古代ローマの英雄スキピオの物語〜歴史上最高の戦術家カルタゴの名将ハンニバル対ローマ史上最強の男〜本物の歴史ロマンを実感して下さい

トレビア川の戦い②

　両翼の騎兵を失ったローマ軍の側面にカルタゴ騎兵が攻撃を開始し、中央のカルタゴ歩兵までもが回り込んで側面攻撃に入った。
「プブリウス様、あっ、あれを見て下さい」
　すでにプブリウスの目はラエリウスが差す方向、ローマ軍の後方、トレビア川西岸の茂みから突如として姿を現したカルタゴ軍の別働隊を捉えていた。一千の歩兵と一千の騎兵からなるカルタゴ軍別働隊が、側面攻撃に混乱しているローマ軍の背後を襲おうとしていた。
　ローマ軍の最後列には古参の兵が配置されており、彼らは戦場では切り札的な存在であった。最も熟練された戦闘集団であるローマ軍の最後列は、伏兵にも隊列を乱すことなく落ち着いてあたったが、そんな彼らの力を持ってしてもカルタゴ軍別働隊の突進は止まらなかった。カルタゴ軍別働隊もまた、選りすぐりの精鋭であったのだ。これでローマ軍は四方を囲まれる格好になり、カルタゴ軍による包囲が完成を見せた。
　唖然とするプブリウスが見たものは、徐々に包囲を狭くされながら無残に撲滅されていく味方であった。
　同胞らの死に無念さと悲しみ、怒りがこみ上げてくるべきなのだろうが、プブリウスはそういった感情の前に、もっと強い感情が頑として動こうとしないことに、複雑な思いでいた。
　その感情とは、敵将ハンニバルへの尊敬の念である。それはあまりに不謹慎であり、死んでいく同胞らへの冒とくかもしれないが、否定しようにも本心に目をつむれるほど彼は器用ではなかった。
　見事としか言いようがない。それがプブリウスの素直な感想だった。彼にとってそこには敵も味方もなく、ただ生きた戦いの教科書が広げられていたのだ。あるいはハンニバルの戦術に、プブリウスは将来の自分自身を重ね合わせようとしていたのかもしれない。
　これまでのローマ軍の戦いで、これほどの完敗を彼は聞いたことがない。戦う前から味方を有利な状況に置き、互角の兵力に対して真っ向から挑むのではなく、戦術を駆使して敵を無力化する。兵士一人一人の働きで雌雄を決するのではなく、指揮官が戦う前から勝つための舞台を用意しておく。それを実現するハンニバルは間違いなく天才である。
「プブリウス様、突破できそうです」
　ラエリウスの言うように、万事休すかと思われたローマ軍は前方を突き破ってカルタゴ軍の包囲を脱出した。ただ、包囲から抜け出せたのは一部の兵のみで、依然として多くのローマ兵が取り残されている。
「おそらく、あれはセンプローニウス殿の一隊でしょう。ああ、執政官が仲間を見捨てて南に逃げていきます。何ということでしょう。センプローニウス殿は味方の兵を見殺しにして逃げていきます」
「ラエリウス、あの状況ではもはやどうにもならない。センプローニウス殿が逃げたことを咎めることはできない。味方を助けようと戻れば、ローマ軍は間違いなく全滅するだろう。包囲から脱出できた者たちの命を無駄にしてはいけない。残念だが、仕方がない……」
　そう言い終わったプブリウスは奥歯を強く噛みしめた。仕方がないで片づけてしまう自分に無性に腹が立ったからだ。
　だから戦争は嫌なんだ。プブリウスは目を閉じ、同胞らの死を遠ざけるように心の目も閉じた。
「行こう。敵がここに押し寄せてくる前に父上と共にここを出るんだ。プラケンティアまで戻り、体勢を立て直さなくてはならない」