アズアメ創作BL短編集

アズアメ

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81~90

(81)恋敵生徒×塾講師

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 塾講師である庵野 杏は、同僚であり幼馴染でもある桜庭 樹に恋心を寄せていた。しかし、最近入ったばかりの生徒、望月 蓬が樹に猛アタックを始める。何とか諦めさせようとする庵野に望月は「顔はタイプなので後は甘えてその気にさせてくれさえすれば、乗り換えるのもアリだ」と言われ……。
 恋愛慣れ生徒×一途塾講師→幼馴染天使系塾講師
 嫌いな相手に好きになって貰わなきゃいけないシチュが好きです! 当然のようになんか媚薬使ってます!

庵野 杏(あんの あんず):幼馴染を崇拝している。イケメンなのに拗らせ過ぎて実は童貞。
望月 蓬(もちづき よもぎ):モテすぎて女に飽きちゃった高校生。拗らせ過ぎて好みが可愛い成人男性に。
桜葉 樹(さくらば いつき):成人しても可愛い天使。杏とはその後も良いお友達。
ネーミングは概ね餅関連になってます。
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『杏~! ほら、涙を拭いて。ね、一緒にお絵描きして遊ぼうよ~!』
 天使みたいに可愛い少年がハンカチで俺の涙を拭うと、目の前でにっこりと笑ってみせる。そのふんわりとした笑顔は、まだ幼かった俺の心に深く大切に刻まれて――。



 俺、庵野 杏には好きな男がいる。そう男だ。別に悩ましいことではない。だって、俺の愛しい想い人である桜庭 樹は、昔と変わりなく、ふんわりとした笑顔が似合う、可愛らしいマイエンジェルだから。性別など超越して当たり前だ。
「も~、杏ってば、いい加減頭撫でるのはやめてよ~!」
「いいだろ? 減るもんじゃないし」
「減るよ~! 生徒たちの私に対する威厳が!」
「それなら問題ない。お前の威厳なんか最初っから無に等しい」
「あ~! 杏のいじわる~!」
 ふくれっ面した樹を見ながら、今日も幼馴染という特権を堪能する。
 樹とは幼稚園の頃からずうっと一緒だ。小学校、中学校は勿論のこと、大学だって樹に合わせて受験した。そして、就職先も。
「まさか、本当に杏と一緒に塾講やるとは思わなかったよ~」
「言っただろ。俺は死んでも樹の傍にいるって」
「でも、杏なら普通に教師目指せただろうに~。勿体ない!」
「別に。塾講も楽しいし。それに」
 学校だと一緒に働ける確率が低い。あと、どうせ異動でバラバラになってしまう。だったらということで、先手を打って知り合いの経営する塾の講師にならないかと樹に持ち掛けた。教師になることを諦めかけていた樹にとっては美味しい話。二人で働きたい俺にとっても美味しい話。そうして、見事俺たちは同じ塾に就職を果たした。樹は勿体ないだのと言うが、俺にとっては、樹がいれば何でもいい。
 そう思っていたのだが。

「ねえ桜庭先生。質問いいですか?」
「お~、望月くん。今日もやる気いっぱいだね~!」
「ええ。僕はいつだって本気ですから。で、ですよ。先生って、今、恋人はいるんですか?」
「んも~! 望月くんまで私のことを揶揄うなんて~! ひどいな~!」
「いえ、だからですね、僕はいつも本気だって……」
「望月 蓬くん、だっけ? 桜庭先生は今忙しいからね、代わりに俺が教えてあげようか」
「え。それは遠慮したいんですが」
「……」
 隣のデスクで散々樹を口説き倒した挙句、俺の提案を真顔で断った望月 蓬は、最近になって塾に入ってきた男子生徒。ここ数日、毎日のようにわざわざ樹に話しかけるコイツに、俺は正直殺意を覚えていた。
 だって、コイツ絶対樹に気があるだろ……。
「そうだ、今は自習室が空いてるから、そこでみっちり教えてやる。さあ来い今来いいざ来い」
「ちょ、ちょっと……!」
「ふふ。二人とも熱血だね~! ガンバレ~!」
 のんきに手を振る樹をずっと見つめていたい衝動を抑え、俺は害虫を自習室まで引っ張っていく。
「庵野先生、なんなんですか? 僕、アンタに教えて欲しくないんですけど」
「はっ。俺がお前に教えることはただ一つだ害虫。お前、樹に手ェ出したらタダじゃおかねーからな?」
「え……。庵野先生、キャラ違くないですか?」
 殺意剥き出しで睨みを利かせた俺に、望月が目を丸くする。驚くのは無理もない。いつもの俺は人当たりが良い。微笑みを絶やさない爽やか王子、なんて女子生徒からはちやほやされていたりする。だが、害虫にまでキャラを作る意味はあるまい。
「お前ははっきり言って目障りだ。俺から樹を奪える思うなよ?」
「桜庭先生と庵野先生は別に付き合っているわけじゃあないんですよね?」
「……」
 挑発的な瞳を向けられ、言葉を詰まらせる。確かに、俺はまだ樹に告白らしい告白をしてはいなかった。というか、天然な樹が俺の気持ちに気づいているかも怪しい。
「だったら、僕にどうこう言う資格はないんじゃないですか? 奥手な庵野先生」
「……お前こそ、随分とキャラが違うようだが?」
 意地悪く笑う望月は、俺同様に女子生徒から甘やかされている王子様タイプだ。間違っても生意気に挑発をかましてくるようなクソガキではない。
「はは。そりゃあ害虫相手にまでキャラを作る意味なんかないでしょ」
「一応聞いておくが、害虫というのは誰のことかな?」
「さて、誰のことでしょうね。まあ、人の恋路の邪魔は控えることです。さもなくば、すぐに痛い目に遭いますよ。庵野先生」
 肩に置かれた手を即座に払い、睨みつける。目に映った望月は、思っていた以上に厄介な相手だったらしい。でも。
「笑っていられるのも今の内だ。お前は俺が絶対に崩してやる」
「大人げないですよ? 庵野先生」
「樹は俺の特別なんだ。お前には渡さない」
「いいですよ。それじゃあ僕も全力をもって戦わせてもらいます」
 不敵に微笑む望月を見て、どんな手段を使おうが樹を守ることを決意する。
 そう。樹は俺が守らなければいけない。いつだってそうしてきた。昔は、樹に助けられてばかりだったけれど。今は違う。俺は強くなった。だから……。



