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君を飲む
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朝、目覚めると、少し濁った小さな水槽の中でベタが沈んでいた。だらしなく開かれたままのエラ、焦点の合わない大きな黒目。地面にぼてりと落ちた、開き切った真紅の椿の花のように、ピクリとも動く様子はなかった。
ほっと白い息を吐きながら、水底に沈んだベタを横目に暖房をつける。水槽に取り付けられた水温計は九度を指していて、とても熱帯魚であるベタが生きられる水温ではなかった。水槽の前に腰を下ろし、水面をピチャピチャと叩いてみる。
「やっと死んだのね」
意図的に抜かれたヒーターのコンセントをまとめながら、小さく呟く。冷たい水の中に手を突っ込んで、そっとベタを取り出した。手のひらにペタリとヌルついた感触が張り付いてきもちわるかった。虚な目を見つめているうちに、つい三ヶ月ほど前のことを思い出す。
「すげえ綺麗じゃん、なあ、飼うの簡単らしいし、ミキの家で飼おうよ。俺もミキの家行
ったらちゃんと世話手伝うから」
魚なんて嫌いだった。水替えだってめんどくさいし、犬猫と違って撫でることもできないし、何を考えているかすらわからない。でも、無邪気に笑う彼と一緒なら、飼っていけると思っていた。
そんな彼が理由もなしに「別れたい」と突然メッセージを送りつけてきたのが十日ほど前。既読も付かず、せめて理由だけでもと会社の前で待ち伏せしてみたら、赤いリップの女と仲睦まじげに腕を組んで出てきた。飲み込みきれない事実に気を失いそうになりながら、凍えた指先を温めながら家へ帰った。呆れて涙も出なかった。
電気をつけると、餌を貰えると思ってベタが寄ってくる。濃艶な尾びれが憎らしくて、水槽から伸びていた全てのコンセントを抜いた。水の流れる音が消え、泡の弾ける音が溶けて無くなった。無音になった部屋の中で、自分の呼吸する音だけがやけに大きく響いていた。
そして今日、ついにベタは死に絶えた。私の部屋にはもう、彼の存在を証明するものは一つしかなかった。
「お前で最後だ」
トイレに流そうと立ち上がった時、楽しそうに世話をする彼の姿が、ベタの姿と重なった。彼と過ごした思い出がすり減った心を更に削っていく。急速に熱くなる目頭に、溢れさせてたまるか、ときつく唇を結んだ。決意とは逆に、閉じた瞼を涙が濡らしていく。
あんな奴の為に溢れさせるくらいなら、飲み込んでしまえ。
手のひらに乗ったベタを口の中へ放り込んだ。ヌルついた粘膜が舌の上を滑り、生臭さが鼻をねっとりと抜けていく。吐き出したくなる気持ちを手で口元を覆って抑える。舌で転がし、奥歯でゆっくり噛むと、風船が弾けるように口の中に苦味とえぐみが広がった。胃液が上がってくる予感がし、勢いに任せて飲み込んだ。にゅるりとソイツが喉を滑り落ちていくのを感じながら、そっと生臭い息を吐いた。私の中の、彼を証明する最後の存在が、消化され、ゆっくりと形をなくしていく。
ぽたり。一粒だけ、熱い何かがフローリングへと落ちていった。
ほっと白い息を吐きながら、水底に沈んだベタを横目に暖房をつける。水槽に取り付けられた水温計は九度を指していて、とても熱帯魚であるベタが生きられる水温ではなかった。水槽の前に腰を下ろし、水面をピチャピチャと叩いてみる。
「やっと死んだのね」
意図的に抜かれたヒーターのコンセントをまとめながら、小さく呟く。冷たい水の中に手を突っ込んで、そっとベタを取り出した。手のひらにペタリとヌルついた感触が張り付いてきもちわるかった。虚な目を見つめているうちに、つい三ヶ月ほど前のことを思い出す。
「すげえ綺麗じゃん、なあ、飼うの簡単らしいし、ミキの家で飼おうよ。俺もミキの家行
ったらちゃんと世話手伝うから」
魚なんて嫌いだった。水替えだってめんどくさいし、犬猫と違って撫でることもできないし、何を考えているかすらわからない。でも、無邪気に笑う彼と一緒なら、飼っていけると思っていた。
そんな彼が理由もなしに「別れたい」と突然メッセージを送りつけてきたのが十日ほど前。既読も付かず、せめて理由だけでもと会社の前で待ち伏せしてみたら、赤いリップの女と仲睦まじげに腕を組んで出てきた。飲み込みきれない事実に気を失いそうになりながら、凍えた指先を温めながら家へ帰った。呆れて涙も出なかった。
電気をつけると、餌を貰えると思ってベタが寄ってくる。濃艶な尾びれが憎らしくて、水槽から伸びていた全てのコンセントを抜いた。水の流れる音が消え、泡の弾ける音が溶けて無くなった。無音になった部屋の中で、自分の呼吸する音だけがやけに大きく響いていた。
そして今日、ついにベタは死に絶えた。私の部屋にはもう、彼の存在を証明するものは一つしかなかった。
「お前で最後だ」
トイレに流そうと立ち上がった時、楽しそうに世話をする彼の姿が、ベタの姿と重なった。彼と過ごした思い出がすり減った心を更に削っていく。急速に熱くなる目頭に、溢れさせてたまるか、ときつく唇を結んだ。決意とは逆に、閉じた瞼を涙が濡らしていく。
あんな奴の為に溢れさせるくらいなら、飲み込んでしまえ。
手のひらに乗ったベタを口の中へ放り込んだ。ヌルついた粘膜が舌の上を滑り、生臭さが鼻をねっとりと抜けていく。吐き出したくなる気持ちを手で口元を覆って抑える。舌で転がし、奥歯でゆっくり噛むと、風船が弾けるように口の中に苦味とえぐみが広がった。胃液が上がってくる予感がし、勢いに任せて飲み込んだ。にゅるりとソイツが喉を滑り落ちていくのを感じながら、そっと生臭い息を吐いた。私の中の、彼を証明する最後の存在が、消化され、ゆっくりと形をなくしていく。
ぽたり。一粒だけ、熱い何かがフローリングへと落ちていった。
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