夏の思い出

遠野 時松

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図鑑

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「亮兄ちゃーん」

 ドアの前で声を掛けるけれど、返事はない。

「開けるよー」

 さっきより少し大きな声で呼び掛けるけれども、やっぱり返事はない。ゆっくりとドアを引いてそーっと中を覗く。亮兄ちゃんは椅子に座って勉強机に足を乗せたまま、振り返るようにこっちを見ていた。

「なんだよ亮兄ちゃん、部屋にいたなら返事してよ」

 亮兄ちゃんは、開きかけた口を閉じると机の方を向いてしまった。

「入るよ?」

 聞こえているはずなのに、さっきみたいに返事をしてくれない。

「だめなの?」

 首をぽりぽりと掻くだけで、いいのかダメなのか答えてくれない。

「どっち?」 おい、亮。「仲間だろ」

 首の後ろを掻いていた手が止まる。

「仲間だったら、目が合った時にどっちか分かるだろ」

 僕はドアノブから手を離す。

「おじゃましまーす」

 僕は仙人じゃないから、目を見ただけじゃ何を言いたいのか分からないんだよ。

 ドアが閉まる音がする。
 亮兄ちゃんは何も言わない。なんとなく歩き出せないから、部屋を見渡す。

 本棚が一つ増えていた。

 立ち止まっているのも違うのかなと思って、僕は机の横にあるベットに座った。
 前に来た時と同じで懐かしい景色だけれど、亮兄ちゃんはこっちを向いてくれない。

「なんだよ?」
「なんだよって?」
「だから、なんだよ」

 それが分からないから聞いているのに。

「なんだよはこっちのセリフだよ、置いていかないでよ」
「あのまま居間にいて、子供騙し見てればよかっただろ」

 もお。

「食べ終わったらゲームする約束じゃん。それなら一緒に行こうよ」
「あー、やんたやんた」

 亮兄ちゃんは手首を振る。

「なんで?」
「きっと今頃は輪ゴムで何かやってるぞ。そんなの見飽きて面白くもねえ。お前はさっきみたいに煽てに行けよ」
「えぇー、そんな風に言わなくてもいいじゃん。一緒に行こうよ」
「行かね」

 亮兄ちゃんは腕を組む。
 ご飯の前まではあんなに楽しそうにしてたのに、どうしちゃったんだろう。

「もう少ししたら、すごい仙術を見せてくれるんじゃないの?」

 亮兄ちゃんは顔だけをこっちに向ける。

「もう打ち止めだ、あれでおしまい。他にはねえ」
「えっ!仙術ってあれで終わりなの?」

 僕の問いかけにこくりと頷く。

「終わり、終わり」

 諭すように言ってくる。
 そんなわけがない。

「だって仙術だよ?」
「仙術、仙術ってうるせーな」

 亮兄ちゃんは頭をポリポリと掻く。

「そんなの単なる言い方だ。手品にもなるし、マジックにもなる。昔、映画を観に行ったあとはヘンテコな呪文を唱えてだぞ」
「そんなぁ」

 亮兄ちゃんは机から足を下ろす。

「そんなもなにも、仙術って聞いて勘違いしたのはそっちだろ。俺が子供騙しって言ったのによ」

 慣れない姿勢をしていたからか、亮兄ちゃんは背伸びをする。

 一体どういうことだ?

「おじちゃん、自分のこと仙人だって言ってたじゃん」
「仙人なんているわけねえ。例えいたといても晴喜は絶対に違う」
「えっ!?」
「えって、まさか冗談を信じてる訳じゃねえよな」

 えっ?冗談?…どういうことだ。

「まさかー」少しだけど顔が引き攣ってしまう。「でも、本当に違うの?」
「違うに決まってるだろ」

 鏡がないからどんなのかは分からないけれど、ほっぺたは突っ張るし眉間に変な力が入ってたから、すごく変な顔をしていたんだと思う。亮兄ちゃんは「トウ」とチョップをしてきた。

 あっちゃんやりやがったな。

「じゃあ、『大地のドラ』は?」
「何だそれ?」

 嘘だ。

「カブトムシを大量に捕まえる必殺技!」

 亮兄ちゃん、お願いだからこれだけは嘘じゃないって言って。

「は?聞いたことねえ。なんだそれ?」

 亮兄ちゃんは眉間に皺を寄せたまま、こっちを見ている。
 ダメだった。

「それに、カブトムシなんて必殺技を使わなくても簡単に捕まえられるだろ」

 亮兄ちゃんは窓を見つめる。

「いねえか。電気を点けてればカブトムシなら飛んでくるぞ」
「えっ?」

 話の展開が急すぎる。

 おじちゃんが仙人らしいから探りを入れたら本物で、仙術を見せてくれた。でも仙術は手品だけで、大地のドラなんてない。それどころか、おじちゃんはやっぱり仙人じゃない。
「窓に当たる音がして羽音がブゥーンならカブトムシで、ブーンならカナブンだ」
 そして、カブトムシは必殺技なんて使わなくても簡単に捕まえられる。
 なにがなんだか分からない。でもカブトムシはいるらしい。いや、いて当たり前か。

「それよりさ、お前って日和ちゃんにいつもああなの?」

 話が変わっちゃった。
 この問題はあとにしよう。

「いつもって?」
「日和ちゃんが失敗した時に、晴喜の冗談に乗っただろ?」
「冗談って仙人だって言ったやつ?」

 亮兄ちゃんは何回か頷く。

「あれってさ、やっぱり妹が困ってるから助けなきゃって思ったりすんの?俺、一人っ子だから気になってさ」
「そんなつもりはなかったけど…」
「いやいや。あんな下手くそな演技してたら、誰だって気が付くだろ。お前がああやって煽てるから、あいつもそれで調子に乗ってさ。嫌いだわー」

 えっと、亮兄ちゃん勘違いしてる。

「だから、そんなつもりじゃなかったんだって」

 亮兄ちゃんは僕の顔を見つめる。

「あー武史とおんなじだ。あいつも妹のこと好きなくせに嫌いって言う。兄妹ってのはそんなもんなのかなぁ」

 亮兄ちゃんは良いように考えてくれている。これってラッキーっていえるのかな?日和のためにやったわけじゃないから、なんか違う気がする。良い事をして褒められたら気持ちがいいのに、これはなぜだかモヤモヤする。

 日和は変なヤツだ。
 自分勝手に生きているから、それを相手にするこっちは疲れてしまう。でも、不思議と周りを笑わせる。だから好きってわけじゃないけど、決して嫌いじゃない。普通だ、普通。
 でも、これ以上何かを言われるのは嫌だな。

「そうだ!」
「なんだよ?」
「あれって新しく出た昆虫図鑑でしょ?」

 僕は新しい方の本棚を指差す。
 亮兄ちゃんはニヤリと笑う。

「いいだろ?」
「うん」

 亮兄ちゃんと目が合う。すかさず僕は本棚に向かって飛び出す。
 そして、図鑑を手に持って戻ってくる。

「何から見る?」
「うーん、やっぱりカブト」
「いや、新種からだろ」

 僕たちはおでこを擦り合わせるようにして、膝の上にある図鑑を覗き込んだ。


 最後に亮兄ちゃん。否定してる時の言い方が、嫌いなはずのおじちゃんと一緒だよ。
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