聖なる日の物語

遠野 時松

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サンタの笑顔

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 夫はその視線から逃れるようにキッチンへと向かう。
 いつもならそこから一言、もしくは二言三言あるはずなのに、会話が止まったのが気になったのか、いそいそとこちらに戻ってきた。
「あの流れで黙ったりされるとかなり心臓に悪いんだけれど。突然どうしたのさ?」
 明日は聖なる日。神の子が受肉した日。
 そんな大切な日を、こんな気持ちで迎えられない。今年の汚れ、今年のうちにの精神だ。
「それよりウィンクしてみて」
 問いかけの答えとしては支離滅裂。それでも勘の良い夫は、先ほどの掛け合いもあるし、理由を聞いても無駄なのを感じ取り、椅子に座るとこちらに顔を向けてウィンクをしてきた。
 セオリーでいくならここでするウィンクは、娘にするウィンクなはず。それを見てワハハで終わりとなっただろう。それなのに夫が選んだのはこのウィンクである。
「それなら今度は笑ってみせて」
 何度も言うけれど、聖なる日はもう直ぐだ。少しぐらいわがままを言っても許されるだろう。
 夫は「お安い御用さ」と言い、ニカっと笑ってみせる。
 私は、あの日の事を思い浮かべながら、頬杖を突いてしばし眺める。

 当時の私は、突然始まった慣れない育児と仕事との両立で心身ともに疲れ果てていた。そこに娘のイヤイヤ期が追い打ちをかける。込み上げてくる感情を抑えきれずに、会社のトイレで気持ちを溢れさせる事もあった。
 そんな中、そり返る娘に悪戦苦闘しながらも笑っている夫が不思議に思えた。娘を寝かしつけてから理由を聞いたら「僕、笑ってた?」と自分自身に驚いていた。夫はしばらく考えてから「多分だけれど、初めて抱いた時とは比べられないほどに力強くなっていて、しっかりと成長してくれているんだなって考えてたから、それで笑顔になってたのかな」と、あっけらかんとしていた。
 そして「でも、言われて気がついたけれど、ここまで傍若無人に暴れ回られて、何一つ思い通りにしてくれないのに笑ってるって、傍から見たらただの変人だよね。しかし、子供って手が掛かれば掛かるほど愛情が深くなっていってくのが不思議だよね」と言った後に、目尻に皺を浮かべて照れ臭そうに頭を掻いた。
 その言葉に私が言葉を詰まらせていると、夫は何かを感じ取ってくれたのか、無言のままそっと頭の上に手を置いてくれた。
 私はこの人のこういったところに惹かれて、お付き合いの申し出を受けたのだ。
 夫と一緒に居ると後ろ向きな考えが何処かへ飛んでいき、気が付いたら笑顔に変わっている。そんな不思議な魅力に自然と恋に落ちてしまっていた。自分では小動物なんて卑下していたけれど、人間の強さというものは別のところにあるのだと夫を通じて知った。
 それから、その晩は遅くまで、近所でも堅物で知られる父親があんなにも笑うのかと驚いた話、娘の笑った顔にこちらも笑顔になり、娘が泣いた顔を見て愛おしくて笑ってしまった話など、色々な話に花が咲いた。目に涙を浮かべながら。
 トイレで一人流した涙では感じることのできなかった、頬を伝う暖かさのお陰で心を取り戻す事ができた。
 その時と同じ笑い皺に心が癒される。

