krystallos

みけねこ

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ほんの一コマ

一人の只人

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 隣から小さく息を吐き出す音が聞こえた。恐らくだが、もう一度出るだろう。そう予想していると時を置かずしてもう一度息は吐き出された。
 今自分たちの主は部屋の中で別の国の主と会議を開いている。それぞれ離れた場所でもこうして実際会わずして言葉を交わせるのだから、随分と便利なことだと思う反面、会議の最中私たちの立ち入りは許されてはいない。主が出てきてようやく、主の口から直接内容を聞くことができる。
 それならば宰相ぐらいは隣に置いておいてもいいものだろうが、恐らく下の者たちも知らない密約が交わされているのだろう。主には主のやり方がある、彼の下に就くと決めてから当人から真っ先に言われた言葉だ。それでもついてくるか、と言われ首を縦に振ったのは間違いなく自分だ。
 ならば自分ができることといえば、この部屋に誰一人立ち入らせないこと。護衛騎士として、何があろうともすぐにその御身を守れる場所にいることだ。
 そう考え気を引き締め背筋を伸ばそうとしたところ、もう一度隣から息が吐き出された。二度ではなく三度だったか、と頭の片隅で思いつつも予想より一つ多かったためにほんの僅かに視線を向けた。
「一体どうした」
「色々と考えているのだけれど……王は、その……お世継ぎはどうするのかと思って」
 同じように扉の前で控えていた宰相、もといシーナはそんな憂いを口にし小さく頭を傾けた。
 私たちの主であるミストラル国王には、未だにお世継ぎがいない。そもそも側室もいなければ正室もない、ご結婚すらされていなかった。
 これは一国の主として特殊なことだと流石にわかっている。べーチェル国はわからないが、バプティスタ国ならばそんな憂いはすでに解消されているだろう。そもそも問題にすら起きていないかもしれない。だがミストラル国はそうではない。それを宰相であるシーナが憂うのは当たり前のことかもしれない。
 だが、彼女が憂いていることはそれだけではないのだろう。王が王となる前、ほぼ同じタイミングで彼に仕えるようになったため彼女との付き合いもそこそこ長い。よって、ある程度その思考は読めるようにはなった。
「確かにお世継ぎがいないのは今後の課題だとは思うが」
「そうでしょう。けれど王からそういった話が一切出てこなくて……」
「……あわよくば、自分がその役を担おうと?」
「……なっ! な、なななっ何をっ、こ、言葉が過ぎるわシルト!」
「違ったか」
「違うっ」
 普段冷静にテキパキと仕事をこなす彼女がこのような反応をするとは、彼女の部下や同僚はさぞかし驚くことだろう。しかも隣にいる今の彼女は隠している本性もちらほら出ていて言葉遣いが元に戻っている。しかし器用な彼女のことだ、余程のことがない限りそのような失態は見せない。
 そもそも彼女がこれほど失態を見せる原因のほとんどは、王に関することなのだが。
「……私を馬鹿にしないでくれる? 私はそんな浅はかな想いで王に仕えているわけではないから」
「ただ純粋にお役に立ちたいだけだろう。知っている」
「くっ……私よりも先に王に仕えたからって、私よりも優位に立てるとでもっ……?」
「そもそも私はお前と競ってはいない。同じように王に仕える、同志だと思っている」
「……私だって、そうです。ただほんの少し悔しい気持ちが出ただけです」
 それとなく突き出されている唇がその気持ちを代弁しているようで、普段のポーカーフェイスはどこへやらと小さく口角が上がりそうになる。しかし今は勤務中、己を律する必要がある。
 しかし話は戻るが、シーナの憂いは今後それなりの問題になることもわかっている。世継ぎでどれほど問題になるのか、自分たちは十年以上も前に体験しているためその苦労を知っているつもりだ。今後もまたあのようないざこざは御免だと、当時を覚えている人間は誰でもそう思う。
 だからこそシーナは頭を抱えている。そしてどうにかして打開策はないか考えを巡らせている。だがいくつか抱えている問題で、そう簡単に解決できるものでもない。
「せめてお相手がいれば……」
「よう、楽しそうにお喋りしているな」
「っ、お、王っ」
「会議は終わったのですか?」
「ああ、ある程度話はつけた。待たせて悪かったな」
 突如背後の扉が開かれ、我らが主がひょっこりと顔を出してきた。王には悪いが、せめて音を立ててほしかったと思う。私は別にそこまで驚きはしなかったものの、完璧に自分の思考の海に溺れていた彼女はそれは盛大に身体を跳ねさせた。
「で。世継ぎがなんだって?」
「き、聞いていたのですかっ……⁈」
「悪い悪い別に盗み聞きしようってわけじゃなかったんだぜ?」
 いやこの顔は、盗み聞きしていたのだろう。恐らく会議も少し前に終わっていたはずだ。すぐに出ずに扉の前で盗み聞きとは王も人が悪い。
 王が歩き出したため自然とその後ろにつき、同じように歩き出す。王はそのおおらかな性格故に時間にあまり煩そうには見えないが、その実時間を無駄にしたくない方だ。歩きながらの報告などは日常茶飯事。とにかく動きを止めている時間はない。
「き、聞いていたのでしたら話は早いです。王、お世継ぎの件どうなさるおつもりですか。もしかして私たちの知らないところでどこかのご令嬢と逢瀬でもしていらっしゃいますか。それならそれでいいのですが」
「どこかのご令嬢とデートする時間もねぇよ。寧ろむさい野郎たちと酒を飲んでる」
「王! それもそれで問題です!」
「ちょっとした息抜きだろ」
 相変わらずこの二人はポンポンと次から次へと言葉が飛び出してくるな、と内心感心する。
「跡継ぎに関しては問題はないだろ。妹のところの娘が随分と優秀だと聞く」
「確かに素晴らしい才女ではございますが……」
「俺は今のところ正室も側室も取る必要はない。もう骨肉の争いはうんざりだ」
 あれほど時間を無駄に潰すもんはない、と続けられた言葉に自然と口を噤む。確かに、民たちにとって王族のいざこざなど関係ない。自分たちの日々の暮らしが大事で、そんなことで争う時間があるのならば少しでも自分たちに時間を割いてほしいと思うだろう。そして王はそれを熟知している。
 それに、兄弟間の争いは血生臭いものだ。実の父親を簡単に手に掛ける実の息子。そして半分血を分けた兄弟の手柄を平然と自分の手柄として奪い去ろうとする。
 手を取り合う兄弟がいないというわけではない。ただ側室が多い分考えの違いもより多く現れる。そこに野心というものが加わってくるとより泥沼化する。
「血なんぞ気にする必要はない。相応しい人間が出てくれば時を見てそいつにその座を明け渡す。それでいいだろう」
「……王が、そう仰るのであれば」
「ま、隠居して茶飲み仲間ぐらいいれば俺はそれでいい」
「私はお供しますよ、王」
「わ、私ももちろんお供します!」
「はははっ! 良い老後になりそうだな」
 王がその座を引いたところで、自分たちの王に対する敬愛が失われることはない。王がどこかへ行くというのであればそれにお供するだけだ。

