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閑話 無貌の辻斬り

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 思いのこもった筆が紙に走る。焦りを孕んだそれは段々と一つの形を成していく。
 お前には何の価値かおもない、とぼやいた男の声でのっぺらぼうは目が覚めた。ぼろ長屋のひと部屋にある一枚の未完成の絵の中にいた。
「ちぇ、いいよなア。兄さんの絵はまた売れたんだってサ」
男がぼやく。
「いいなア、おいらも売れてえなア……。田中先生の弟子って言うとサ、みんながみんな兄さんの話をするんだもん。おいらだって先生の弟子だぞ! なんならその偉い美成兄さんに手解きまで受けてんだぞ!」
男は胸を張る。しかしすぐに背中を丸める。
大店おおだなに生まれて、あの才能まであるんだもんなア、勝ち組・・・だよ──羨ましいなあ……おいらはめざしを齧ってる間に、きっと兄さんはどえらい魚でも食べてそうだもんなあ」

 筆が走る。走る。かた取られる。
 何も持たぬモノとして形づく。
 そうして描かれたのっぺらぼうは、しかしいつまで経っても顔を与えてはもらえなかった。なんだかんだ言葉を並べ、化け物絵にもならないと言っておいて、最後まで彼は顔をくれなかったのだ。
「顔が決まんねえなあ。いっそこのまま化け物絵に……いやいや、まんま未完成だしなあ。こんなんじゃ誰にもなれんな。むむむ、益々おいらみてェだが……いやいや、こんな絵のまま出したら大失態だぞ」
──大失態? このおれが?
──ああ、そんなに言うなら、顔が欲しい。
──何者かになれるという、その顔が。

 生み出した、それなのに与えてくれなかった。
 ならば自分で調達しようと、生まれたばかりののっぺらぼうは決心したのである。どうすれば良いかわからないが、何ができるかは何となくわかっていた。この男は名前も、顔もくれないが、立派な身体と刀はくれた。

 顔も、手癖も、此方こなたのなにもかも、人から学べばいいのだとのっぺらぼうは考えた。何もかもを呑み込んだ末になら顔のひとつやふたつ、得られるかもしれない。この男の言っていることも少しはわかるかもしれない。男の言うように、顔さえあれば何かになれるのかもしれないし、そうさえすれば己は堂々とこの世を闊歩できるだろう。

 そして最後にお前を食ってやろう────。

 食ってどうこうなるわけでもないが、大した意趣返しになるのでは、とのっぺらぼうはそう心に決めていた。顔を与えなかった化け物が、顔を携えて戻ればさぞ────故にあの晩、のっぺらぼうは絵から這い出て、長屋からも抜け出したのだ。


+++


「ひ、ひぃいい!」

 夜半に響く、叫び声。
 のっぺらぼうは抜け出してすぐに、隣の町で人を襲った。初めは勝手がわからずに逃したものの、三人ばかり相手にしてからようやくコツ・・を掴んできたのだ。
 あとは、簡単だ。
 闇に潜んで人を待つ。
 通りを歩く男を呑み込む。土手で涼む女を呑み込む。そうか、こうやって声を出せばいいのか。
 男を呑み込む。そうか、刀とはこう使うのか。
 女を呑み込む。そうか、この町はこういう風に広がるのか。
 呑み込む、呑み込む、呑み込む。
 学ぶ、学ぶ、学ぶ。
 試しに剣を振るう。艶っぽく声をかける。
 食えば食うほど、此方と縁が紡がれる。食えば食うほど、のっぺらぼうは鮮明に此方こなたに在れるのだと理解した。その姿を目にする人が増える。その度に呑み込む。呑み込むたびにその人たちの知恵や記憶を借りる。

──ああ、大分腹が膨れてきたな……。

 最後に呑み込んだのはどこぞの小坊主だ。
 ただこの時、近くに誰か他の人がいたらしい。つんざくような悲鳴が聞こえた。どたばたと逃げる足音。しばらく経つと誰か沢山の人が来る。一気に食べようかとも思ったが、すぐに考え直した。あの人数は厄介だと、少し前に呑み込んだ男の考えが頭をよぎったのだ。俺なら相手にしないぞ、と。
 のっぺらぼうは忠告に従って、暗闇に溶け込むようにして町をゆく。集めた知識で町をゆく。

──ただ、それでも顔は、手に入らなかった。
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