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ファウルダース侯爵家結婚編
天降りの姫と香の大家6
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翌日、午前中いっぱい頑張ってフーミャオの日記の解読を進めた。
今日読んだところはちょうど天落香の話だった。
解読した限りでは、天落香の復元への長い道のりに対するやりがいと興味関心、それからこの地に生きる人と、フーミャオさんの体に現れる副作用の差異についてが細かく書かれていた。
専門用語も交じるから成分とかの項目はこの世界の言葉に翻訳はできそうになかったけれど、でもフーミャオさんがどう思ってたのかくらいは解読することができた。
これを読んだトビ達がどう思うのかは分からないけれど、私は黙々と翻訳の作業を進めた。
午後にはアンリのところへ。
昨日のようにオレリーさんに案内されて薫香の間へと入る。
回廊に足を踏み入れた途端、昨日より濃い匂いが満ちていて、顔をしかめてしまった。
思わず入り口にいるオレリーさんを振りかえる。
「オレリーさん、昨日より匂いが強くなっていませんか」
「……左様でございますね」
「これでは体に悪いです。トビに一言言わせてください」
私はしくじったと思った。
昨日のうちにトビにこの事を伝えてもらうつもりだったのに、ユーグさんに会っちゃってそのことで頭がいっぱいだった。
「進言しておきましょう」
「すぐにでも。どうせ私には会ってもらえないんでしょう? 私はしばらくここにいるので、オレリーさんはトビに伝言してきてください」
「ですが……」
「別に、逃げたりはしません。もし気になるようなら、私がここに入ったあと、閂をはめておいてください。トビにここの換気の許可か香を焚かないという言葉をもらうまで、私はここにいます」
オレリーさんがぎょっとする。
昨日は大人しくしておこうと思っていたけど、ユーグさんが動いてくれると分かった今、アンリがちゃんと動けるように、少しでも力になるようなことをしておきたかった。
じっとオレリーさんの目を見ていれば、オレリーさんは渋々うなずく。
「かしこまりました。すぐに戻りますので」
「お願いします」
ごめんなさい、オレリーさん。
苦労ばかりかけてしまって。
老体に鞭打つような気持ちになるけれど、私が頼れる人はオレリーさんしかいないから。
私は一度目をつむると、踵を返す。
回廊を渡り、薫香の間の鍵を開けた。
中に入るなり、ベッドに腰掛けてうなだれているアンリを見つける。
髪が結われることもなく、横髪で表情が隠れていた。
「アンリ、こんなところにいて大丈夫?」
私は話しかけながらアンリに近づく。
アンリはおもむろに顔を上げた。
スミレ色の瞳が虚ろだった。
「ひめ、ぎみ」
ぼんやりとしたアンリから出た言葉に、私は足を止める。
アンリがふわりと笑った。
「おいで」
本当は今すぐにでも駆け寄りたかった。
広げられた腕の中に飛び込んで、その胸に抱きつきたかった。
でも、今のアンリは正気じゃない。
むせ返るくらい甘い匂いが満ちるこの部屋で、アンリは何を見ているの?
