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第一部 子育て同棲編
四話
しおりを挟むそして、約束の十五分前には我慢できなくなり、春太は足早に家を出てエントランスを潜る。
外に出ると凛とした冷たさに混じり太陽の暖かさを感じた。かじかむ指先を擦り、陽の当たる場所に身を寄せる。
そして、右京の運転する車を今か今かと待っていた時。
駅へと続く右斜め後ろから、名前を呼ばれて肩が揺れた。
反射的に振り返ってしまった体が竦み上がり、知らずに後ろへと後退る。
「はーるー。やーっと会えた」
微笑みの下に怒りを隠して賢吾が立っていた。
「なんで、ここに?」
「スマホ。お前みたいな尻軽を傍に置いてたんだ。スマホにGPSアプリいれて、ちゃんと管理しなきゃだめだろ?」
猫なで声で語る男の言葉がうまく飲み込めない。
一体、賢吾は何を言っているのだろうか。
春太がゆるりと首を振りながら、離れようと後退する。だが、賢吾はその距離を簡単に詰め寄ると、春太の顔を平手で殴りつけた。
「お前、ほんとうぜぇ」
「いっ」
「生意気なんだよ。俺が呼んだら言う通りにしてろ。なんで、お前如きのために俺がこんなところまで迎えにこなきゃならねーの?」
殴られた頬が痛みを忘れる間もなく、髪の毛を鷲掴みにされて、強制的に目を合わせられる。
賢吾の瞳は何よりも雄弁に苛立ちを語っていた。
瞳の苛烈な色に、どくどく心臓が早鐘を打つ。まるで、こめかみに心臓があるかのように、全身がうるさかった。
痛みよりも恐怖が上回り、震えていた唇が不自然な笑みの形を象る。
屈服してしまいたい。
だけど、ここでまた屈服すれば、春太はもう二度と変わろうなどとは思えない。
春太にとってまさに今、この一線を超えるか超えないかが、大きな選択に思えた。
「あ? なにその生意気な目」
「……っ」
「ごめんなさいだろ?」
髪を掴まれたまま鳩尾を殴られ痙攣する。引き攣れるような痛みに、喉の奥がぎゅうっと締まった。痛みで神経が鈍くなり、言葉が出てこない。
あれほど変わりたいと抱いた希望が、いともあっさり崩れていくのを感じる。
「お前、まだ分かってねーのな」
賢吾は嘲笑うと、春太の耳元で囁いた。
──お前みたいなゴミ。なんの価値もねーのに、拾ってやったの忘れた?
酷薄な言葉が耳から体内に入り込む。鉛のように全身に広がっていく。
ああ、そうか。ゴミはゴミでしかないもの。
俺って本当、馬鹿なやつ。
春太の体から力が抜けて、色のない瞳が賢吾を見上げる。ひくりと痙攣した口角を動かして、春太が言葉を紡ごうとした時。
長い腕が賢吾の手を払い落として、春太の体を攫った。
「なにをしている」
不遜な声音で、停止した空気を破り捨てたのは、美しい顔を顰めたルークだった。
「……ルーク」
呆然と春太が呟く。ルークはますます顔を顰めると、笑顔で取り繕った賢吾を見遣った。
「コレは私のだ。お前はなんだ?」
春太をコレといい、あまつさえ自分のものだと言い切る。なんて男だろう。傲慢で身勝手で、言葉が凶器になると知らない男。
なのにどうして春太は安堵しているのだろう。どうして、ルークの言葉には傷つかないのだろう。
「貴方こそ誰です? はるは俺の恋人ですが」
「……恋人? ああ。あの日にゴミ捨て場にコレを捨てた男か。ならば話は早いな。コレは既に私の所有物だ。お前のものでは無い」
ルークはぴくりとも表情を変えない。それだけでも言い知れぬ迫力があり、その場を支配していた。
だが、賢吾も笑顔を脱ぎ捨てると、嘲たようにルークを見上げる。
「あぁ。なるほどな。アンタも春太の具合にハマったってことか?」
「……」
「でもオッサン。こいつはさ、一人じゃ満足できねー淫乱なんだよ。俺が家に置いてやるまでは、何人もの愛人のあいだを渡り歩いてきた。だから、アンタも──」
「そうか」
賢吾が吐き出す言葉に耳を塞ぎたくなったとき、ルークの声が被さった。
そして、春太を背後に隠すと、賢吾の方に詰め寄り、上から見下ろす。
さすがの賢吾も、恐ろしいほど美しい男に圧倒された。
「お前だな。私と同じ獣以下というのは」
「は?」
その刹那。ルークの額が賢吾の額とぶつかり合う。ごちんっ、と骨のぶつかり合う酷い音が、薄い青空に吸い込まれていく。
「いっ、~っ! て、めぇ!」
「知っているか? 心を踏みにじる存在は人間でも吸血鬼でもなく、獣以下の存在だ。私はそれをアレに教えられた」
「なんの話してんだよッ!」
「お前も私も同罪であり同じ穴の狢ということだ」
賢吾の額からも、ルークの額からも、真っ赤な血が流れ落ちた。
淡々と話し続けるルークに、ようやく恐れを抱いた賢吾は、春太を睨みつけてから立ち去った。
嵐のような一瞬に、春太は何も出来なかった。
ただ、ルークのしたことが春太を引き戻した事は分かる。
新しい自分になるのか、もう一度腐った自分に堕ちるのか。その一線を超えそうになったとき、ルークは余りにも身勝手で傲慢な理由で春太を救った。
