その角はやわらかな

鹿ノ杜

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 大学の構内はいくつかある建物のうち、一つや二つ、部屋に明かりが灯っているだけでひと気はなかった。裏手から忍び込んだ私たちは息をひそめながら建物の間を抜けていった。研究棟だろうか、三階建てから四階建てほどのレンガ調の建物が続いた。
 広い並木道に出る。街灯よりも背の高いイチョウの木々がまだ降り落ちる前の黄金色の葉をそのからだに蓄えている。気の早い葉が一枚、二枚と舞って闇の中に光の線を引く。意識を集中させる。イチョウの葉のにおいや走り去る車の音、誰かが開閉する扉、足音、近いようで遠い気配の中にナガトの痕跡を探そうとする。
 私はようやく気がついた。避けていた力をまた使っているということに。自然と駆け出していたし、自然と感覚の中にナガトを探していた。ナガトからは澄んだ風のにおいがしたが、夜風に乱されて頭上で入りまじり、確かな場所まではわからなかった。
 ゆき先輩はひと際、高いイチョウの木の根元で立ち止まり、幹に手を押し当てた。
「これじゃあ、らちが明かないな」
 そうつぶやくと彼女のからだは変幻をした。足元に制服が落ちるのと同時に彼女の小さなからだが飛び上がり、「ここからは別行動にしよう」と夜空に向かって姿を消した。
 月明かりのないことに気づく。街灯から落ちる白く冷たい光に残された制服が照らされている。ブレザーの内ポケットを探るとかたい感触がある。ゆき先輩の銃を取り出して握りしめる。冷たい手触り。おもちゃのような見た目とは異なり意外なくらい重く、火薬のにおいがほのかに甘く残っている。
 手当たり次第に進もうと再び走り出した。イチョウ並木を外れて駐車場に入った。疎らに停まった車。遠くまで響く自らの足音。意識が先へ先へと急いてナガトを追っていた。
 ふいに耳元で声がした。
「お前も来たのは意外だったな」
「先生……」
「もう、先生って呼ばなくて、いいって」
 駐車場の先、ちょうど街灯が途切れた先の暗闇から葉月先生の声がした。彼は実際の距離よりもずっと遠くにいるようだった。日だまりの枯れ草に似たにおいが彼の方から漂って、人のカタチをつくった。
「お前はもっと弱いと思っていた」
 どこか嬉しそうだった。声のした方に銃を向けた。闇の中に巨躯があった。犬よりももっと大きく、人を寄せつけないような威圧感、あれは狼の姿だ。
「別に俺は……お前たちのことが嫌いなわけじゃないんだよ」
 白と灰色の体毛はかすかに届く光の中で鈍く銀色に光っていた。黄色の瞳が私をじっとりと見つめた。彼は少しだけ口を開いて何かを言いかけた。でも、ためらいが生まれた。迷ったように瞳が美しい軌跡を描いて揺れた。銃を向けたまま彼の言葉を待った。私が引き金に指をかけることはきっとないのだろうと思えた。
(さようなら、葉月先生)
 彼は暗闇のさらに奥へと姿を消した。闇に溶けたように、においも消えてしまった。私の頼りない両手から銃が滑り落ちた。拾おうともしなかった。彼が去った方に向かって走ったけど、もう会えないとわかっていた。
 いつの間にかキャンパスの外れまで来ていたようで、一つ、二つ、三つ並んだプレハブ小屋と廃材置き場にでもなっているような空き地と、その先にほとんど廃墟のような建物があった。五階建てほどの高さで、今は使われていない研究棟なのか、入り口には工事用の柵が立っていた。
 話し声がした。建物の入り口から夜に浸み出していくように。
「母さんは見つからなかったよ」
 誰か、男の声がした。その後で、階段を駆け上がる反響した音が聞こえた。
「見つかるわけないだろ」
 ナガトの声がした。彼の声は震えていた。
 私は柵を飛び越えて建物の中に入った。ほこりっぽい、かびのようなにおいが充満していて鼻がきかなくなった。照明はついているはずもなかったが、誘導灯だけは生きていて、緑の光がかすかに廊下を照らした。
 あちこちが浮いて割れている古い床。壁のヒビ、すっかり崩れて開いた穴。鈍い足音が響き渡る高い天井。十字に走った雨漏りの跡が不吉なシルシに見えた。