私が足を止めて立ちすくんでいれば、アンリはこてりと首をかしげた。
「姫君? どうしたの? こっちにおいで」
「……アンリ」
アンリは私を見ていない。
そう気づいた私は、アンリから距離を取ったまま、尋ねた。
「アンリ。私の名前はなに?」
アンリがなぜそんな事を? と言わんばかりに首をひねる。
「姫君、どうして」
「アンリ、私の名前を呼んで」
大切だと、覚えていてくれると言った、私の名前を呼んで。
この世界で、あなたしか知らない、私の本当の名前を。
アンリがぼんやりと私を見ている。
「きみ、の、名前……」
段々とその表情が苦悶に満ちてきて、アンリは頭を抱えてしまった。
「アンリ!」
「来るな! 由佳、来るな。お願いだ。来るな。今来られたら、自分でもどうなるか分からない」
頭を抱えたアンリが叫ぶ。
心臓がぎゅっと引き絞られたかのように痛んだ。
「来ないでって言うなら行かないから。せめて、バスルームに行こう。そこなら匂いも薄いでしょう?」
「……無駄だよ。悪あがきにも程がある」
「今、トビに換気か香の使用をやめるように伝えに行ってもらってるから」
「僕じゃない、男の名前……」
アンリがゆらりと顔を上げる。
そのスミレ色の瞳が爛々としていて、私は思わず一歩を後ずさった。
「アンリ」
「なんで逃げるの」
「だって、アンリ……おかしいじゃない」
「おかしくない」
アンリがベッドから立ち上がる。
自分から来るなって言っていたのに、ゆらりと私の方へと歩み寄ってくる。
私はアンリが近づく分、一歩ずつ後ずさる。
「アンリ、落ち着いて」
「落ち着いてる」
「落ち着いてない。絶対におかしい」
「おかしくない」
壁に背中が当たる。
逃げられなくなった。
私は慌てて扉の外に一先ず出ようと体の向きを変えるけど、それより早く、アンリの腕が伸びてくる。
壁に手をついて、アンリが私を閉じ込めてしまう。
「由佳」
「アンリ……」
アンリの顔を見上げれば、アンリは苦しそうな表情をしていた。
「行くな」
「行かないよ」
「どこにも行くな」
「アンリと一緒にいるよ」
「僕を置いていくな」
唇をかみしめたアンリがそんなことを言う。
私は手を伸ばして、その唇をそっと撫でた。
「置いていかないよ」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「嘘だろ。だってその衣装は天降り人のドレスなんだろう? それを着て、元の世界に帰るつもりなんじゃないか!?」
誰だ、そんなことをアンリに吹き込んだのは。
冗談にしてもひどすぎるでしょう。
支離滅裂なアンリの言葉は、この香のせい?
「帰らないよ。私は帰らないし、帰れない」
「うそだ」
「本当。それにアンリが私を繋いでくれるんでしょう?」
アンリのスミレ色の瞳が揺れる。
私はそっとアンリの頬を撫でた。
「私が帰るだなんて言ったのは誰?」
「ゆか、が」
「私が帰る場所は、シュロルムだよ」
「でも、声が聞こえるんだ。君が泣く、声が」
「アンリ」
苦しそうに顔を歪めるアンリの名前を、そっと呼ぶ。
きっとそれは、アンリの心の声。
アンリの中で止まったままの、私の声。
そんな幻聴をアンリに聞かせてしまったのは、私の弱さだ。
「ごめんね、アンリ」
「……どうして由佳が謝るのさ」
「私が不甲斐ないから。アンリよりお姉さんなのに、アンリに頼ってばかりだったから」
どうしたらアンリの不安は消してあげられる?
心に差し込む陰りを、どうしたら照らしてあげられる?
アンリがこれまでそうしてくれていたように、私もアンリのことをすくい上げてあげたい。
私はアンリの顔を見上げる。
「アンリ。私の名前を呼んで」
「由佳?」
「名前は記号だよ。私の名前を呼んでくれる限り、私はアンリと一緒にいる。それじゃ、足りない?」
「……」
アンリが何かを言いかけて口を開く。
だけどそれは言葉にならないまま閉じられて。
まだ足りない。
アンリを安心させるにはまだ足りない。
あと私に差し出せられるものなんて、そう多くはなくて。
でも、アンリの不安を取り除いてあげられるのなら。
私は自分から衣装の帯に手をかける。
しゅるりと帯が解けた。
アンリが息を呑む。
「由佳……?」
「アンリ、私を抱いて。私の中にあなたを刻んで。そうすれば、あなたは不安じゃなくなる?」
簡単に身体を許す女だと思われて嫌われるかもしれない。
でも、アンリにずっと我慢させていた。
昨日の深いキスや、私の衣装を乱した不埒な手は、それの現れだったのかと思う。
アンリも男の子だもん。
そうしたいと思ってしまうのは、自然なことだよね。
帯を解いて、肩から上衣を滑らせる。
内側にはもう一枚、着物のような衣装があって、それがシュミーズ代わりの下着だ。
これを脱いでしまえば、私は裸になる。
でも自分でそこまで脱ぐ勇気もなくて、ためらっていれば、アンリがガツンと壁に頭突した。
すごい音。
……え、頭突した??
