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ファビアン戦略
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ファビウス殿はどうやってあのハンニバルと戦うのだろう。
プブリウスは皆と同じようにこの元老院の第一人者を尊敬していた。プブリウスが学んだローマ戦史には、ファビウスの活躍を描く場面がある。的確な判断力と創造的な戦略、緻密な戦術を併せ持つ稀代の名将として描かれたファビウスが負けるとは、ローマ人なら誰も想像できないだろう。それはプブリウスも同じであった。
だが、相手はあのハンニバルである。これまでの常識が通用せず、圧倒的不利を覆してローマから勝利を掴み取っている男である。不安がないと言えば嘘になる。
プブリウスはもちろんファビウスに勝ってほしいと思っている。しかも今回の遠征には兄のルキウスが参戦していた。ローマ軍の敗北は兄の命を奪いかねないし、兄の栄達のためにはローマ軍が勝利するのがよいに決まっている。
また一方で、プブリウスは両者がどういった戦いを演じるのか、その結末はどうなるのか、胸が高鳴るような感情が自分自身にあることに気がついていた。要はファビウス対ハンニバルの戦いを楽しみにしているのだ。
ハンニバルの戦術をファビウス殿は十分に研究している。だからこそ、この二人の戦いは面白い。この頃のプブリウスは戦争を忌み嫌う一方で、優れた指揮官による高度な戦術に憧れに似た気持ちを抱いていた。
トラシメヌス湖畔の戦いでもハンニバルは包囲殲滅作戦を実行している。そして戦いはまたしてもハンニバルが選んだ場所で行われた。戦いの主導権は常にハンニバルにある。これがローマ軍の敗因である。元老院はこれまでのハンニバルの戦い方を議論し、なぜローマ軍が敗れたのかという問いに答えを見出していた。だが、なぜ敗れたのかわかっても、次も同じ轍を踏まないという確証は得られなかったのが正直なところだろう。ハンニバルから生み出される創造的な戦略を、確実に看破するのは困難だからだ。
ファビウス軍の出陣で強化された情報網により、ハンニバル軍のさらなる動向がローマ市民の知るところになった。
カルタゴ軍、アプリア地方に入る。
ローマ軍、アプリア地方の田畑を焼き打ち、カルタゴ軍の向かう先の土地を焦土と化す。
カルタゴ軍、アプリア地方で焦土化に参加しなかった諸都市に対して略奪行為。
ローマ軍、略奪中のカルタゴ軍の後方で動かず。
アプリア地方で何が起こっているのか、その情報が続々とローマに入ってきた。親友ラエリウスはプブリウスのためにそれらの情報をよく集め、整理して教えてくれた。
「どうやらファビウス殿はカルタゴ軍とすぐに会戦するつもりはないようです。ファビウス殿はアプリア地方の同盟諸都市に田畑の焼き打ちを要請したそうで、カルタゴ軍が抱えている補給問題をつこうというのでしょう。ハンニバルはヒスパニアを出発してからというもの、その土地その土地を略奪することで食糧を得てきました。本国からの補給を受けるのも困難なカルタゴ軍ですから、食糧問題は常につきまとっているはずです。ファビウス殿はそこに目を付けたのです。五万人もの胃袋を満たすには相当の量の食料が必要ですし、何といってもカルタゴ軍は傭兵で成り立っていますから、食料の確保ができなければ軍が離散するのは必至です」
「だが、田畑の焼き打ちをしなかった都市が多かった、のではないか」
「そうです。プブリウス様のおっしゃる通りです。これはあくまでも噂ですが、アプリア地方の同盟諸都市の二割程しかファビウス殿の要請には応じなかったようです。あの地方は肥沃な土地が広がっており、農業と畜産が盛んです。田畑を焼けば彼らは生活の糧を失うことになります。カルタゴ軍に略奪されるかどうかもわからない段階で、積極的に自分の田畑を焼くというのは勇気がいるのでしょう。それに、焼き打ちした後のことを考えれば、カルタゴ軍に食料を奪われたほうがましだと考える者もいるかもしれません。一度焼き打ちしてしまうと、土地の再生には時間が必要です」
「つまり、カルタゴ軍は食糧難にはならない」
「そういうことです。今のところは……ですが」
ローマ軍が戦闘を回避しているというのは、兄ルキウスのことを考えるとよい報せであった。だが、ハンニバルとは戦わないという戦略は、果たしてローマ市民や同盟都市の賛意を得られるのだろうか。市民はファビウス殿に勝利を期待している。負けないことを期待しているわけではないのである。
ローマ軍がカルタゴ軍の略奪行為を許している。市民はそう捉えるのではないか。それは盟主ローマが同盟都市を守るという義務を果たしていないとなるのではないか。覇権国家であるローマは同盟都市を他国から守る義務がある。一方の同盟都市はローマに兵を提供する義務を負っている。それが兵だけを提供して守ってもらえないとなれば、同盟都市はどう思うだろう。自尊心の強いローマ市民はどう感じるだろうか。
確かにファビウス殿の戦略ならローマ軍が負けることはなく、いつかカルタゴ軍は行き詰まって撤退を余儀なくされるだろう。ラエリウスの言うように、補給ができなければ軍を維持することは不可能だからだ。
プブリウスはファビウスがとった戦略、後にファビアン戦略と呼ばれる徹底した持久戦の有効性を認めつつも、それがローマや同盟都市に与える影響を心配した。ローマ連合にひびを入れることこそ、ハンニバルの狙いではないかと。