「彼女に告げなくてよかったのですか」
 執務を終え一息ついた王にそう問いかける。彼女は今与えられた仕事をこなすため、城内を奔走している。私の仕事は王の護衛のため、同じ部屋に待機している状態だった。
 投げかけられた言葉に腕を上げ伸びをしていた王は、スッと身体の力を抜き頬杖をついた。
「世継ぎに関してはいつかは問い詰められるだろうなとは思っていた」
「正直に話してもよかったのでは? ……彼女の気持ちに気付いていないわけではないでしょう」
 王は、人の感情の動きにとても敏感だ。どんな小さな動きでもすぐに気付く。そして相手が何を望んで、何を考えているのか察する能力に長けていた。だからこそ王座につく前に声をかけた者たちは必ず、自分のあとについてくるという確信を持っていた。
 そんな王が、常に傍にいる宰相の感情に気付かないわけがない。その証拠と言わんばかりに王は僅かに口角を上げ、姿勢を正した。
「俺は人が好きだぜ。もちろんシルトやシーナ、俺を慕っている者だってそうだ。だがなぁ……そこから先の感情をどうも持つことができない」
「なぜか、お聞きしても」
「人のせいにするのはあれだが、母親のせいだな」
 王の母、という方は正室でもなく側室でもなく、前王のお手つきの街の娘。それによって王が王になるまでに受けた侮辱は相当のものだった。それを知っているからこそつい、その方のせいにしていいのではという考えが頭を過ぎってしまう。
「ただの気まぐれだったっていうのに、あの人はいつか自分を迎えに来てくれるんじゃないかって信じていたんだ。信じられるか? あのゲス野郎をあの人は愛していたんだよ。俺にはまったく理解できない感情だった。ま、そのせいでそれ係の感情を理解することを放置した。そしてこのザマだ」
「だから、誰かに対し恋愛感情を抱くことはないと」
「ああ。驚くことに一度もない。好きなことには好きなんだぜ? ちゃんとな」
 それは知っている。王は民を慈しんでいる。だが今の様子からすると、今後誰かを恋愛感情で愛することはないのだろう。
 しかしどこかそうではないかと思っている自分がいた。忙しなく動いている王だが、浮ついた話が今まで一度も浮かんではいなかったのだ。最初は上手く隠しているのだと思っていたが、長年傍にお仕えしてそうではないのだと知った。この方は常に、国のために動いている。自分のために動いている時間があまりにも少なかった。
 この方にあまりにも重い荷を背負わせてしまったのだろうか。まるで己の人生を国に捧げている生き様に、傍で見ているほうは切なくなる。しかし、それを彼に望んだのは間違いなくこの国の民。そして私たちだ。
「ま、そんな俺を憐れむのなら老後の茶飲み仲間になってくれよ」
「決して憐れんでなどおりません。貴方様は我らの誇りです。もちろん、老後の茶飲み仲間も喜んでお受けします」
「そう真面目に返事するなよ。俺が恥ずかしくなっちまっただろ」
 そう言っていつものように豪快に笑うのではなく小さく微笑む彼は、私たちでもあまり見ないただのカタラクト・ミストラルという一人の人間だった。
 もし彼の肩の荷がすべて降ろされた時、そのような笑顔を見れる日が多く見れるのだろうか。お世継ぎ問題など考えることなく、彼の一人の人間として生きる未来のほうをよくよく考えたいと心から切望した。
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