「ちょ、アンリ? 頭、大丈夫?」
「……ごめん。ようやく正気になった、と、思う」
「アンリ?」
壁から頭を離したアンリの目には、いつもの柔らかい光が差し込んでいて。
私をちゃんと見据えたアンリは、情けない顔をしていた。
「僕は由佳にそんなことを言わせちゃいけないんだ。由佳は魅力的で、そりゃ抱きたくないって言ったら嘘になるけど、こんな風に抱きたくない。僕だって由佳とちゃんと愛しあいたい」
最後の方はかすれるくらいに尻すぼみになっていたけど、でも、それが間違いなくアンリの本音だってことは理解した。
私もアンリも、互いにそう思ってる。
ちゃんと愛したい。
ちゃんと愛されたい。
何かの衝動に突きつけられて、獣のように貪り、蹂躙するようなことなんて、したくはない。
きっとそういう愛し方もあるけれど、私たちは、私たちなりの道で歩んでいきたいから。
私はアンリをギュッと抱きしめた。
壁に背を預けるようにしていれば、アンリもまた私を抱きしめ返してくれる。
「アンリ、大好き。愛してる」
「僕も由佳を愛してる」
私とアンリの心は一緒。
私たちは優しい速度で気持ちを育んでいく。
しばらくそうして抱き合っていたけど、アンリがおもむろに私から離れて、落ちた帯を拾い上げてくれた。
私はちょっとだけ自分の思い切った行動に恥ずかしくなりながら、衣装を着付けていく。
そうだ。忘れる前に、アンリに言わないと。
「アンリ、ユーグさんたちが助けに来てくれているよ」
「なんだって?」
「昨日、会ったの。それで、準備に一日ほしいって。だから逃げるなら、明日になると思う」
「……そうか」
アンリの体から力が抜ける。
その場に尻餅をつくようにしゃがみこんでしまう。
私はささっと着付け終わると、アンリと視線を合わせるように腰を落とした。
「後一日、頑張って。香は少しでも薄めれないかトビに掛け合うから」
「由佳、無理はしなくていい。僕だって騎士だ。これくらい自分でどうにかする」
「どうにかできてたら、こんな事にはなってないでしょ」
ぴこっとおでこにデコピンしてやる。
アンリは「いたっ」とうめいて身体を起こした。
「面目次第もございません……」
「とりあえず、回廊に少し匂いを逃がそう。ここには外につながる窓がないし、壁のあの窓、開く?」
「開かないよ。割らないといけない」
「なら扉だけだね」
気休め程度にしかならないけど、仕方ない。
私は扉を全開にして、アンリをバスルームに押し込める。扉二つ隔ててるバスルームなら、少しだけど匂いは薄まるから。
「由佳はどうするつもりなのさ」
「オレリーさん……トビに伝言をお願いした人をこっちで待つよ」
「危険だ。香を吸わないほうがいい」
「アンリ、幻覚を見始めたのはここに来てどれくらいしてから?」
「……三日くらい」
「じゃあ一時間くらいなら平気だよ」
お香の効き目は飲み薬とかほど劇的ではないはず。
天落香の時もかなり時間を置いてから効き目が出たし、天降り人に詳しいトビが私をここに入れても大丈夫だと判断したなら、天降り人への効き方についても何かしら考慮してくれているはず。
それに一つ、フーミャオさんの日記を読んで、心当たりもあった。
私は一人、ソファーでゆったりと待つ。
そうしているうちに、人の気配が入ってきた。
回廊に靴音がして、私は立ち上がる。
「大人しくしていろと言ったはずだがな」
「大人しくしてたわ。でも約束を違えたのはそちらでしょう? この薫物の量は明らかに許容量をこえてる。アンリの身の安全を確保してくれる約束だったでしょう」
黒髪に黒目をした鋭い雰囲気の男が私をじろりと睨めつけた。
トビの前に立ちはだかった私はその視線を正面から受け止めた。
「あの男はどうした」
