謂わぬおもひで

ひま

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春のはじめ

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「ハチちゃん、今日は私ここに居ないからね。」

その日野依は隣町へ行く用事があるようだった。俺は寂しげに答える。

「じゃあ…早く帰って来てね。」
「うん、約束。」
指切りげんまんをした時、ふっと昨日の記憶が蘇った。

「…あ、あのね、昨日の水仙しおれちゃったんだ。ごめんね。」
「あら、謝らなくていいわよ。お花が萎れるのは普通のことだもの。」
野依は俺の手をぎゅっと握ってこういう。

「また貰ってくるから、水仙もキャラメルも。帰って来たらまた一緒にご飯食べよ!」
「…うん!」

またいつものように彼女の優しい笑顔に押し負けてしまう。幸せなことだったと思う。

そうして野依は俺に手を振りながら歩いて行った。不言色が遠くなる。
(早く帰って来てね…)

そう思いながら、俺は背中を見送った。

---------

(遅いなあ…野依姉ちゃん)
夕刻を過ぎても野依は帰ってこなかった。
もしかして明日?まさか、そんな事一言も言っていなかったのに。
時間と不安ばかりが募っていく。

その時、部屋の芸妓や女将が忙しく出て来たのを見た。誰かから何か聞いている。

「…うそぉ」
「…ほ…に…」
聞き取れない。俺はもっと彼らに近づいてみた。

「…人力車に轢かれたって…」
「…野依が死んだ…本当に…?」

「死んだ?」
驚きのあまり声が出てしまった。有り得ない。
芸妓たちが一気に振り返る。

「…あんた、野依が世話焼いてた子よね?」
「およしよ、藤宵姉さん。」

“藤宵”と呼ばれた芸妓は俺に近づき真実を伝えた。
「あんたの世話してた姉ちゃんは死んだよ。事故だったんだ。」
「…嘘だ」
咄嗟に否定する。俺は受け入れられなかった。

「嘘じゃないよ。あの子は…」
「「絶対嘘だ!!」」

気付けば藤宵の手を振り払い母が寝ている小屋へ走っていた。
死んだということはもう二度と会えないこと。
齢五歳にして絶望的な現実を突きつけられ、泣くことしかできなかった。

小屋に入ると母が寝ている。もう俺にとっての母親はこの人しか居ないのか。

泣きながらとある考えが頭を巡る。
もうここに居ても仕方がない。きっと俺の世話は誰もしてくれない。この母と二人っきり…
「だったら俺は外に出たい。野依姉ちゃんに会いたい。」

心の奥底では死を受け入れていたが、どうしても彼女が生きている気がして仕方なかった。
手拭いと羽織を持ち涙を拭って外へ出る。しかし、

「何処行くんだい」
母に着物の裾を掴まれた。

「こんな夜更けに何処か行くなんて、あたしを困らせるんじゃないよ!」
「困らせなんかしないよ!」

咄嗟に俺は大きな声をあげる。
「いつも放っておいて、殴って!母さんは俺が嫌いだから!居なくなっても困らないよ!」
「まって」

母の言葉も聞かず俺は走り出した。着物の裾を掴む手も振り払って走った。
去り際に母の泣き声が聞こえた気がした。なぜ泣いていたのだろう。わからない。

小さな足で地面を蹴って目一杯走った。古びた門が見えた。この門を出れば外に出る。
足がすくんだ。その時、

「ハチちゃんはすごいねえ。きっと一人でもやってけるよ。」

(野依姉ちゃん…?)
確かに彼女の声がした。
微かに香るキャラメルの香り、しかし振り返っても不言色の着物と優しい笑顔は何処にもなかった。

(野依姉ちゃんが後押ししてくれた)
そう思って俺は門の外へ踏み出した。
怖いくらいに綺麗な星空の下俺は歩き出した。

四月のはじめのことだった。
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