 入り口からすぐの階段を駆けのぼって二階までたどり着いた。両開きの扉が床に投げ出されている部屋があって、その中から物音がした。私が飛び込んでいくと三人の姿があった。
 部屋は教室二つ分ほどの広さで黒いテーブルが中央にずらっと並んでいた。テーブルは実験機材や細かな器具であふれ返り、そのすき間に身を収めながらテーブルの上に立っているアリスがまず私と視線を合わせた。
「ヒロトくん、どうするの? 女の子の方まで来ちゃったけど」
 アリスは私と見つめ合ったままテーブルの上から器用に身を乗り出して壁際の棚に手をかけた。彼女は棚をゆっくりと傾けた。棚の扉が開いて、中に並んでいた薬品は次々と床に落ちて割れていった。
 部屋の奥にいたヒロトが声を荒げた。
「おい、やめろ」
 そう言いながら腹立たしげに黒板をたたいた。部屋の奥は一面が黒板になっていて、たたいた拍子に舞ったチリやほこりが窓から差し込んだ青白い光の中に浮かび上がり、きらめいていた。
 ヒロトの前にいたナガトは私を振り返り、力なく視線を落とした。
「頼むからじゃまをしないでくれよ」とヒロトがまた叫んだ。私に言ったのか、あるいはアリスに言ったのかもしれなかった。
「ナガト、おい、ナガト」一転してヒロトはささやくような声で言った。「どうなんだ。俺と一緒に来るか?」
 ナガトははっとして顔を上げた。視線をためらうようにヒロトに向け、それでも黙ったままだった。
「じゃあ、代わりに、あんたに聞こう」
 ヒロトはナガトの横を通り抜け、部屋の中央に歩み寄りながら私を見つめた。射すくめるような目つき。ナガトとそっくりな褐色の目が私をとらえて離さなかった。
「俺たちの居場所はどこにある? なぜ俺たちは自分の存在をごまかして、隠して、こそこそと暮らさなくちゃいけないんだ?」
「そんなこと、わかりません……私たちは、もう帰りますから」
「どこに帰るんだ? そこは本当にあんたの居場所か?」
 言葉を重ねるにつれてヒロトのいら立ちは増していき、ついにはため息と叫び声が混ざったような咆哮を上げながらテーブルの上に並んだ機材をつかみ取り、床にたたきつけた。
「本当の俺たちはどんな存在なんだ?」とヒロトはなおも続けた。くぐもった声で何か言葉の羅列を唱えながら、彼の視線は私を見つめたままうつろだった。
「ねーえ、どうするの?」とアリスがしびれを切らしたようにテーブルの上から声をかけた。「私、この子を壊しちゃいそうだよ」
 次の瞬間、アリスは私の目の前にいた。私は彼女に何か言おうとした。だけど私の腹部に強い衝撃があった。気づいたら壁際の棚まで飛ばされていて、落ちてくるものから頭をかばっていた。
 私を蹴り飛ばすその瞬間まで穏やかな様子で、笑みまで浮かべていたアリスの表情は豹変していた。彼女からは憎しみがあふれて、薄いガラスをぴりぴりと割っていくような嫌な音がした。顔の表面がうろこのような模様におおわれて、彼女のからだは変幻し始めていた。
「のうのうと楽しい学生生活を送ってどういうつもり? アスチルのくせに」
 アリスは自らを落ち着かせようとしているのか、しきりに唇をなめた。それは幼い頃に限って許される子どもっぽい悪癖のようにも見えた。
「おい、大丈夫か」
 ナガトが私に駆け寄ってきた。私を抱き起こそうとしてためらっているようだったから、私は「大丈夫だよ」とつぶやきながらゆっくりと立ち上がった。確かに腹部は鈍く痛んだが、腹の底から込み上げてくるのは苦しみや、ましてや怒りなんかじゃなかった。
「何なんだよ、お前ら」
 ナガトの声がまた震えていて、それは怒りのためか、あるいは……そうか、悲しいんだな。私たちは悲しかった。ヒロトやアリスの姿はきっと、例えば部長、例えば茜先輩やゆき先輩に出会えなかった私たちの姿なのかもしれなかった。
 アリスは気まぐれに部屋を出て行った。彼女の笑い声が廊下に高く響いた。
「ナガト、お前はそっちがいいのか」とヒロトがつぶやいた。正気に戻ったのか、目に意思が宿っていて、それは怒りの色に見えた。