「あんまりにも身なりがよれよれになってたからバスルームに行かせた。身繕いしてるだけ。声をかけたら返事してくれるわ」
確かめるだろうかと思ったけど、トビはバスルームへ続く扉を一瞥しただけで何もしなかった。
「それで? 香の焚き方がなんだ。確かにこれは過剰だが、今日の香番が調整を誤っただけだろう」
「焚き方の話じゃない。換気をしてって言っているの。長時間の薫物は体に悪いから」
「戯言を。この薫物で死んだ人間はいない」
「死ななくても、精神に害が及ぶの。……この香、心当たりがあるわ。この香もフーミャオの遺物でしょう」
トビの表情が僅かに強ばる。
「……それがどうした」
「使い方、ちゃんと守ってる? 日記に書いてましたよ」
ちょうど今日、翻訳した場所に書いてあった。
天落香を復元しようとした長い道のりの最中、ある時、匂いは天落香に近いくらい甘い香りを持つのに、この世界の人には長時間使用すると幻覚作用をもたらす香を調合してしまったとか。それでいて私たち天降り人には作用されない、天落香とは真逆のような香だったと。
「三日以上の連続使用はさけることと、どの香にも言えるけど換気はしっかりとすること。使用方法は容量用法正しく守るべきじゃない? それなのにどうしてこんな悪い使い方してるの。約束破るつもりなら、日記の解読なんてやめます」
そう言い切れば、トビは舌打ちをした。
「この件には俺は関与していない。だが、指示はしておこう」
責任逃れをするような言い方にムッとしたけど、私はせっかくの譲歩を逃したくないから何も言わなかった。
「今すぐに」
「……わかった。だがその代わり、今言ったフーミャオの日記の解読部分を寄越せ。こないだの冊子には載っていなかっただろう」
「今日読めたばかりだもの。まだこの国の言葉に直せていないから、夜まで待って」
そう言えば、トビは鼻で笑って踵を返した。
「約束は違えるなよ」
「そちらこそ」
トビの後ろに控えていたオレリーさんが、私を見る。
私はこくりと頷いた。
バスルームへ続く扉に視線を向ける。
また明日。
そう呟いて、私は薫香の間を後にした。
今日読んだところはちょうど天落香の話だった。
解読した限りでは、天落香の復元への長い道のりに対するやりがいと興味関心、それからこの地に生きる人と、フーミャオさんの体に現れる副作用の差異についてが細かく書かれていた。
専門用語も交じるから成分とかの項目はこの世界の言葉に翻訳はできそうになかったけれど、でもフーミャオさんがどう思ってたのかくらいは解読することができた。
これを読んだトビ達がどう思うのかは分からないけれど、私は黙々と翻訳の作業を進めた。
午後にはアンリのところへ。
昨日のようにオレリーさんに案内されて薫香の間へと入る。
回廊に足を踏み入れた途端、昨日より濃い匂いが満ちていて、顔をしかめてしまった。
思わず入り口にいるオレリーさんを振りかえる。
「オレリーさん、昨日より匂いが強くなっていませんか」
「……左様でございますね」
「これでは体に悪いです。トビに一言言わせてください」
私はしくじったと思った。
昨日のうちにトビにこの事を伝えてもらうつもりだったのに、ユーグさんに会っちゃってそのことで頭がいっぱいだった。
「進言しておきましょう」
「すぐにでも。どうせ私には会ってもらえないんでしょう? 私はしばらくここにいるので、オレリーさんはトビに伝言してきてください」
「ですが……」
「別に、逃げたりはしません。もし気になるようなら、私がここに入ったあと、閂をはめておいてください。トビにここの換気の許可か香を焚かないという言葉をもらうまで、私はここにいます」
オレリーさんがぎょっとする。
昨日は大人しくしておこうと思っていたけど、ユーグさんが動いてくれると分かった今、アンリがちゃんと動けるように、少しでも力になるようなことをしておきたかった。