 両親はいつも俺を放って外に出ていた。禄な愛も受けぬまま育った俺は、小学生になっても、相変わらず人との接し方がわからなかった。
 最初は話しかけてくれていたクラスメイト達も、何も喋らない俺の存在を次第に忘れていった。
 学校でも家でも、俺は一人ぼっちだった。
 心はとっくに寂しさに悲鳴を上げていたけれど、俺は一向に喋らないままだった。
 自分がつまらない人間だと知られたくなかった。惨めな自分が露呈するのが嫌だった。
 そんなんだから、俺はやっぱり一人だった。
 自分は結局誰からも愛されないのだと毎日泣いた。そろそろ諦めようかな、と真剣に死を決意した。こんな世界ならば、早いうちに死んでしまった方が楽なのかもしれない、と思ってしまった。
 そんなとき。俺の目の前に天使が現れた。
 転校してきた樹が、俺に話しかけてくれたのだ。
 勿論、俺は黙ったままだった。何か話さなくては、と思うほどに、喉が締め付けられて言葉が出なかった。
 ああ、きっとこの天使も俺から離れて行ってしまうのだろう。
 悔しくて涙が溢れそうだった。でも。
 樹は喋らない俺に向かって、根気よく話しかけた。無駄だというクラスメイトの忠告を聞かずに、ずっと俺に向かって言葉を投げかけ続けた。
 どうして……。
 鼻の奥がツンとして、ついに涙が溢れ出した。どうして泣いているのか、自分でもよく分からなかった。次々に溢れる涙を手で拭うので精一杯だった。
『杏~! ほら、涙を拭いて。ね、一緒にお絵描きして遊ぼうよ~!』
 ポケットからハンカチを取り出した樹が、丁寧に涙を拭いてくれた。そして、天使のような微笑みをくれた。
 そのとき、俺は初めて、この世界に許されたような気がした。
 温かい天使の手を取ると、その温かさが自分に流れ込んでくるような気がした。そこで、俺は初めて人間らしい微笑みを浮かべることができた。
『杏の笑顔、好き~。ずっと笑っててほしい~!』
 天使が屈託のない笑みを浮かべてそう告げた。
「俺は、樹の笑顔が、好き……」
 俺なんかよりも綺麗なそれに、自然と言葉が零れていた。恋に落ちない方が難しい。
 そうして、俺は樹と行動するようになって。そのうちに、どんどん友だちが増えて。次第に外面の付け方がわかってきて。高校生になって親元を離れたとき、一人ぼっちだった可哀想な少年は完全に“死んだ”。だから。
 大人になった俺は、そろそろ樹に本当の気持ちを伝えようと思っていた。樹に群がる害虫を全て払って、今度は俺が隣で樹を守る番だと思った。それが、俺がこの世界で生きる意味だと思ったから。



「ふふ。やっぱり桜庭先生は可愛いですね」
「またそれ? よしてよ望月くん。そんなに毎日言われると、困るな~」
「僕は本気ですよ。だから、桜庭先生も、ちゃんと意識してくださいね?」
「えっと……」
「ハイ、ストップ。望月くん。君は自習時間のはずでしょ?」
 毎度懲りずに樹を口説く害虫を押しのけ、その顔面にプリントを押し付ける。
「ちょ、なにするんですか!」
「なにするんですか、はこっちの台詞だ。さっさと戻って勉強しろ」
「質問があって来たんです!」
「お前のクラスの担当は俺のはずだが? 質問があるならまずは俺に聞け」
「嫌です! 僕は桜庭先生が好きなんですから!」
「な……」
 こっちが言えずに苦労している台詞をあっさり言ってのける望月に言葉を失う。
 慌てて樹を見てみると、案の定顔を赤くして照れている。
 そう、樹は真っすぐな気持ちを伝えられると、すぐにその気になってしまう性質だった。だから、望月の作戦は非常に的確でいて、俺の理想とする落とし方だった。
 こうなってしまうと、もはや時間の問題だ。手を打たなければ、あっという間に手遅れになってしまう。
 だが、なにしろ樹は一途なのだ。
 今まで樹が人を好きになったことはあった。その度に止めたが、相手に恋人ができるまでは頑なに諦めなかった。
 それをどうやって邪魔していたかというと。
「簡単なことだ。相手を他者とくっつけてしまえばいい」
 ぼそりと誰にも聞こえないように呟き、望月をそっと睨む。
 そう。望月はまだ高校生だ。多感な年頃には、いくらでも誤魔化しは効くだろう。
 さすがに樹に言い寄る男は初めてだったけど、むしろ好都合。男の方がトラップを仕掛けやすいはずだ。それに望月ほど顔が良ければ、相手もより取り見取り、発破もかけやすく……。

