに来て身を屈めた。同じ目の高さのせいで、尚更その真っ赤な瞳がよく見える。
「よかったらまた遊びにおいで」
 そう言って笑顔を浮かべたかと思うとなぜか男の顔が近くまで来ていて、額に軽く何かが当たった。一体何をされたのか一瞬わからず、けれどそれが夜寝る前に母が俺にしてくれることと同じことだったとわかり、徐々に顔が熱くなる。
 自分がまだ子どもだということはわかっている。だがこの男と出会ってから俺はプライドだけは守られたが、ずっと子ども扱いをされていた。そのことで去っていったはずの羞恥がぶり返してきた。
「どうした? 父さんの用事も終わった。帰ろうか」
「大丈夫? 顔真っ赤だけど風邪でも引いたのかしら……」
「な、なんでもない!」
「それでは神父、またよろしくお願いします」
「こちらこそ。帰りはお気を付けて。君も、また会おう」
「あ、はい……」
 父と話し込んでいた教会の者にそう言われ、少ししどろもどろになりながらも返事をする。そういえば、俺もこのまま進めばこの教会と交流することが増える。
 俺に笑顔で手を振っているこの男とまた出会うことになるのかと、内心苦い思いで俺は父と母と一緒に帰路に立った。
「お前はまた……一体どの魔術を使ったんだ」
「まぁまぁ。今日のことを軽く忘れるぐらいの、弱い魔術ですよ。あの子の身体に害はありません」
「まったく。他にやり方があっただろう。あの子が可哀想だったぞ」
「あっはは、確かに」

 バプティスタ国の第二騎士団長に任命され、団長になって初めての遠征にラピス教会へと向かった。ラピス教会は本来べーチェル国の領土内にあるものの、来る者拒まずのスタイルでバプティスタ国の騎士の治療も受け入れている。
 遠征中に怪我は付き物。第二騎士団を連れてラピス教会の扉を叩いた。まずは教会に仕えている司祭が挨拶で顔を出し、怪我した者たちの治療に当たってくれている。
 その様子を眺めていると、奥のほうから一人の男が現れた。黒の神父服に身を包んだ男は目が合った瞬間、笑みを浮かべた。
「ようこそ、ラピス教会へ。神父のルーファスです」
 そう名乗った男は表情をそのままに手を差し伸べてきた。
 話は変わるが、どうやら俺は生まれつき魔術があまり効かない身体らしい。回復もやや効きづらいところもあるが、そこは怪我をしなければ問題ない。魔術が効かないことを重宝され、魔術を使う者がイグニート国の兵士にいた場合盾役として前線に立つことが多かった。
 そのことが発覚したのは騎士団に入団する前の身体検査だった。騎士になる者はすべて最初に検査を受けるのだがそこで発覚した。
「魔術が効きづらい?」
「ええ、そのようです。そしてどうやら貴方に魔術を施された痕跡があるのです」
「それは問題のあるものなのか?」
「安心してください。子どもに対するおまじない程度のものですよ。貴方の身体にまったく影響はございません。このまま騎士団に入団しても何も問題はございません」
 医師の言葉に、心当たりがあった。真っ先に子どもの頃に見た「赤」を思い出す。
 目の前の男が笑みを浮かべる。俺はあれから成長し目の前の男よりも背が高い。神父と名乗った男がわざわざ身を屈めて視線を合わせる必要はまったくない。
 施された術は、数時間の記憶を薄める程度の魔術だった。ただ相手が子どもだと忘れる可能性はあるとのこと。ただ、俺の身体は魔術が効きにくい。そんな効果の低い魔術があってないようなものだった。
 あの時の記憶を忘れさせようとしたのは、あの時の俺のプライドのことを思ってか。一瞬そう思ったが、今男を目の前にしてそうではないと確信した。あの時から十年以上は経っている。子どもが大人になり騎士団長にまでなれる月日が流れた。
 だというのに、目の前の男の容姿はあの時と一切変わってはいなかった。月日の流れを感じさせない不変に、無意識に眉間に皺が寄る。
 いつまでも差し出されている手に礼儀として己の手も差し出した。あの時はわからなかったが、教会にいる者にしてはしっかりとしている節々。厚い皮。そして何より自分も騎士になったのだからわかる。
 長い間剣を握り続けていた手が、そこにあった。
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