じっとオレリーさんの目を見ていれば、オレリーさんは渋々うなずく。
「かしこまりました。すぐに戻りますので」
「お願いします」
ごめんなさい、オレリーさん。
苦労ばかりかけてしまって。
老体に鞭打つような気持ちになるけれど、私が頼れる人はオレリーさんしかいないから。
私は一度目をつむると、踵を返す。
回廊を渡り、薫香の間の鍵を開けた。
中に入るなり、ベッドに腰掛けてうなだれているアンリを見つける。
髪が結われることもなく、横髪で表情が隠れていた。
「アンリ、こんなところにいて大丈夫?」
私は話しかけながらアンリに近づく。
アンリはおもむろに顔を上げた。
スミレ色の瞳が虚ろだった。
「ひめ、ぎみ」
ぼんやりとしたアンリから出た言葉に、私は足を止める。
アンリがふわりと笑った。
「おいで」
本当は今すぐにでも駆け寄りたかった。
広げられた腕の中に飛び込んで、その胸に抱きつきたかった。
でも、今のアンリは正気じゃない。
むせ返るくらい甘い匂いが満ちるこの部屋で、アンリは何を見ているの?
私が足を止めて立ちすくんでいれば、アンリはこてりと首をかしげた。
「姫君? どうしたの? こっちにおいで」
「……アンリ」
アンリは私を見ていない。
そう気づいた私は、アンリから距離を取ったまま、尋ねた。
「アンリ。私の名前はなに?」
アンリがなぜそんな事を? と言わんばかりに首をひねる。
「姫君、どうして」
「アンリ、私の名前を呼んで」
大切だと、覚えていてくれると言った、私の名前を呼んで。
この世界で、あなたしか知らない、私の本当の名前を。
アンリがぼんやりと私を見ている。
「きみ、の、名前……」
段々とその表情が苦悶に満ちてきて、アンリは頭を抱えてしまった。
「アンリ!」
「来るな! 由佳、来るな。お願いだ。来るな。今来られたら、自分でもどうなるか分からない」
頭を抱えたアンリが叫ぶ。
心臓がぎゅっと引き絞られたかのように痛んだ。
「来ないでって言うなら行かないから。せめて、バスルームに行こう。そこなら匂いも薄いでしょう?」
「……無駄だよ。悪あがきにも程がある」
「今、トビに換気か香の使用をやめるように伝えに行ってもらってるから」
「僕じゃない、男の名前……」
アンリがゆらりと顔を上げる。
そのスミレ色の瞳が爛々としていて、私は思わず一歩を後ずさった。
「アンリ」
「なんで逃げるの」
「だって、アンリ……おかしいじゃない」
「おかしくない」
アンリがベッドから立ち上がる。
自分から来るなって言っていたのに、ゆらりと私の方へと歩み寄ってくる。
私はアンリが近づく分、一歩ずつ後ずさる。
「アンリ、落ち着いて」
「落ち着いてる」
「落ち着いてない。絶対におかしい」
「おかしくない」
壁に背中が当たる。
逃げられなくなった。
私は慌てて扉の外に一先ず出ようと体の向きを変えるけど、それより早く、アンリの腕が伸びてくる。
壁に手をついて、アンリが私を閉じ込めてしまう。
「由佳」
「アンリ……」
アンリの顔を見上げれば、アンリは苦しそうな表情をしていた。
「行くな」
「行かないよ」
「どこにも行くな」
「アンリと一緒にいるよ」
「僕を置いていくな」
唇をかみしめたアンリがそんなことを言う。
私は手を伸ばして、その唇をそっと撫でた。
「置いていかないよ」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「嘘だろ。だってその衣装は天降り人のドレスなんだろう? それを着て、元の世界に帰るつもりなんじゃないか!?」
誰だ、そんなことをアンリに吹き込んだのは。
冗談にしてもひどすぎるでしょう。
支離滅裂なアンリの言葉は、この香のせい?