『うわ~ん! せっかくアンズちゃんが背中押してくれたのに、振られた~!』
 マジか……。
 胸に飛び込んできた女子生徒を宥めながら、内心がっかりする。
 これで五人目じゃないか……?
 目の前の少女はとても可愛らしい。俺だって告白されれば少しは揺れる。それくらいに上玉だってのに、どうやら望月は秒で振ったらしい。
 くそ。やっぱり男が好みってわけか……。
「でも、男子生徒にこの話を持ち掛けるのは、どうなんだ……?」
 振られた女子生徒のフォローが終わり、考えを巡らす。
 可愛い男子生徒なんて、この塾にはいないし……。
「どうかしました?」
「うおっ。いやその……」
 自習室から出た瞬間、望月とぶつかりそうになり、言葉を詰まらせる。
 いや、待て。ここは相手の情報を探るべきだ。
「庵野先生?」
「あ~、望月くん。コーヒー奢るからさ、ちょっと面談室で話さない?」
「……いいですよ。僕も庵野先生とお話したいなあって思ってたところですから」
 にこ、と笑ってみせた望月は、やはり王子様という言葉が似合う。女子が見ていたら騒いだに違いない。だが、生憎俺は、コイツに苦手意識と対抗心しかない。
「え~っと。最近、樹にばっか質問するけど、そんなに俺の教え方は悪いかな?」
「……そういうのいいんで、さっさと本題入ってくださいよ。時間が惜しい」
 コーヒーを煽りながらこちらを一瞥した望月は、先ほどの王子モードとは違い、包み隠さず白けた顔をしていた。
「は~。じゃあ聞くけどさ。その。君さ、好きなタイプってのは……」
「ご存じの通り、僕は可愛い子が好きです」
「可愛い子って、やっぱ男でってことか」
「そうですね~。女の子が可愛くても、もう何とも思えないんですよね」
「既に経験豊富ってわけか……」
「否定はしませんよ。ま、だから今は、桜庭先生みたいに、男なのに女の子より可愛い雰囲気とか、結構新鮮でグッとくるんですよね~」
「いや、たしかに樹は可愛いが……」
 樹は、身長も平均よりは低く、線も細い。が、やはり体つきはあくまで成人男性のものだ。それを五歳以上は年下である望月が、可愛いと言ってのけるにはやや無理があるというか……。
「だから、見た目とかよりもこう、ね? 中身がふんわりしてると、つい意識が向いちゃうっていうか」
「……それじゃあ、もし俺が中身ふんわりだったらチャンスあるってことか?」
 自分で言っていて気持ち悪くなったが、年上でいて、身長も望月より少し高く、決して可愛い顔ではない俺は例えとして悪くない。まあ、聞いといてなんだが、さすがに俺は無いはずだから――。
「ええ。大いにアリですよ。庵野先生」
「は?」
 自らの耳を疑い、望月を凝視する。だが、どうも嘘を吐いているような顔ではない。
「僕、結構先生の顔、好きなんですよね。甘えられたら可愛いと思うかもしれません」
「甘えるって……」
 撫で回すような視線に寒気を覚えて目を逸らす。
 コイツ、思ってたより、ずっとガチでヤバいかも……。
「で。先生は僕のことが好きなんですか?」
「は?!」
 ぐいと腰を引き寄せられて、耳元で囁かれた俺は、望月のとんでもない勘違いに思わず叫ぶ。
 叫んで、身を捩るが、その腕の拘束から上手く逃れられない。思っていたよりもずっと強い力に、少しの焦りを抱く。
 まさか、コイツにとって、俺すらもがそういう対象だっていうのか? まさか。そんなことは……。
「先生……」
「っ……!」
 首筋にかかる吐息に耐えられなくなり、望月を突き飛ばそうとした瞬間――。
「な~んて、ね」
「は……?」
 真剣な表情から一転、けろりと笑った望月に手を離されてよろめく。行き場を失った手を下ろしながら、状況を理解して羞恥が襲う。
 コイツ、俺のことを揶揄いやがった……!
「だってね。先生が僕のことを好きだなんて、流石にあり得ないですよ。つまり、答えは一つ。先生は、桜庭先生から僕の気を逸らそうとしてるんでしょ?」
「えっ、いや、その。なんのことだか~」
「庵野先生って、思ったより嘘が下手くそなんですね」
「うっ」
「今までの可愛子ちゃんたちも全部先生の差し金でしょ。わかってますよ」
「え~っと」
 下手な嘘を吐けば、全て見抜かれる。そんな圧を潜めた望月の前で、俺は為す統べもなく、汗を流して立ち尽くす。
「先生、もしかしていつもこうやって桜庭先生の邪魔してたんですか?」
「それは……」
 改めて蔑まれると、良心が痛む気がする。が、次の言葉でそれも吹っ飛ぶ。
「ま、僕は大いに邪魔してくれて結構ですよ。僕の気を変えられる相手なんて、今のところ庵野先生しかいないと思いますけどね」
「は……?」
「庵野先生の見た目、本当にタイプなんですよ。性格さえ変えてくれれば、マジで乗り換えてもいいですよ?」
「いや、それは……」
「僕の気を引くのはかなり大変だと思いますよ? 結構条件厳しいんです。だから、庵野先生が本気でやんないってんなら、僕は桜庭先生をぺろっと食べちゃいます」
「……」
 俺がこいつに媚びを売る? このやたらニヤニヤしてるクソガキに? そんなことできるわけ……。
「ま、庵野先生にはそんな覚悟無いか。桜庭先生への気持ちも、所詮はその程度ですもんね?」
 挑発するような眼差しに、拳を握りしめる。長年の想いが、こんな形で馬鹿にされたんじゃ、黙ってはいられない。
「いいよ。やってやろうじゃねえか」
「う~ん。凄んでる時点で減点ですけどね。いいでしょう。頑張って僕をその気にさせてくださいよ。先生」
 頬を撫でる望月の手がなんとも心地悪い。至近距離で見る望月の顔が男の俺でも息を飲むほどに整っているのがすこぶるムカつく。
「はは。そんな顔してちゃ、僕は落とせませんよ?」
 目を細めた望月が自然と距離を詰める。待て、待て待て。近い。唇が……!
「っ……。明日から! 明日からやるから! 今日はもうこれでお終いだ!」
「ふっ。ちょ、何慌ててるんですか、先生、まさか、童貞……?」
 唇が触れようというギリギリのところで突き飛ばされた望月が、そのまま腹を抱えて笑い出す。
「なっ……」
「ぷ……。あはは! その顔、絶対図星じゃないですか! はは、まさか庵野先生が! いや~、ノコノコついて来た甲斐があったなあ!」
 目に涙まで浮かべて笑い転げる望月に、一気に羞恥が襲い来る。
 だって! 仕方ないだろ! 俺は樹一筋だったんだから! そんな不埒な真似ができるわけ……!
「は~。じゃあさ、これがファーストキスだったり?」
「う、ん……?」
 ぐいとネクタイを引っ張られたかと思うと、次の瞬間、唇に柔らかいものが当たっていた。
「な~んて。流石にそこまで酷くはな……」
「っ……」
「え。待って。マジで言ってる? え、嘘でしょ? その歳で、庵野先生みたいなイケメンが? キスも初めてとか……?」
「……」
 顔が熱い。唇を何度拭っても、さっきの感触はそう簡単には消えてくれない。
「いや。それ、演技だとしてもヤバい……。才能ありすぎ……」
「と、にかく……! 樹に手を出すことは許さん! から、だから……、その、覚えておけ……!」
 よくわからない捨て台詞を吐いて、ふらふらと部屋を出る。
 最悪だ。今すぐ記憶を消したい。
 唇に触れたコーヒーの匂いを思い出し、胸やけがする。
 それからしばらく、コーヒーを飲むどころか、部屋に漂うその匂いすらもが嫌になったのは言うまでもあるまい。


 だが、現実的に考えて、状況は芳しくなかった。日に日に樹の望月に対する態度が甘さを増してゆくのを目の当たりにして、どうして正気を保っていられるだろうか。
『僕、結構先生の顔、好きなんですよね。甘えられたら可愛いとは思うかも』『庵野先生の見た目、本当にタイプなんですよ。性格さえ変えてくれれば、マジで乗り換えてもいいですよ?』
 望月の言葉が頭の中で木霊する。俺が望月をその気にさせることさえできれば……。でも。
 自分に人を振り向かせるだけの力があるとは思えなかった。確かに、女性から黄色い声を上げられることは多々あった。だが、それはあくまで彼女たちの理想と言う外面を演じていたからに過ぎない。
 いや。それでいい。そうだ。俺は演じればいい。外面のつけ方なら、もうとっくにわかってる。本当の自分なんぞ、隠せばいい。
 そうして、望月も、樹でさえも、彼らの望む仮面をつけて、虜にしてしまえばいい。それなのに。

「ねえ庵野先生、やる気あります?」
「どういう意味だ?」
「先生は、僕をその気にさせてくれるって言ってましたよね? その結果がさっきのですか?」
「う……」
 望月が言うさっきとは恐らく、授業中に目が合い、思わず睨んでしまったときのことだろう。
 頭ではわかっているはずなのに、どうしても殺意が湧いてしまう。
「は~。わかりました。ちょっとこっちに来てください」
 腕を引かれるがままに連れてこられたトイレの個室で、いきなり頬を引っ張られる。
「いて……」
「あのですね、目が合ったら可愛く微笑む。これ基本。ハイ、やってみてください」
「誰が……」
「拒否権はないはずですけど?」
「う……。こ、こうか……?」
「ぶはっ。何その引きつった顔!」
 またしても笑われた。反射的にコーヒーの匂いが蘇って、思わず顔をしかめる。
「なあ、やっぱり俺じゃ無理だ……。お前も、わかってて揶揄ってるんだろ?」
「へえ。先生は諦めるんだ。桜庭先生のコト」
「そうじゃ、ないけど……」
 望月の前では上手く仮面が被れない。
 樹の前でも上手くいかないときがあるけど、それは何というか、樹の中で生きる昔の自分が、無意識の内に俺を責め立てるからだ。
 それじゃあ何故、望月の前でもそうなるのかというと、ただ単純に調子が狂うからという理由以外見当たらない。きっと相性が悪いのだろう。想い人を取られそうになっているんだ、相性が良いはずがない。
「庵野先生。簡単なことです。先生はもっと僕に甘えてくれればいい。そうしたら、僕だって貴方に少しは優しくできるはずですから」
「甘えるって……」
「おねだりや甘えるのは可愛いの基本ですよ?」
 そう言われたって、いまいちピンとこない。甘えるとか、可愛いとか、どう考えても俺とは関係のない言葉だ。
「これじゃああまりにも張り合いがありませんよ。ああ、そうだ。庵野先生にもチャンスをあげましょう。週末、僕の家に泊まりに来てください」
「は……? 泊まりに……?」
「そこで僕に上手く甘えられたのならば、先生の勝ちと言ってもいいでしょう。先生が乗らない手はないと思いますけど?」
「……わかった。行く」
 勿論、気乗りはしないが、行かなければきっとすぐに望月と樹は恋仲になってしまう。謂わば、これが最後のチャンスなのだろう。敵に情けを掛けられたことは癪だが、その分、絶対にやってやろうという気力が湧いてくる。
 大丈夫。きっとできる。俺はもう、昔の惨めな少年じゃない。だから……。