「どう?惚れ直してくれた?」
「ううん、お調子者だって再認識しただけ」
「天邪鬼な君の言葉だから、額面通りに受け取ることにしておくよ」
「無難な判断ね」
「それはそうとして、今年のプレゼントは大きくて大変だったね」
 私が笑ったままなのでここが好機と捉えたのか、夫はすかさず話題を変えてきた。
 当然の事ながら、私が何を考えていたかなど知る由もない。そんな状況でする話とはどんなものだろう。俄然興味が湧いてくる。
 それに、娘に見つかるのを恐れた夫自ら会社に持っていくと言い出したのに、その話をわざわざ持ち出してきたのだからきっと何かあったのだろう。
 いいわよ、楽しい話なら大歓迎。
「去年と同じくらいの大きさならロッカーに入ったのに、今年のは大きくて縦にしても横にしても入らなくてさー」
 変な間が空いてしまうから、私の顔なんて確認しなくていいのに。
「机の下だと蹴ったりして汚したりしたらヤダから、どうしようかと迷ったよー」
 再び不自然に語尾が伸びる。こちらの返事待ちなのが丸分かりでちょっとかわいい。
 周りから聞き上手だといわれる夫は、強引に自分の話をするなんて滅多にない。キャッチボール形式の会話じゃないと大概がこんな感じになってしまう。
「見るからにプレゼントだから机の上に置いておくこともできないし…」
「あの大きさだとそうなるわよね。どこに置く事にしたの?」
 このまま放っておくとどこまでも回り道をしそうだから、ここは話を進めてもらう。
「僕も悩んだんだよね」
 やっと私が興味を持ってくれたと安心したのか、それが言葉のリズムで表れている。
「書庫の片隅にこっそりと置こうかと思ったけれど、無断でって訳にはいかないから総務に頼みに行ったんだよ。そしたら杉浦さんが、「今回は特別ですよ」なんてみんなの前で笑うから恥ずかしかったよ」
「無事に使わせてもらえて良かったわね」
 褒められる事ではないが、だからといって持って帰れと言うほど総務部も鬼ではない。お相手の人柄を知っているので、どんな対応だったのかは気になってしまう。
「言い方は悪くなるけれど、どうぞご勝手にって感じだったよ」
「そうなの?ちょっと意外」
「意外かなー?いつもこんな感じだよ」
 あのマニュアルの番人と言われる杉浦女史が何の制約を付けずに認めるなんて、私としては意外としか言いようがない。
「次の日にお礼のお茶菓子を持って行ったら、そのまま休憩を兼ねてお茶する事になったんだけれど、みんながクスクスと笑ってくるんだよ。でも何で笑っているのかなかなか教えてくれないんだよね」
「それ本当?」
「本当だよ。クスクス笑ってばかりで全然答えてくれないんだよ。本当にみんな酷いよね」
 夫は手振りを交えて話のオチへと助走をつけ始めた。
「そうじゃなくて、総務部の人達とお茶したの?」
「したよ。なんで?」
「なんでって、杉浦さんとお茶をする仲なの?」
 その辺はご存知の通り、みたいな感じで話を進められても困る。
「う、うん。まあ、そうだね。といっても今回は持っていったのが和菓子だから、それならお茶も欲しいよねって流れからだけどね。それより、そっちが気になるの?笑ってた訳より?」
 目をパチクリとさせて夫は聞いてくる。
「訳の方を聞いたとしても、お茶会の方が気になって頭に入ってこないと思うわ」
 高橋さんに目高さんはお酒が好きで甘いものは食べない。今井さんは元々好きではなくて、瀬下さんは出されれば食べる程度。そうなると、そのお茶会にいたのは旦那以外はレディの皆さまとなる。
「そんな大袈裟な。気になってるのに申し訳ないけど、こっちはこれ以上膨らまないよ。給湯室でやる、いつもの立ち話程度のお茶会だったからね」
「そうだったのね。お陰で解決できたわ」
 やっぱりそうだったのね。
 給湯室といったら聖域だ。そこに呼ばれる凄さを理解していないし、説明するのも面倒くさい。
 それよりあの方々に気に入られているなんてこの人もなかなかの人たらしだ。人のこと猛獣使いなんてバカにしていたけれど、夫も大概だと思う。それを当の本人は全く気が付いていないというのが、らしくて面白い。
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