「帰らないよ。私は帰らないし、帰れない」
「うそだ」
「本当。それにアンリが私を繋いでくれるんでしょう?」
アンリのスミレ色の瞳が揺れる。
私はそっとアンリの頬を撫でた。
「私が帰るだなんて言ったのは誰?」
「ゆか、が」
「私が帰る場所は、シュロルムだよ」
「でも、声が聞こえるんだ。君が泣く、声が」
「アンリ」
苦しそうに顔を歪めるアンリの名前を、そっと呼ぶ。
きっとそれは、アンリの心の声。
アンリの中で止まったままの、私の声。
そんな幻聴をアンリに聞かせてしまったのは、私の弱さだ。
「ごめんね、アンリ」
「……どうして由佳が謝るのさ」
「私が不甲斐ないから。アンリよりお姉さんなのに、アンリに頼ってばかりだったから」
どうしたらアンリの不安は消してあげられる?
心に差し込む陰りを、どうしたら照らしてあげられる?
アンリがこれまでそうしてくれていたように、私もアンリのことをすくい上げてあげたい。
私はアンリの顔を見上げる。
「アンリ。私の名前を呼んで」
「由佳?」
「名前は記号だよ。私の名前を呼んでくれる限り、私はアンリと一緒にいる。それじゃ、足りない?」
「……」
アンリが何かを言いかけて口を開く。
だけどそれは言葉にならないまま閉じられて。
まだ足りない。
アンリを安心させるにはまだ足りない。
あと私に差し出せられるものなんて、そう多くはなくて。
でも、アンリの不安を取り除いてあげられるのなら。
私は自分から衣装の帯に手をかける。
しゅるりと帯が解けた。
アンリが息を呑む。
「由佳……?」
「アンリ、私を抱いて。私の中にあなたを刻んで。そうすれば、あなたは不安じゃなくなる?」
簡単に身体を許す女だと思われて嫌われるかもしれない。
でも、アンリにずっと我慢させていた。
昨日の深いキスや、私の衣装を乱した不埒な手は、それの現れだったのかと思う。
アンリも男の子だもん。
そうしたいと思ってしまうのは、自然なことだよね。
帯を解いて、肩から上衣を滑らせる。
内側にはもう一枚、着物のような衣装があって、それがシュミーズ代わりの下着だ。
これを脱いでしまえば、私は裸になる。
でも自分でそこまで脱ぐ勇気もなくて、ためらっていれば、アンリがガツンと壁に頭突した。
すごい音。
……え、頭突した??
「ちょ、アンリ? 頭、大丈夫?」
「……ごめん。ようやく正気になった、と、思う」
「アンリ?」
壁から頭を離したアンリの目には、いつもの柔らかい光が差し込んでいて。
私をちゃんと見据えたアンリは、情けない顔をしていた。
「僕は由佳にそんなことを言わせちゃいけないんだ。由佳は魅力的で、そりゃ抱きたくないって言ったら嘘になるけど、こんな風に抱きたくない。僕だって由佳とちゃんと愛しあいたい」
最後の方はかすれるくらいに尻すぼみになっていたけど、でも、それが間違いなくアンリの本音だってことは理解した。
私もアンリも、互いにそう思ってる。
ちゃんと愛したい。
ちゃんと愛されたい。
何かの衝動に突きつけられて、獣のように貪り、蹂躙するようなことなんて、したくはない。
きっとそういう愛し方もあるけれど、私たちは、私たちなりの道で歩んでいきたいから。
私はアンリをギュッと抱きしめた。
壁に背を預けるようにしていれば、アンリもまた私を抱きしめ返してくれる。
「アンリ、大好き。愛してる」
「僕も由佳を愛してる」
私とアンリの心は一緒。
私たちは優しい速度で気持ちを育んでいく。
しばらくそうして抱き合っていたけど、アンリがおもむろに私から離れて、落ちた帯を拾い上げてくれた。
私はちょっとだけ自分の思い切った行動に恥ずかしくなりながら、衣装を着付けていく。
そうだ。忘れる前に、アンリに言わないと。
「アンリ、ユーグさんたちが助けに来てくれているよ」
「なんだって?」
「昨日、会ったの。それで、準備に一日ほしいって。だから逃げるなら、明日になると思う」
「……そうか」
アンリの体から力が抜ける。