「大丈夫ですか?」
「ん? 何がだ?」
 高校生の一人暮らしにしては少しばかり広いマンションの一室へ招待された俺は、部屋の主である望月と共に、何故かホラー映画を鑑賞していた。
「いや、だから。怖くないですか?」
「ああ。この程度まだ生温い」
 腐敗したゾンビが人間を襲うシーンを見ながら、テーブルに置かれた菓子を口に含む。そして、それがコーヒー味のチョコレートだと知り、顔をしかめる。
「は~。そうじゃないでしょ。もっと他のリアクションがあるでしょ。何のためにコレ観てると思ってんですか」
「……悪い」
 単純に望月の趣味なのだろうと思って、普通に楽しんでいたが、どうやら間違いだったらしい。あからさまにため息を吐く望月にはイラついたが、ここは素直に謝っていた方がいいのだろう。
 しかし難しい。甘えるとは一体何なのだろうか。こっそりとスマホで「ホラー映画」「甘える」と検索してみる。すると出てきたのは「これでカレシもイチコロ」とか「カワイイ女子を演じちゃお!」とかいう煽り文句と女子に向けたアドバイス記事。なになに、「ゾンビが出てくるシーンに合わせて、カレシに抱きついちゃえ!」? なるほど。これが甘えるってやつか。
 映画に再度集中して、ゾンビが出てくるシーンを待つ。本当にこんなことで望月が俺を可愛いと思えるかは疑わしいが、やらねばなるまい……!
『危ない! 逃げろ!』『き、きゃあああ!』『グオオオオ!』
 ここか? ここで抱きつけばいいのか?! ええい、ままよ!
「望月、御免……!」
 可愛いとは言えないであろう台詞を口走りながら、望月に抱き着く。が。
「す~」
 す~?
 穏やかな息遣いに、望月の顔を見る。
「コイツ、寝てやがる……」
 頬杖を突きながら器用に眠る望月の安らかな表情に、安堵と怒りがこみ上げる。
 当たり前だがコイツ、これっぽっちも俺のことを意識している様子がないじゃないか。
「おい。今寝るな。起きろ馬鹿!」
「ん~。すみませ~ん。やっぱ眠い~。ちょっと寝ます~」
「は? おい!」
 引っ付いたままの目を擦りながら、ソファから足を引き摺るようにしてふらふらと、ベッドへその身を預けた望月は、再び寝息を立て始める。
「嘘だろ……」
 取り残された俺は、取りあえずテレビを消して、辺りを見渡す。
 あ。テキスト、机の上に広げっぱなしだ。
「へ~。流石に勉強はしっかり頑張ってるんだな……」
 吸い寄せられるように手に取った塾のテキストを見て、日ごろの成績の良さは努力から来ているものだと知る。
 まず、書き込みがすごい。丁寧に引かれた線も勉強の巧さを物語っている。ノートは既に数十冊積み重なっていて、どれも綺麗な字でまとめられている。まあ、担当の生徒がこれだけ勉強してくれてるのは嬉しい。嬉しいんだが……。
「コイツ、絶対自炊してないな……」
 ゴミ袋の中に入ったカップ麺と弁当の空、そして台所を見て確信する。調味料どころか調理器具すらもない。
 いや、時間がないのはわかるが、成長期にそれはよろしくない。
「いやいや、でもそれは俺の口出しするところでは……」


「おい、起きろ。飯が出来たぞ」
「え……?」
 恍けた顔の望月が目を擦りながら、机の上に並んだ料理を見つめる。
「冷めないうちに食うぞ?」
「え、待って。まさかコレ、先生が作ったんですか?!」
「他に誰が作るっていうんだ?」
 擦ったばかりの目を丸くしながら叫ぶ望月に、ご飯をよそった茶碗を寄越す。かろうじて米と炊飯器があったことに安堵したのは言うまでもない。
 まあ、俺だって別にここまでする義理はないとは思う。が、まあなんだ。日頃の成績のご褒美ってやつだ。
「でも、だって、フライパンとか、ウチにはなかったはず……」
「お前が寝てる間に買ってきた。ついでに皿も。お前な、皿までないとか、どういう生活してんだ。王子様が聞いて呆れる」
「王子様って。てか、先生こそ。料理できるの意外過ぎ」
「は。こちとら王子で通ってんだ。それくらいできなくてどうする」
「先生って、ほんと意外とマトモですよね」
「意外とは余計なんだよ」
 箸を手に持ち、ハンバーグに切れ込みを入れる。割った傍から湯気が出てきて、デミグラスソースとチーズが一際香る。チーズの上に乗った目玉焼きは勿論半熟状態なので、とろりと黄身がソースと絡み、コントラストを描いてゆく。
「僕、ハンバーグ好きなんです」
「そりゃ良かった」
「食べていいですか?」
「ああ。口に合うかはわからんが」
「それじゃあ。いただきます」
 俺と違ってお行儀のよい望月が、両手を合わせて呟く。正直、少し緊張した。自分の手料理を誰かに振る舞うことなんて滅多にない。というか、樹を含めて誰にも食べさせたことがない。なんせ、俺は樹を部屋に呼んだことがない。何故かと問われれば、樹を神聖視しすぎたせいだと答えるより他はない。望月に奥手だと笑われても仕方がないのかもしれない。じゃなくて……。
「ん。おいしい……」
「そりゃ、良かった」
 望月の素直な感想に頬が緩む。偶には人に飯を作るのも悪くないのかもしれない。長年一人暮らしをしていると時々、何のために自炊を頑張っているのかわからなくなるからな。
「こういうの、いいですね」
「だろ? わかったら、お前もこれからは自炊を……」
「そうじゃなくて。なんか、家族みたいで」
「家族……?」
 ああ。そうか。普通の家庭は、こうやって共に食事をとるのか。思い当たって、風化したはずの記憶が蘇る。が、すぐに首を振り、幼い頃の惨めな自分を打ち消し、望月に向かって挑発的な視線を送る。
「恋人って言ってくれて構わないぞ?」
「ふふ。そうですね。さながら同棲中のカップルでしょうか」
「俺に惚れたか?」
「それは、先生次第ですね」
「え?」
 箸を置いた望月が、ふいに俺の頬に手を伸ばす。
「胃袋を掴むやり方は及第点ですよ、先生。ま、意図してやったかはわかりませんがね」
「……やめろ。飯がマズくなる」
 頬を撫で回す手を反射的に打ち払うと、望月の表情に呆れが浮かぶ。
「あのねぇ。飯と自分の恋路、どっちが大事なんですか?」
「う……」
 じっとりとした望月の視線に耐え切れず、咀嚼もほどほどにハンバーグを飲み込む。望月の指摘はごもっともだ。俺にはそういう類のセンスがないことがはっきりした。が、望月が許してくれるはずもなく。
「やる気ないんだったら帰ってもらってもいいですよ?」
 冷たい声音に、じわりと汗が滲みだす。ここで諦めてノコノコ帰ってしまえば、樹と望月が結ばれること間違いなしだ。
「でも、俺は……」
「どうしていいかわかんない?」
 まるで心を読んだかのような望月の言葉に、悔しいが黙って頷く。すると、何故か満足そうな顔をした望月が、耳元でゆったりと呟く。
「いいですよ。食事が終わったら教えてあげましょう。だから、今はこの同棲ごっこを楽しみましょうか。間違っても、不味くなるとか言わないでくださいよ?」
「……わかった」
 言いたいことは山ほどあったが、それを飲み込み、食事を再開する。
「ふふ。本当に美味しい。先生、才能ありますよ」
「それは、どうも……」
 望月に見られながら食べたハンバーグは、依然として美味しいはずなのに、飲み込むのに苦労した。やはり、俺には一人の食事が合っているのだろう。