「どっちがいいとか、そういうのじゃないよ」とナガトがようやく答えた。
「よくわからないな」
「そうだろうね、兄ちゃんなら……でも、どちらかを選ばなくちゃいけないなんて、そんなことないでしょ? もっと……自由なはずでしょ、俺たちは」
 ナガトは懸命に言葉を探してヒロトに訴えかけた。ヒロトは少し驚いているようだった。目をわずかに見開いて、それから記憶をたどるように目を細めた。
 そのとき、階下から地鳴りのような音がして壁や床、テーブルの上の機材が揺れた。間が開いてもう一度、今度はさらに強い衝撃があった。棚の上でかろうじてバランスを保っていた飴色のガラス瓶、平積みされていた書籍、ゴム製の管、用途もわからないような雑多な器具がばたばたと滑り落ちた。
「あいつ……」と舌打ちまじりに言いながらヒロトは部屋を飛び出した。
 私は深呼吸を一つしてナガトと顔を見合わせた。気づかないうちに拳をかたく握りしめていて、こわばった指をほどくと手のひらに爪の跡が残っていた。
「お前、よくここまで」
 ナガトも気を張っていたのか、力が抜けてかえっておかしさが込み上げているようだった。
「一緒に逃げてって言いたいところだけど……お兄さんと、もっと話したいんじゃないの?」
「うん……あのさ、俺、何度かこの場所に来たことがあるんだ。こんなにはひどくなかったけど、そのときから、かなりぼろくて、父さんがいた部屋は特にすきま風が冷たくて、氷の上に立っているみたいに、足元から寒くってさ。兄ちゃんと一緒に父さんの仕事が終わるのを待ってた。そういう場所だったんだ、ここは」
 ナガトは私を気づかうように、でも、力なく笑った。
「どうすればいいんだろう。俺は、どうしたかったんだろうな」
 まずは廊下に出ようと二人で開いたままの扉に向かっていると物が焼け焦げるようなにおいに気づく。見上げれば、天井をはうような黒い煙が廊下から入り込んでいる。廊下に出ると階段の下から黒煙がとめどなくのぼっていて、「さっきの衝撃、火をつけたのか」とナガトが慌てた声を上げる。「逃げないと」「どこに?」刺すような目の痛みに思わず顔を伏せる。そのまま身を低くして、「こっちだ」とナガトが走り出す方についていく。
 廊下の先にもう一つ、階段があった。反対側の階段よりはのぼってくる煙は少ないように見えたが、「屋上に逃げた方がいい」とナガトが言って、私たちは階段を駆け上がった。目をほとんど閉じながら、時おり煙にむせて、先を行く彼の足音だけを頼りにして……階段の踊り場と新しいフロアーをどれだけ繰り返しただろう、外からは五階建てくらいに見えたのに、いつまでたっても屋上につかなかった。
 私は思い切って立ち止まり、恐る恐る目を開いた。嘘みたいに静まり返っていた。地響きのように建物を揺らしていた音、さっきまですぐそこにあったナガトの息づかい、足音、迫りくる黒煙、刺激臭とその痛み、すべてが消え去っていて、私はただ階段の途中で立ち止まっていた。
 私の目の前には窓のない踊り場があって、少年が一人、私を見下ろしていた。
「また会ったね」
 大きめのパーカーのフードを頭からすっぽりとかぶって少年は顔を隠していた。
「僕のこと、覚えているよね」
「うん……あの日、公園まで一緒に行って……こんなところで何してるの? 早く、逃げないと。ここは危ないから」
 私は彼の手を引いて階段を駆け上がった。彼は大人しくついてきた。階段を上がり切ると次のフロアーに着くはずだったのに、また、窓のない踊り場があった。
「僕たちはもう、何度も会っているんだけどな」
 私の耳元で彼はささやくように言った。振り向くと、彼が目深にかぶっていたフードはめくれて、顔や頭があらわになっていた。
 彼の頭部には角が生えていた。
 こめかみから頭頂部に向かう途中、子どもらしいくせ毛の間から左右一対の角が伸びている。根元は太く、先端にいくほど細くなり色あせていく。左右それぞれの角は途中から二手にわかれ、後方に向かって大きく優雅な曲線を描いている。
「あなたは……」
「カエルラ。みんな、僕のことをそう呼ぶよ」
 月明かりが照らしているわけでもないのに、ほのかに青みがかった光の下でカエルラは笑っていた。
