君を飲む

碧峰あころ

文字の大きさ
1 / 1

君を飲む

しおりを挟む
 朝、目覚めると、少し濁った小さな水槽の中でベタが沈んでいた。だらしなく開かれたままのエラ、焦点の合わない大きな黒目。地面にぼてりと落ちた、開き切った真紅の椿の花のように、ピクリとも動く様子はなかった。





 ほっと白い息を吐きながら、水底に沈んだベタを横目に暖房をつける。水槽に取り付けられた水温計は九度を指していて、とても熱帯魚であるベタが生きられる水温ではなかった。水槽の前に腰を下ろし、水面をピチャピチャと叩いてみる。





「やっと死んだのね」

 



 意図的に抜かれたヒーターのコンセントをまとめながら、小さく呟く。冷たい水の中に手を突っ込んで、そっとベタを取り出した。手のひらにペタリとヌルついた感触が張り付いてきもちわるかった。虚な目を見つめているうちに、つい三ヶ月ほど前のことを思い出す。





「すげえ綺麗じゃん、なあ、飼うの簡単らしいし、ミキの家で飼おうよ。俺もミキの家行

ったらちゃんと世話手伝うから」





 魚なんて嫌いだった。水替えだってめんどくさいし、犬猫と違って撫でることもできないし、何を考えているかすらわからない。でも、無邪気に笑う彼と一緒なら、飼っていけると思っていた。



 そんな彼が理由もなしに「別れたい」と突然メッセージを送りつけてきたのが十日ほど前。既読も付かず、せめて理由だけでもと会社の前で待ち伏せしてみたら、赤いリップの女と仲睦まじげに腕を組んで出てきた。飲み込みきれない事実に気を失いそうになりながら、凍えた指先を温めながら家へ帰った。呆れて涙も出なかった。



 電気をつけると、餌を貰えると思ってベタが寄ってくる。濃艶な尾びれが憎らしくて、水槽から伸びていた全てのコンセントを抜いた。水の流れる音が消え、泡の弾ける音が溶けて無くなった。無音になった部屋の中で、自分の呼吸する音だけがやけに大きく響いていた。





 そして今日、ついにベタは死に絶えた。私の部屋にはもう、彼の存在を証明するものは一つしかなかった。





「お前で最後だ」





 トイレに流そうと立ち上がった時、楽しそうに世話をする彼の姿が、ベタの姿と重なった。彼と過ごした思い出がすり減った心を更に削っていく。急速に熱くなる目頭に、溢れさせてたまるか、ときつく唇を結んだ。決意とは逆に、閉じた瞼を涙が濡らしていく。





 あんな奴の為に溢れさせるくらいなら、飲み込んでしまえ。

 手のひらに乗ったベタを口の中へ放り込んだ。ヌルついた粘膜が舌の上を滑り、生臭さが鼻をねっとりと抜けていく。吐き出したくなる気持ちを手で口元を覆って抑える。舌で転がし、奥歯でゆっくり噛むと、風船が弾けるように口の中に苦味とえぐみが広がった。胃液が上がってくる予感がし、勢いに任せて飲み込んだ。にゅるりとソイツが喉を滑り落ちていくのを感じながら、そっと生臭い息を吐いた。私の中の、彼を証明する最後の存在が、消化され、ゆっくりと形をなくしていく。





 ぽたり。一粒だけ、熱い何かがフローリングへと落ちていった。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

奪った代償は大きい

みりぐらむ
恋愛
サーシャは、生まれつき魔力を吸収する能力が低かった。 そんなサーシャに王宮魔法使いの婚約者ができて……? 小説家になろうに投稿していたものです

夫から「用済み」と言われ追い出されましたけれども

神々廻
恋愛
2人でいつも通り朝食をとっていたら、「お前はもう用済みだ。門の前に最低限の荷物をまとめさせた。朝食をとったら出ていけ」 と言われてしまいました。夫とは恋愛結婚だと思っていたのですが違ったようです。 大人しく出ていきますが、後悔しないで下さいね。 文字数が少ないのでサクッと読めます。お気に入り登録、コメントください!

側妃の愛

まるねこ
恋愛
ここは女神を信仰する国。極まれに女神が祝福を与え、癒しの力が使える者が現れるからだ。 王太子妃となる予定の令嬢は力が弱いが癒しの力が使えた。突然強い癒しの力を持つ女性が異世界より現れた。 力が強い女性は聖女と呼ばれ、王太子妃になり、彼女を支えるために令嬢は側妃となった。 Copyright©︎2025-まるねこ

もう好きと思えない? ならおしまいにしましょう。あ、一応言っておきますけど。後からやり直したいとか言っても……無駄ですからね?

四季
恋愛
もう好きと思えない? ならおしまいにしましょう。あ、一応言っておきますけど。後からやり直したいとか言っても……無駄ですからね?

【完結】少年の懺悔、少女の願い

干野ワニ
恋愛
伯爵家の嫡男に生まれたフェルナンには、ロズリーヌという幼い頃からの『親友』がいた。「気取ったご令嬢なんかと結婚するくらいならロズがいい」というフェルナンの希望で、二人は一年後に婚約することになったのだが……伯爵夫人となるべく王都での行儀見習いを終えた『親友』は、すっかり別人の『ご令嬢』となっていた。 そんな彼女に置いて行かれたと感じたフェルナンは、思わず「奔放な義妹の方が良い」などと言ってしまい―― なぜあの時、本当の気持ちを伝えておかなかったのか。 後悔しても、もう遅いのだ。 ※本編が全7話で悲恋、後日談が全2話でハッピーエンド予定です。 ※長編のスピンオフですが、単体で読めます。

私の夫は妹の元婚約者

彼方
恋愛
私の夫ミラーは、かつて妹マリッサの婚約者だった。 そんなミラーとの日々は穏やかで、幸せなもののはずだった。 けれどマリッサは、どこか意味ありげな態度で私に言葉を投げかけてくる。 「ミラーさんには、もっと活発な女性の方が合うんじゃない?」 挑発ともとれるその言動に、心がざわつく。けれど私も負けていられない。 最近、彼女が婚約者以外の男性と一緒にいたことをそっと伝えると、マリッサは少しだけ表情を揺らした。 それでもお互い、最後には笑顔を見せ合った。 まるで何もなかったかのように。

番など、今さら不要である

池家乃あひる
恋愛
前作「番など、御免こうむる」の後日談です。 任務を終え、無事に国に戻ってきたセリカ。愛しいダーリンと再会し、屋敷でお茶をしている平和な一時。 その和やかな光景を壊したのは、他でもないセリカ自身であった。 「そういえば、私の番に会ったぞ」 ※バカップルならぬバカ夫婦が、ただイチャイチャしているだけの話になります。 ※前回は恋愛要素が低かったのでヒューマンドラマで設定いたしましたが、今回はイチャついているだけなので恋愛ジャンルで登録しております。

初恋の人と再会したら、妹の取り巻きになっていました

山科ひさき
恋愛
物心ついた頃から美しい双子の妹の陰に隠れ、実の両親にすら愛されることのなかったエミリー。彼女は妹のみの誕生日会を開いている最中の家から抜け出し、その先で出会った少年に恋をする。 だが再会した彼は美しい妹の言葉を信じ、エミリーを「妹を執拗にいじめる最低な姉」だと思い込んでいた。 なろうにも投稿しています。

処理中です...