「さて。腹ごしらえも済んだし。本題に移りましょうか。ね、先生」
「は……?」
 食器を片付け、腰を下ろそうとした瞬間。腕を引かれたかと思うと、そのままベッドに叩きつけられ、あっという間に伸し掛かられる。
「は、放せ!」
「何嫌がってんですか。こういうことになるってことぐらい、分かってたでしょうに」
「いや、でも。まさか、本気で俺を抱こうとか、思うわけないって……」
「馬鹿ですね。言ったでしょ。僕は先生の顔、好きだって。抱こうと思えばいつでも抱けますよ?」
「冗談だろ?! 男同士って、そんな気軽にできるもんじゃ……」
「へ~。知識は一応あるんですね。でも、僕だってそんなことはわかってますよ」
「じゃあ……!」
「じゃあ、先生は何もせずに帰るって言うんですか?」
「それは……」
「ねえ、いい加減先生の可愛いとこ見せてくださいよ。僕だって少しは楽しみにしてたんですよ?」
「正気か……?」
 可愛いの定義はよくわからない。わからないが、望月に媚びる自分を想像するだけで吐き気がする。でも……。
「……わかりました。やっぱり先生は可愛くない。僕が狙うべきは桜庭先生一人ですね」
「ま、待て……」
 冷めた瞳をこちらに向けながら起き上がった望月を追いかけるように起き上がり、掠れた声で呼び止める。
「もう帰っていいですよ、先生。時間の無駄だ」
「待て。待ってくれ。チャンスをくれ。望月、俺は、どうすればいい……?」
 唇を噛みしめながら望月を見ると、冷たい目が再び満足げに細められる。
「教えて欲しいんですか?」
「……頼む」
「それじゃあ。まずは、自分で服を脱いで貰いましょうか」
 首筋を無遠慮に撫で回す望月の手が気になったが、何とか堪える。逆らうのは得策じゃないだろう。
「っ……」
 震える手で自らシャツのボタンを外してゆく。纏わりつくような望月の視線を意識しまいと目を逸らしたのだが、すぐに顎を掴まれ、戻される。
「意外と白いですよね、庵野先生。それに、綺麗な肌してる」
「う……」
 望月の人差し指が下唇を押したかと思うと、つつ、と指を真下に流しながら俺の体を真っすぐになぞってゆく。そのぞわぞわとした感覚にどうしていいかわからないまま声を詰めていると、人差し指はズボンのベルトで止まる。
「これも脱いじゃいましょうか」
「……」
 よほど拒否したかったが、ここで望月の機嫌を損ねてしまえば、行き着く先はバッドエンド。いや、だからといって、これはこれで良くない気が……。
 ぐるぐると考えている間に、望月の指が勝手にベルトを外し、チャックを下ろす。
「はい。自分で脱いでください。十秒以内にやんなきゃ止めますよ?」
「ぐ……」
 考える間もなく、ベッドのへりに足を下ろし、大人しくズボンを脱ぎ捨てる。
「あ、シャツは脱ぎ捨てなくていいです。そのままの方がそそる」
「……う」
 再び押し倒された俺は、為す統べもなく望月の口づけを受ける。
「舌、出してください。こんな子ども騙しのキスで僕が満足すると思ってるんですか?」
「……ん、ッ」
 おずおずと出した舌は、あっという間に望月の舌に取られ、熱く絡み合う。激しく掻き乱されて生じた甘い痺れが、腹の奥底から欲を引きずり出す。
「は。先生、顔真っ赤。それに、体が震えてる。そんなに良かった?」
「だ、まれ……」
「黙るのはどっちの方でしょうかね」
「っ……!」
 耳元で囁いたかと思うと、望月の唇が首筋を撫で、吸ってゆく。
「止めて欲しいですか?」
「それ、は……」
 止めて欲しいに決まってる。触れられた全てがぞわぞわとして気持ちが悪い。他人にこんなにも無防備な状態でいいようにされるなんて、恐怖でしか……。
「でも、先生だって気持ちいいんでしょ?」
「は……?」
 望月の指が俺の唇を撫で、悪戯に弄ぶ。その触り方はやはり手慣れていて、変に意識してしまう。
「先生ってさ、意外と脆いよね」
「何……?」
「絶対に他人に甘えたりしない強さを持ってるけどさ。それがいかに危ういか、わかる?」
「放せ……」
「先生は強い。でも、裏を返せば愛に飢えている。甘えたい気持ちを抑えて無理して強がってきたのかな」
「は。心理学者にでもなったつもりか?」
「ええ。だって、僕は先生の心が知りたい。ねえ、アンタが今どんな顔をしてるのか、わかってます?」
「顔……?」
「物欲しそうな顔。僕を睨みつけてるはずなのに、瞳の奥底にあるのは、紛れもない欲情だ」
「……違う」
「違わないでしょ。わかってるはずだ。本当のアンタは弱い人間だ」
「退け!」
「いいんですか? 当初の目的を忘れてません?」
「う……。でも、これはやっぱ、なんか違う――」
「今更気づいてももう遅い。逃げても無駄ですよ。僕はアンタに興味が湧いた」
「っ、放せ! このド変態!」
「は~。ほんと馬鹿ですね。可愛い子ぶることもできないなんて。でも」
「ん、おい!」
「中々見込みがありそうなんでね。上手にイけたら、桜庭先生のこと、取りあえず保留にしといてあげますよ?」
「は……?」
「と言っても、少し簡単すぎますかね。もうこんなに反応してる。キスで感じちゃったんですか?」
「は、やめ……!」
 下着越しに触られたそこは、望月が言う通り、欲を主張していた。
 これ、やばい……。望月相手に、こんな醜態さらすなんて……。普通に考えて犯罪なんじゃ……。
「ついでに、こっちも開発しときましょうかね」
「は? いッ……!」
「大丈夫。男でも、すぐに気持ち良くなりますから」
 胸の突起を摘まんだ望月の指が、さっと何かを塗りこんでゆく。
「い、いい加減に、ッ!?」
 丁寧に擦られたそこがじくりと熱くなったところで、ぐり、と親指で押し上げられ、尖ったそれを抓られる。その瞬間、得体の知れない気持ち良さが全身を駆け巡る。
「あ。今、乳首で感じましたね?」
「は、そんな、わけ……、んッ……! はぁんッ……!」
「はは。やっぱ薬使ったらチョロいや。綺麗に尖ってる」
「ん、や、薬って、なん……。あっ、シャツ越しに、撫でるの、やめ……、変、っん!」
「じゃあ、こっちもしっかり撫でてあげますからね」
「あ、待て、同時に、擦る、と……、んッ……!」
 望月の手に上も下もいいように撫で繰り回されて、意識が完全に欲に溺れてゆく。
「気持ちいいでしょ? ほら、息、荒いですよ?」
「も、ちづき……! も、出……」
 気持ちいい。これ、なんだ……? なんで、こんな……。一人でするのとは、全然違う……。あ、もう……。
「いいですよ。僕の手でイって?」
「もちづ……んっ、んむ! んんん、んッ……!!」
 快感の絶頂で望月の唇が重なり、舌が絡み合う。どこもかしこも熱くて。気持ち良くて。初めて感じた昂ぶりと押し寄せる欲の波に、愚かな俺は抗うことなんてできなかった。