「僕の角に触ってみる?」
 彼はそう言って少し頭をかがめた。キシキシ。角の大きく湾曲した部分が私の目の前にあった。キシキシ。角は音を立てていた。強い圧力を受けてからだがきしんでいるような。キシキシ。穏やかな表情で微笑んでいる少年の、まるで悲鳴のようだった。
 優しくなでると、その角は意思を持っているみたいに青く応えた。手の中で青は少しずつ夜色に近づいて、眠れない夜の宙みたいに美しく、枯れ切った大樹みたいにかたかった。
「楓……きみには音が聞こえるんだね。僕たちのことを、アスチルのことを本当は信じているんだ。きみの遺伝子が濃いっていうこともあるかもしれないけど、それ以上に本能的なもので……僕たちが姿を変えること、いや、変わっていかなくちゃいけないってことに、きみは気づいている」
 カエルラは顔を上げ、私を見すえて続けた。
「僕は、きみのやわらかな角を見に来たんだよ」
 思わず自らの頭部に触れた。カエルラは小さく笑い声を上げた。
「生えたばかりの角は、知ってる? やわらかいんだよ? まだやわらかい角で世界に触れようとすれば、当然、傷つくことだってあるよね……少し昔話をするけど……僕たちのムラから世界を変えようと出て行った者たちがいたんだ。もう三年くらい経つかな。
 彼らは人間を傷つけた。その代わりに人間に処分された者もいた。当たり前だよね。何かを傷つければ何かに傷つけられる。それが自然のカタチだ。僕は彼らを止められなかった。実のところ、止めようともしていなかった……」
 一人、二人、と小さな指が数を数えた。去っていった仲間の数だろうか。
「アスチルだけのコミュニティがあるんだ。そこは、ムラと呼ばれている。きみも今度遊びに来るといいよ。僕らの力について、教えがあり、物語があるけれど、それらがテロリズムに直接に結びついているわけじゃない。わかるかい? 過激思想に染まる、いつの時代にも、どこにでも、一定数いる人のうちの何人かというだけで……」
「なんでこんなことをするの?」
「こんなことって?」
「暴走させること」
「ああ……あれは、ヒロトやアリスが、救われたいからやってるんだよ。僕たちはいつだって仲間がほしいからね。ヒロトは本当は寂しいんだよ、きっと。
 あれでも一生懸命なんだけどね……ヒロトはナガトを呼びに来たんだ。他にやりようはいくらだってあるはずなのに……幼くて、つたないよね。ヒロトは、ナガトが自分についてくると思ってるんだよ。おかしいよね。ナガトのことを、まだほんの小さな子どもだと思っているんだよ。
 救われたいから信じるんだ。信仰とテロリズムは違うでしょう? ねえ、楓……もう一度だけ聞きたいんだけど……きみは何を信じている? 信じたいものは何?」
 カエルラは一方的に話すだけ話すと私を試すように微笑みを浮かべた。私は彼の手を引いて、再び階段をのぼり始めた。彼は不思議そうに私の顔を見上げた。
「僕も連れて行ってくれるの?」
「あなたがいったい、誰なのか、私にはわからないけど、でも、危ないよ、逃げないと」
 小さな手が私の手を強く握り返して、彼は、「そっか」とつぶやいた。先に進むにつれて焦げたにおい、煙くささが感じられ、何個目かの踊り場を過ぎた後、ようやく屋上に出る扉が見えた。
「助けようとしてくれてありがとう。僕も、きみを守ろうかな」
 私の手を振りほどいてカエルラは先に駆け出した。
「不安を感じている? 不安というものに実は正体なんてないんだんだよ」
 そう言いながら、ドアノブに手をかけた。扉は勢いをつけて外に大きく開き、風が私の背を押すようにカエルラに向かって強く吹きつけた。彼の小さなからだがわずかに浮き上がったようにも見えた。
「僕のことはいいから、ナガトのことを助けてあげてよ」
 一度だけ私を振り返るとカエルラはパーカーのフードをかぶり直し、屋上に向かって姿を消した。「ばいばい。また会おうね」と彼がつぶやいたのを確かに聞いた。
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