プブリウスは皆と同じようにこの元老院の第一人者を尊敬していた。プブリウスが学んだローマ戦史には、ファビウスの活躍を描く場面がある。的確な判断力と創造的な戦略、緻密な戦術を併せ持つ稀代の名将として描かれたファビウスが負けるとは、ローマ人なら誰も想像できないだろう。それはプブリウスも同じであった。
だが、相手はあのハンニバルである。これまでの常識が通用せず、圧倒的不利を覆してローマから勝利を掴み取っている男である。不安がないと言えば嘘になる。
プブリウスはもちろんファビウスに勝ってほしいと思っている。しかも今回の遠征には兄のルキウスが参戦していた。ローマ軍の敗北は兄の命を奪いかねないし、兄の栄達のためにはローマ軍が勝利するのがよいに決まっている。
また一方で、プブリウスは両者がどういった戦いを演じるのか、その結末はどうなるのか、胸が高鳴るような感情が自分自身にあることに気がついていた。要はファビウス対ハンニバルの戦いを楽しみにしているのだ。
ハンニバルの戦術をファビウス殿は十分に研究している。だからこそ、この二人の戦いは面白い。この頃のプブリウスは戦争を忌み嫌う一方で、優れた指揮官による高度な戦術に憧れに似た気持ちを抱いていた。
トラシメヌス湖畔の戦いでもハンニバルは包囲殲滅作戦を実行している。そして戦いはまたしてもハンニバルが選んだ場所で行われた。戦いの主導権は常にハンニバルにある。これがローマ軍の敗因である。元老院はこれまでのハンニバルの戦い方を議論し、なぜローマ軍が敗れたのかという問いに答えを見出していた。だが、なぜ敗れたのかわかっても、次も同じ轍を踏まないという確証は得られなかったのが正直なところだろう。ハンニバルから生み出される創造的な戦略を、確実に看破するのは困難だからだ。
ファビウス軍の出陣で強化された情報網により、ハンニバル軍のさらなる動向がローマ市民の知るところになった。
カルタゴ軍、アプリア地方に入る。
ローマ軍、アプリア地方の田畑を焼き打ち、カルタゴ軍の向かう先の土地を焦土と化す。
カルタゴ軍、アプリア地方で焦土化に参加しなかった諸都市に対して略奪行為。
ローマ軍、略奪中のカルタゴ軍の後方で動かず。
アプリア地方で何が起こっているのか、その情報が続々とローマに入ってきた。親友ラエリウスはプブリウスのためにそれらの情報をよく集め、整理して教えてくれた。
「どうやらファビウス殿はカルタゴ軍とすぐに会戦するつもりはないようです。ファビウス殿はアプリア地方の同盟諸都市に田畑の焼き打ちを要請したそうで、カルタゴ軍が抱えている補給問題をつこうというのでしょう。ハンニバルはヒスパニアを出発してからというもの、その土地その土地を略奪することで食糧を得てきました。本国からの補給を受けるのも困難なカルタゴ軍ですから、食糧問題は常につきまとっているはずです。ファビウス殿はそこに目を付けたのです。五万人もの胃袋を満たすには相当の量の食料が必要ですし、何といってもカルタゴ軍は傭兵で成り立っていますから、食料の確保ができなければ軍が離散するのは必至です」
「だが、田畑の焼き打ちをしなかった都市が多かった、のではないか」
「そうです。プブリウス様のおっしゃる通りです。これはあくまでも噂ですが、アプリア地方の同盟諸都市の二割程しかファビウス殿の要請には応じなかったようです。あの地方は肥沃な土地が広がっており、農業と畜産が盛んです。田畑を焼けば彼らは生活の糧を失うことになります。カルタゴ軍に略奪されるかどうかもわからない段階で、積極的に自分の田畑を焼くというのは勇気がいるのでしょう。それに、焼き打ちした後のことを考えれば、カルタゴ軍に食料を奪われたほうがましだと考える者もいるかもしれません。一度焼き打ちしてしまうと、土地の再生には時間が必要です」
「つまり、カルタゴ軍は食糧難にはならない」
「そういうことです。今のところは……ですが」
ローマ軍が戦闘を回避しているというのは、兄ルキウスのことを考えるとよい報せであった。だが、ハンニバルとは戦わないという戦略は、果たしてローマ市民や同盟都市の賛意を得られるのだろうか。市民はファビウス殿に勝利を期待している。負けないことを期待しているわけではないのである。
ローマ軍がカルタゴ軍の略奪行為を許している。市民はそう捉えるのではないか。それは盟主ローマが同盟都市を守るという義務を果たしていないとなるのではないか。覇権国家であるローマは同盟都市を他国から守る義務がある。一方の同盟都市はローマに兵を提供する義務を負っている。それが兵だけを提供して守ってもらえないとなれば、同盟都市はどう思うだろう。自尊心の強いローマ市民はどう感じるだろうか。
確かにファビウス殿の戦略ならローマ軍が負けることはなく、いつかカルタゴ軍は行き詰まって撤退を余儀なくされるだろう。ラエリウスの言うように、補給ができなければ軍を維持することは不可能だからだ。
プブリウスはファビウスがとった戦略、後にファビアン戦略と呼ばれる徹底した持久戦の有効性を認めつつも、それがローマや同盟都市に与える影響を心配した。ローマ連合にひびを入れることこそ、ハンニバルの狙いではないかと。
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