 あれから数日。あの忌々しい行為のおかげか、望み通り望月の樹を口説く手は緩んだが、俺としては素直に喜べない。はっきり言って事あるごとにあの場面を思い出してしまい、無駄に睡眠時間と精神がすり減っていた。
 まあ、疲れているのは、実はそれだけが理由じゃない。
『ごめんね、杏……。こんなときに風邪引いちゃうなんて……』
「馬鹿。いいからお前はゆっくり休め。お前の仕事は俺がやっとく。気にするな」
『でも……』
「わかってるだろ? 俺は有能なんだ。樹の分ぐらいカバーできる。それに、この職場に誘ったのは俺だ。責任を持ってお前に尽くすさ」
『ありがとう、ごめんね、杏……』
 電話を切り、ため息を吐く。
 期末テスト前の修羅場。運悪くインフルエンザにかかってしまった樹の仕事を片付けにかかる。
 時刻は既に零時を回っていた。だが、ここでやめるわけにはいかない。
 塾長である親戚には止められたが、頼み込んで残業を認めてもらった。
 樹の体が弱いことはわかっていた。何かと体調を崩しやすいこの季節、俺はもっと樹のことを気に掛けてやるべきだった。でも、それができなかった。何故なら……。
「コーヒーは、やっぱり飲みたくないな……」
 眠気を覚ますべく自販機に伸ばした手を止める。苦い風味と共に如何わしい気持ちが蘇り、首を振る。ここは無難に栄養ドリンクか。
「はあ。なんていうか、俺らしくないよな……」
 栄養ドリンクを飲み干し、机に向かう。
 頭が痛い。でも、せめてこれだけは終わらせて……。
「ん?」
 襲い来る眠気と戦うべく自らの頬を叩いた瞬間、ドアが開く音がして振り向く。
「あ、ラッキー。先生まだやってたんですね?」
「は……? なんで、望月が……?」
 これは夢か? 俺は気づかない内に寝てしまったのだろうか。なんで望月がこんな時間に……?
 寝不足のせいで出来てしまった隈をなぞり、目頭を揉む。
「って、いやこれ現実だよな……?」
「はは。何寝ぼけてんですか庵野先生」
 ここ数日の睡眠不足の原因であるクソガキにブチキレてもいい場面だが、生憎そこまでの体力は残っていない。
「お前はこんな時間に何をしに来たんだ? 未成年が出歩いていい時間じゃないぞ?」
「一人暮らしだから問題ないですよ。というか、僕は何よりアンタの方が心配だ」
「は? 俺? いや、お前は一人暮らしだからこそ、親が心配するんだろうが。何かあったらどうする?」
「何かって、例えば? こんな風に襲われたり?」
「んむ?!」
 油断した。顎を掴まれたかと思うと、そのまま口づけが落とされる。
「うわ。栄養ドリンクの味がする。色気ないな~」
「っ……。お前は、本当に……。クソ……」
 これで栄養ドリンクも飲めなくなったわけだ。
「先生さ、頑張り過ぎじゃない?」
「頬を撫でるな。というか、お前は頑張らなくていいのか? 明日はテスト最終日だったはずだが?」
「僕は日頃から頑張ってるんでご心配なく」
「……」
 確かに。コイツは勉強に関しては文句の付け所がないもんな。樹目当てで塾に入ったとしか思えない。
「それに。今日だって今までずっと勉強してたんですから」
「じゃあつまりアレか? わかんないとこがあったから、俺が残ってるかと思って聞きに来た?」
「はは。違いますよ。そんなんじゃない。僕はね、頑張った自分にご褒美をあげたかっただけ」
「ご褒美……?」
「ええ。この前の先生、すごく可愛くて。もっと虐めたくなっちゃいまして」
「は……?」
 望月の嗜虐的な瞳に思考が停止する。静まり返った室内に時計の進む音だけが響く。
「……なんて思ってたけど。先生、思った以上にお疲れじゃないですか。全く。虐め甲斐がない」
「ひゃめろ……」
「はは。可愛い顔」
 むにむにと俺の頬を撫で繰り回した望月は、先ほどの表情から一転して邪気のない笑顔を見せる。
「はあ……。お前、ほんとわからん……。余計に頭痛くなる……」
「ふふ。今日はこれで許してあげますよ。お疲れの先生」
「ん……」
 腕を取られ、軽い口づけを落とされる。
「庵野先生は偉いですね。でも、一人で抱え込むのはよくないですよ」
「……仕方ないだろ、俺がやるしかないんだから」
「ねえ先生。明日の夜、僕の家に来てください。今度は僕が先生のために夕飯を作ってあげます」
「え?」
「先生へのご褒美ですよ。だから、もうひと頑張りです。先生」
 まるで愛犬を撫でるみたいに俺の頭を撫でた望月が柔らかく微笑む。
 ……マイナスイオンでも出てそうな笑顔だな。
「言われなくとも、俺は頑張るっての」
「そうこなくっちゃ。じゃ、明日、忘れないでくださいよ?」
 ひらひらと手を振り、あっという間に消えていった望月に苦笑する。
 勝手にご褒美を設定されたわけだが、それで俺が喜ぶと本気で思っているのだろうか。
 でも。
「もうひと頑張り、するか……」
 すっかりと眠気が飛んでしまった今、先ほどよりも効率が上がったことは言うまでもあるまい。
「明日のことは明日考えるかな」
 望月の行動が読めないのは今に始まったことじゃない。だからきっと、深く考えても意味などないのだろう。


