その角はやわらかな

鹿ノ杜

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 屋上に出ると扉のすぐ近くにナガトがいた。屋上の向こう端にいるヒロトに向かって叫びながらちょうど駆け出したところだった。
「今は、兄ちゃんが何を考えてるのか、わかんないよ」
 屋上にはところどころ排気口があるだけで、後は何もなかった。建物の周りからは煙が夜空に立ちのぼっていて、遠くからサイレンの音も聞こえた。ヒロトがかぶっていたキャップが上昇気流にあおられて高く飛んでいった。
 ナガトの行く手を阻むようにアリスが立っていた。ナガトは高く飛び上がってアリスを避けようとしたのか、走る速度を上げた。そのままアリスの頭上を目がけて身を躍らせたナガトに向かってアリスが手を振った。アリスの右腕が伸びたように見えた。次の瞬間、ナガトのからだは地面にたたきつけられ、アリスの右腕が首にからまったまま、無理やりに立たされた。
「ヒロトくん、もう、いいんじゃないかな」とアリスが言った。
 ナガトのうめき声、首を強くしめつける嫌な音。アリスの白い細腕がナガトの首に幾重にも巻きついて、持ち上げられたナガトのからだはそのまま宙に浮いた。
 私は意識する前から歩き始めていた。屋上の塗装は頼りのない薄皮みたいにはがれて、ささくれ立っていた。一歩、また一歩と踏み出すたびにぱりぱりと靴底の下で割れていく感触があった。
「アリス、そのまま連れて来い」
 ヒロトが荒々しく声を上げた。
「だめだよ」と私は叫んだ。ヒロトににらまれた。身がすくんだ。私を貫くような視線に目を閉じたくなった。
「さっきから……なんだ、お前は。なぜここにいる? いったい、誰なんだ?」
「私は……」
 私の歩みはすっかり止まってしまった。苦しまぎれに身をよじっていたナガトもアリスの腕に手をかけたまま弱々しい呼吸をどうにか繰り返すだけだった。私は、それでも、目を閉じてしまうわけにはいかなかった。
「自分が何者かなんてわからないよ」
(目を閉じるな。迷ったら、目を開くんだ)
 今、私の目の前には三人のアスチルがいる。アリスの腕は銀白色のうろこにすっかりおおわれて、ナガトのからだを軽々と持ち上げる。ナガトはアリスの腕に爪を立てようとしている。力を振り絞っているからか、制服のブレザーの袖から見える腕には羽毛が生えかけている。ヒロトは今にも飛びかかってきそうないら立ちを私たちに向けながら、ふいに座り込む。視線はまだ、私に向けたままだ。私の言葉は彼に届くだろうか。
「少なくとも私は……私たちは人を傷つける存在なんかじゃない。私は苦しんでいる誰かのためにこの力を使いたい。私は森楓。私は猫と人間のアース・チャイルド。私のお父さんは、私を守ってくれた。だから、私の力も、きっと誰かを守るためにある」
 床を蹴って駆け出す。熱い息を吐く。からだが変幻をし始めて、強く踏み込んだ私の右足が、私をどこまでも連れて行くよ、と約束する(そうだ、これは約束みたいだ。でも、誰との?)。お父さんとの約束だよ、と心のうちでつぶやく。だって私はお父さんを信じているから。
 もう一度、熱い息を吐く。視界が低くなる。制服を脱ぎ捨てる。からだは風に乗るように軽くなる。リズミカルなステップ。アリスはもう目の前にいる。右の前足を大きく伸ばす。爪が、熱の宿った強固な爪が、避けようとして身をのけぞらせたアリスの右肩をかすめる。
 アリスはバランスを失って倒れ込んだ。ナガトも地面に投げ出されて、咳き込みながらも、すぐに立ち上がった。
 サイレンの音がもう間近に迫っていた。耳に痛いくらいの高音。息が苦しい。深呼吸をして、そうだ、数を数えないと。でも、からだの力が抜けていく。
「お前、おれの弟を本当に殺そうとしてただろう」
 ヒロトが言ったのを、私は屋上に倒れ込みながら、聞いた。
「そんなことないってば」
 アリスは私の視界の端で高く笑った。それから、渦を巻く黒煙の中に飛び込むように屋上から飛び降りた。少し間があって、羽ばたくような音がした。翼が風を切る音、そして、誰かがすすり泣く音も聞こえた気がして、でもそれ以上は何も聞こえなくなった。

 私を呼ぶ声がした。その声は「モリカ」と繰り返し私を呼んでいた。始めは、お父さんが呼んでいるんだと思った。優しい、男の人の声だったから。でも、お父さんは私のことを「モリカ」だなんて呼ばないじゃないか。
 目を覚ますと、私は羽毛の生えた腕に抱きかかえられていた。温かく、優しい感触。私はすっかり安心できた。ナガトの顔を見上げるとナガトも私を見つめた。
「大丈夫か? これで合ってるのか?」
「猫としての正しい抱かれ方なんて、私にだってわからないよ」
 遠くで人の喧騒が聞こえた。私たちは構内の裏手、人目につかない木陰にいた。立ち並ぶ研究棟の向こうからは、まだ黒煙が立ちのぼっていて、焼け焦げたにおいも染みついて離れなかった。
 ナガトの羽根が抜け落ちて宙を舞っていた。ナガトの腕はもうほとんど人間のものに戻っていて、それでも彼は優しく私を抱き留めていた。
「変幻するのって怖くない?」と私は言った。「もう、戻れなくなったらどうしよう、とかさ、思ったりしない?」
 ナガトは私から顔をそらした。
「ウルから教わったのは、人と関わったときのことを心に浮かべるってことなんだ。だから、お前のことを考えてた」
「そう……なんだ」
 私も何だか恥ずかしくなってナガトの顔を見られなくなった。
「もう降ろしてくれていいよ」
「そうだよな」
 ナガトは身をかがめ、私は地面に降り立った。力が抜けたようにナガトはそのまま地面に腰を下ろした。
「ねえ、小さな男の子を見なかった? たぶん、パーカーのフードをかぶっていて」
「子どもがこんなところにいるか?」
 ナガトは首を傾げた後で、私の後ろに向かって視線を投げた。
「二人とも、無事でよかった」
 振り返るとゆき先輩が私たちに走り寄ってくるところだった。
「誰かに家まで送らせるから……部長や、あの、伊野って子も無事だったみたいで……」
 ゆき先輩が説明してくれることを私はほとんど聞き取れなかった。
「その服、借りたんですか?」と私はゆき先輩の話をさえぎった。
 彼女はグレーのつなぎのようなものを着て、使い込まれたミリタリージャケットを肩にかけていた。彼女の、その、全然似合っていない姿を、私は決して忘れることはないんだと思った。
「ゆき先輩も一緒に帰るんですよね」
 続ける言葉に迷った末、私はかろうじて言うことができた。でも、ゆき先輩は困ったように笑うだけで、うなずいてはくれなかった。
「私はもう、学校には戻らないよ。実を言うと、高校生っていう歳でもないんだよね」
 何か話を続けないと、そう思うほど、言葉が出なかった。彼女は私に向かってしゃがみ込み、私の頭を優しくなでた。
「じゃあ、話はおしまい。今、人を呼んでくるから、ここで待っていて。今度は、ついてきちゃだめだからね」
 立ち上がり、私たちに背中を向けた。もう、振り返らなかった。だけど、消え入りそうな声で、「茜と部長によろしくね」とつぶやくのが聞こえた。
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