春太を心配したわけじゃない。ただ、自分のお気に入りの餌を盗られるのが我慢ならないだけ。
そんな巫山戯た理由で、ルークは春太を救ってくれたのだ。
「馬鹿じゃないのか」
「……」
振り返ったルークは、目に血が入ってしまったのか、片目を瞑って鬱陶しげだ。
春太は涙声になる自分を律すると、傍によってハンカチを取り出した。
「ルークには、その綺麗な顔しか取り柄ないんだから。顔、傷つけちゃ、だめだろ……っ」
春太の水色のハンカチが血を吸い込む。
同時に流れ落ちた透明な涙は、ルークの指先が拭ってくれた。
「なぜまた泣くんだ」
「泣いてねーし」
「……腹が痛いのか?」
泣き顔を見られたくなくて、頬に触れてくる手のひらから逃れようと、頭をふるう。
すると、何を勘違いしたのかルークに抱き上げられた。
「ちょっ!」
「……暴れるな。重い。落とすぞ」
「勝手に姫抱っこしてんのはルークじゃん! ていうかなんでマンションに戻るんだよっ」
「手当てをするべきだ」
「いやだっ! それよりもテディに会いたい!」
ぐいぐいと遠慮なくルークの肩を掴み引っ張る。
すると、手網を引かれた馬のようにルークが足を止めた。
「俺に隠してるけど、テディになにかあったんだろ? 右京さんが話してくれるって言ってんだ。だから──」
「右京ならそこにいる」
「へ」
ルークが見遣った先には、黒塗りの高級車から右京が手を振っていた。
今さらになって、ルークがここにいる理由を察する。余りにも急展開だった為に忘れていたが、そういえばルークとはあの揉めた事件以降初めて会ったのだ。
「急に修羅場ですから驚きましたよ」
車に乗り込むと、大して驚いてなさそうな声音で右京が言った。自分のせいで起きてしまった事件だ。
おまけに、右京が大切に思っているルークに怪我まで負わせてしまった。
申し訳なくて、「ごめんなさい」と言いながら俯く。
同じく後部座席に乗りこんだルークが嘆息した。
「お前が悪いことをしたのか? なぜ、すぐに謝る。私はお前のそういうところが嫌いだ」
「っでも」
「私の怪我は私の責任だ。それを自分のせいだとでも思っているのならお門違いにもほどがある」
冷々とした言い方に、ますます身を縮める。
すると、右京がミラー越しにこちらを見て笑った。
「レイプ魔が説教するな馬鹿」
「……」
「お前こそ先に言うべきことがあるんじゃないのか」
叱られたルークが、二度、三度と視線を流して、ようやく春太を見る。
そして、不遜な態度で小さく謝罪した。
「悪かった」
「……あ、はい」
ぽかんと惚けて頷く。ルークはさっさと顔を窓に向けてしまった。
その美しい横顔を見つめながら、自分に起きている感情の変化に戸惑った。
怒っていたけど、もう怒っていない。
それに、賢吾の言う通り、春太が色んな人の間を渡り歩いてきたのは事実だった。
小学生の頃。ゲイであることを義兄に見破られて、家族のみならず学校にまでバラされた。
それ以来、自分のセクシュアリティを否定されて馬鹿にされてきた春太は、牢獄のような家を飛び出して世界を知った。
そこでは、否定され続けてきた自分のセクシュアリティを認めてくれる存在と出会ったのだ。
──お前は本当にどうしようもない奴だ。
──キモ。誰もお前なんか好きにならねーよ。
血が溢れる傷口に何度も何度も振るい落とされた言葉の刃。
満身創痍だった。愛に飢えていた。
だからこそ春太は、外の世界で出会った男達に求められて歓喜した。
誰にも好きになってもらえないと言われ続けてきた。けれど、学校や家から飛び出してしまえば、春太を可愛い、と好きだ、と言ってくれる誰かがいる。
何よりも、否定されてしまった男としての自分を求めてくれる、逞しい男の腕がある事に泣きたくなった。
化け物なんかじゃない。春太は生きていていいんだと息ができるようになった。
自分を求めてくれる存在に依存した春太には、貞操観念なんてものはなく、請われるがまま、求められるがままに肌を合わせてきた。
でも、暫くすればその熱が泡沫であると気づく。
春太に囁かれる愛は一時のもので、春太を包み込む熱は自分だけのものにはならない。
虚しくなって、けれど捨てられなくて……。
だから春太は、流されるままに、捨てられるその日まで、言いなりになり愛されるお人形さんを選んだ。
「……俺こそ殴ってごめん」
悄然と呟くと、ルークの右手がぴくりと震えた。右京からは呆れたような、それでいて心配げなため息が聞こえる。
「春太さんは本当に危なっかしくて冷や冷やしますね。……まあとにかく、先程の男はこちらで処理をしておきます。もうこの話は止めて、テディ君について説明したらどうですか」
前半は春太に、後半はルークに問いかけて、右京は運転に集中することにしたのか沈黙する。
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