 そうして、翌日。無事にテスト期間を乗り越えた俺は疲れに疲れ、デスクで突っ伏していた。が。
「さ。先生。今日はとっとと帰りますよ?」
「ぐむ……。望月、やめろ。腕、引っ張んな……」
 横からぐいぐいと強引に腕を引っ張られたため、かすれ声で抵抗する。
「あ、塾長! 今日は庵野先生、もう帰っていいですよね?」
「は?」
『おお。望月君は庵野君にも懐いたのか。そうかそうか。いや、君たちは仲が悪いって聞いて、心配してたんだが』
「いやだなあ塾長。僕は庵野先生のこと好きですよ。だから僕、疲れ切った庵野先生が心配で……」
『はは。優しい子だねえ望月君は。そうだな、庵野君。今日はもう帰んなさい。大分助かったよ、ありがとう』
 通りすがりの塾長から、あっという間に定時前退社の了承を得た望月に唖然とする。
「マジで……?」
 流石は大人からの信頼が厚い望月サン。普段から媚びを売っているだけある。
「ふふ。そうと決まれば、ほら立って?」
 暖かい視線をくれた塾長が去った後、力づくで立たされ、手をがっちりと繋がれる。
「やめろ……。わかったから。帰る準備するから、待ってろ」
「そうこなくっちゃ」
 満足そうに微笑む望月から目を逸らす。コイツの提案に抵抗したいのは山々だったが、断ってもきっと脅されるだろうから諦めた。そもそも今は眠くて頭が働かない。全てが億劫になった今、早々に思考を放棄し、俺は大人しくコイツについて行くことにしたのだった。



 夢を見た。太陽を背にした幼い樹が、一人ぼっちの俺に向かって手を差し伸べる。
 ああ。俺は救われるんだ。この手を取れば、俺はもうこの世界が怖くない。
 天使に向かって手を伸ばす。執着しすぎている。そんなことはわかっていた。だけど、俺には樹しかいないから……。
「樹……」
 愛しい天使の名前を呼ぶ。口の中で転がすだけで甘い気持ちになるその名前。だけど。どうして。
 なんで、いつもと違うんだ……?
 心の底から湧き上がってくる甘い痺れ。それが今、どうしてだか全く感じられないのだ。
「どうして……?」
 天使は未だ、手を差し伸べたままにこにこと微笑んでいる。美しい。だけど。
 手が動かない……。
 あと少しで天使の手を掴める。はずなのに、どうしてもそれ以上手を伸ばすことができなかった。まるで、呪いにでもかかっているかのように。
 どうして。どうして。助けてくれよ。樹。俺にはお前しかいない。それなのに。
『本当に?』
「え……?」
 優しい微笑みを湛えたままの樹が、真っすぐ問いかけてくる。
 どういう意味だ? 樹。俺を救ってくれたのは、お前だろう? 俺にはお前しか……。
『わかってるくせに。ね、先生?』
「っ……!」
 樹の顔がどろりと溶け、瞬時に望月の顔に変わる。その憎たらしい微笑みから目を逸らす。
 これは悪夢だ。
 そう思うのに。動かなかった手が、今度は勝手に動き出す。
『先生。僕の手を取ってください。そうすれば、貴方はきっと救われるんです』
「や、めろ……」
 心臓が早鐘を打つ。呪いだ。こんなものは、これこそが呪いだ。
『僕は先生を幸せにしてみせますよ?』
 ああ……。
 憎たらしい悪魔に向かって、手を伸ばす。
「望月……」
 コーヒーと栄養ドリンクの味が口の中でごちゃ混ぜに蘇って気持ち悪い。はずなのに。
「なんで、こんなに、甘……」
『んせ……、んの……、んせ……』



「……んせい、……庵野先生ってば!」
「っは!?」
 思いきり肩を揺さぶられて飛び起きる。
「全く。や~っと起きましたね?」
「あ、望月……」
 ぼうっとする意識を整えて、状況を把握する。
 そうだ。俺は望月の家について行って……。望月が約束通り夕飯を作ってる間に、眠くなって……。ついソファで転寝を……。
「ご飯。食べれます?」
「ん……。あ~。もうできたのか」
「まあ、これから焼くんですけどね」
 そう言って望月がテーブルのホットプレートに指を差す。
「お好み焼き……?」
「そそ。偶にはいいかなって。ホットプレート、買ったんですよ? 偉いでしょ。あ、あとこれもどうぞ」
「は? それ酒だろう……?」
「ええ。勿論僕は飲みませんよ? お疲れの先生のために買ってきたんです」
 テーブルにチューハイとビールを並べた望月は、その内の一つを開けてこちらに渡す。
「お前、未成年のくせに買ったのか?」
「ええ。私服なら意外と止められません」
「いや、普通に駄目だろ」
「はは。先生が普通を語るんですか?」
「む、俺だって一応教師で……」
「まあまあ。いいじゃないですか。さ、焼きますよ」
「……よくはないけどな」
 無理やり持たされたチューハイに口をつける。悪夢のせいで乾いた喉に潤いを与えたそれは中々に美味かった。普段は酒を控えているんだが……、確かに今日ぐらいは……。
「はい、焼けましたよっと。どんどん食べてくださいね~!」
「ん……。美味い」
 促されるままに、お好み焼きを口に含むと、途端に空腹を思い出し箸が止まらなくなる。
「はい、このチューハイも美味しいらしいですよ~」
「ん」
 ソースの濃い味を打ち消すように酒を流し込む。やっぱり美味い。疲れた体に染み渡る。
「遠慮しないでどんどん食べて、どんどん飲んでくださいね?」
「お~」
 平和だ。他愛のない話をして、お好み焼きを二人でつついて、テレビにツッコミをいれて。
 なんだか気持ちがいい。心がふわふわする。
「庵野先生ってほんと、勿体ないですよ。女子からあんなにモテてるのに。一体今まで何人の告白を断ってきたんです?」
「そんなん、お前の方が多いだろうが~。望月、カオがいいもん。性格は最悪だけどな~! あはは!」
「否定はしませんけどね。でもそれを言うなら、先生だって顔はいいけど本性は相当ですよ?」
「ふふ。お前よりはマシだっての」
「そうでしょうか。というか、いい加減しっかり甘えて貰わないと、僕も貴方に飽きてしまいますよ?」
「それは……、困る……」
 ぼんやりとする頭に、あの悪夢がよみがえる。幼い惨めな俺が呟く。一人ぼっちになるのは嫌だ……。
「でしょ? だったら、ちゃんと態度で……」
「望月……、俺に飽きないで……?」
「は……?」
 コップに添えられていた望月の手を取り、引き寄せる。
 ああ、ちゃんと掴めた。よかった……。
 そのまま望月の指に唇を寄せて目を閉じる。だって、熱いから。瞼、開けてるの億劫で……。
「先生、マジでお酒弱いんですね……。桜庭先生には聞いてたけど。チューハイ三本でこれ?」
「ん~。悪いかよ~」
 確かに酒に弱いことは認める。今も、脳みそまで火照っているのか、自分で喋ってる内容がイマイチ理解できていない。頭も体も視界も、全部がふわふわしてて、熱い。
「いえ、正直めちゃくちゃ可愛いです」
「ふふ。そうだろ~? お前、もっと俺に落ちろよ……」
「先生は僕のこと好きなんですか?」
「ん~、好き。お前、褒めてくれるし」
「……あの、ほんとに、庵野先生? 素直過ぎません?」
 困惑した望月の腕を取り、火照った頬を押し付ける。
「甘えろって言ったのはお前だろ~? なあ、これで俺のこと、少しは見てくれるか……?」
「は~。ほんと可愛いな。勘弁してよ」
 ため息を吐いた望月が、俺の頭を優しく撫でる。その感触が気持ち良くて。
「ん、もっと撫でてくれ……」
「っ……。そんな可愛い顔しないでください……。本当に落ちる……」
「はは。ざま~みろ」
「タダで落ちるかよ。アンタも道連れだっての!」
 覆い被さってきた望月の目に、全身が震える。逃げられない。一瞬だけ酔いが醒め、理性がぶわりと不安を煽る。だけど。深い口づけに溺れた後、結局俺は熱に浮かされる。これで、酒も飲むことができなくなったわけだ。