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「由佳、無理はしなくていい。僕だって騎士だ。これくらい自分でどうにかする」
「どうにかできてたら、こんな事にはなってないでしょ」
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「とりあえず、回廊に少し匂いを逃がそう。ここには外につながる窓がないし、壁のあの窓、開く?」
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「由佳はどうするつもりなのさ」
「オレリーさん……トビに伝言をお願いした人をこっちで待つよ」
「危険だ。香を吸わないほうがいい」
「アンリ、幻覚を見始めたのはここに来てどれくらいしてから?」
「……三日くらい」
「じゃあ一時間くらいなら平気だよ」
お香の効き目は飲み薬とかほど劇的ではないはず。
天落香の時もかなり時間を置いてから効き目が出たし、天降り人に詳しいトビが私をここに入れても大丈夫だと判断したなら、天降り人への効き方についても何かしら考慮してくれているはず。
それに一つ、フーミャオさんの日記を読んで、心当たりもあった。
私は一人、ソファーでゆったりと待つ。
そうしているうちに、人の気配が入ってきた。
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「大人しくしていろと言ったはずだがな」
「大人しくしてたわ。でも約束を違えたのはそちらでしょう? この薫物の量は明らかに許容量をこえてる。アンリの身の安全を確保してくれる約束だったでしょう」
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「あの男はどうした」
「あんまりにも身なりがよれよれになってたからバスルームに行かせた。身繕いしてるだけ。声をかけたら返事してくれるわ」
確かめるだろうかと思ったけど、トビはバスルームへ続く扉を一瞥しただけで何もしなかった。
「それで? 香の焚き方がなんだ。確かにこれは過剰だが、今日の香番が調整を誤っただけだろう」
「焚き方の話じゃない。換気をしてって言っているの。長時間の薫物は体に悪いから」
「戯言を。この薫物で死んだ人間はいない」
「死ななくても、精神に害が及ぶの。……この香、心当たりがあるわ。この香もフーミャオの遺物でしょう」
トビの表情が僅かに強ばる。
「……それがどうした」
「使い方、ちゃんと守ってる? 日記に書いてましたよ」
ちょうど今日、翻訳した場所に書いてあった。
天落香を復元しようとした長い道のりの最中、ある時、匂いは天落香に近いくらい甘い香りを持つのに、この世界の人には長時間使用すると幻覚作用をもたらす香を調合してしまったとか。それでいて私たち天降り人には作用されない、天落香とは真逆のような香だったと。
「三日以上の連続使用はさけることと、どの香にも言えるけど換気はしっかりとすること。使用方法は容量用法正しく守るべきじゃない? それなのにどうしてこんな悪い使い方してるの。約束破るつもりなら、日記の解読なんてやめます」
そう言い切れば、トビは舌打ちをした。
「この件には俺は関与していない。だが、指示はしておこう」
責任逃れをするような言い方にムッとしたけど、私はせっかくの譲歩を逃したくないから何も言わなかった。
「今すぐに」
「……わかった。だがその代わり、今言ったフーミャオの日記の解読部分を寄越せ。こないだの冊子には載っていなかっただろう」
「今日読めたばかりだもの。まだこの国の言葉に直せていないから、夜まで待って」
そう言えば、トビは鼻で笑って踵を返した。
「約束は違えるなよ」
「そちらこそ」
トビの後ろに控えていたオレリーさんが、私を見る。
私はこくりと頷いた。
バスルームへ続く扉に視線を向ける。
また明日。
そう呟いて、私は薫香の間を後にした。
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