 頭が痛い。それが酒のせいなのか、昨夜の情事のせいなのかはわからない。ただ、一つだけ言えるとしたら、それは望月のせいだということだ。
「ねえ、杏。その首の跡、どうしたの……?」
「へ……?」
 頭を押さえながら机で唸っていた俺に、樹が指を差して疑問をぶつける。
 慌てて押さえた首筋は、確か昨日、望月に吸われまくっていたところで……。
 やばい。隠すの忘れてた……。というか、こういうことに不慣れ過ぎて、隠すという概念がなかった……。
「杏、もしかして恋人できた?」
「えっ?」
 これまたストレートに疑問をぶつけた樹は、顔を曇らせてこちらを見つめる。
 というか、樹もそういう知識は一応あるのか……。てっきり、穢れのない天使なのかと……。
「ねえ杏、まさかとは思うんだけどさ。望月君じゃあないよね……?」
「いや! まさか!」
 咄嗟に吐いてしまった嘘に声が裏返る。
 だって、認めたくない事実だが、樹は望月に恋心を寄せている。それを、俺が横からかっさらっていったのだと知れたら……。
「じゃあ二人は付き合ってないんだね?」
「付き合ってるわけないだろ?」
「なんだ。よかった……」
 詰めていた息を可愛らしく吐いた樹に胸が痛む。
 いやでも、これは付き合ってるから諦めろ、って言った方がよかったのだろうか……。
 いやいやでもでも、俺の好感度が下がったら元も子もないし……。あ、そうだ。
「あ~、でも、望月は他の男と付き合ってるみたいでな~」
「えっ。そんな……」
 咄嗟にでっち上げた嘘に樹が絶句する。ああ、簡単に信じてくれるのであれば、最初っからこうすればよかったのかもしれない。
「樹、忘れよう。お前には俺がいるだろ?」
 我ながら臭い台詞だな、と思ったが、告白指南サイトに書いてあった通りの言葉を樹にぶつけ、頭を撫でてやる。すると。
「杏……。ありがとう……」
 可愛らしい天使は、目に涙を溜めながら俺にお礼を述べた。これは、イケるかもしれない……!
「樹、俺はお前を絶対傷つけたりしない。なあ、俺にしといたら?」
「え……?」
 呆然とこちらを見つめる樹に照れながらも、なんとかキメ顔をキープする。落ちろ。
「樹、俺は本気だよ?」
「そんな……」
 落ちろ。卑怯でもなんでもいい。頭痛が呪いのように俺を駆り立てる。早くしないと。消えてしまう。早くしないと。飲み込まれてしまう。だから。その前に……。
「樹、俺を好きになってよ」
 記事通りの気障な台詞を吐いた瞬間、俺はてっきり達成感のようなものが得られるのだろうと期待していた。それなのに。
「杏のこと、そんな風に見たことなんてなかったけど……。確かに、杏となら私は幸せになれるのかもしれないなあ」
「樹……」
「失恋したらとっとと次の恋に行った方がいいって言うし……。杏、私たちで付き合ってみる?」
「え、いいのか……?」
 驚くほどうまく事が運んだ。こんなことならば、もっと早くに告白しておけばよかった。
 だけど。
 どうしてだか、俺の心は淀んでいた。まるで、泥の中に沈んでしまったみたいに、身動きが取れずにいた。
「杏ってば、最近ずっと望月くんと楽しそうにしてるから、不安に思ってたんだ。私だけ置いて行かれたらどうしようって」
「はは。俺が樹を置いて行くなんて、あり得ないよ」
 言ってて無性に心が痛んだ。だけど、俺はもう止まれない。後はただ、幸せに向かってひた走るだけなのだから。


「良かったですね、庵野先生」
「望月……」
 何処で噂を嗅ぎつけたのやら、望月は厭味ったらしく祝福を述べた。
 その目は酷く冷めていて、流石の俺もそれから逃れるように視線を床に落とした。
「アンタさ、僕に惚れさせておいてさあ、僕から逃げられると思ってんの?」
「そんなの、マジで惚れる方が悪いだろ……。大体、お前は元から俺の目的を知ってたじゃないか……」
 こっちとしては前々から、樹の目が覚めたら告白するつもりだったんだ。それをわかった上で望月は俺を挑発したはずだ。なのに――。
「だからって、僕が先生を逃すとは一言も言ってないよ」
「はっ。お前がどう足掻こうともう遅いんだよ。樹の気持ちも、俺の気持ちも、お前に向くことはない」
「そうですか」
 未だ冷めたその瞳に、心臓がひやりと縮む。
 大丈夫、だよな……? 俺の気持ちがコイツに向くことはあり得ないとして。樹は、正直どれだけ俺を好いてくれているのかわからないもんな……。
「お前さ、その。樹をもう一度誑かすとかそういうこと、企んでたりしないよな……?」
「誑かしてほしいんですか?」
「いや……」
 これは完全に失言だった。気持ちが焦った。もし望月に彼氏がいるっていう嘘がバレて、望月がまだ樹に好意を寄せていると樹に知られたら……。樹はきっと、再び望月に恋心を抱いてしまうのではないか。
「はは。そんな必死な顔しないでくださいよ。アンタへの嫌がらせとしてそれもアリかなって思ってたけど……。僕はもう桜庭先生には興味ありませんから」
「ほ、本当か……?」
「ええ。僕はね、好きな人しか誑かしません」
 そう耳元で囁いた望月が、俺の手を取りそのまま手の甲に口づける。それはまるで、おとぎ話の王子様がお姫様にするような、厳粛でいて慈しみに満ちた儀式で……。
「やめろ……」
 その真摯な瞳が怖かった。どうして。いつから。コイツは俺にそんな目を向けるようになった? 俺たちはただ、樹を取り合うライバルで。コイツはただ、樹に付き纏う害虫で。生徒で。一時的に恋人ごっこをしただけで……。
「……今日の晩、ウチで待ってますから。先生の好きなもの作るんで、来てください」
「でも、今日は……」
「僕は待っています。貴方のことを」
「っ……」
 するりと放された手を反対側の手で受け止め、擦る。
 行くわけがない。
 去ってゆく望月から目を逸らし、昂ぶる感情を抑えるように唇を噛みしめる。
 だって今日はこの後、樹との初デートの約束をしているのだ。どれほどこの時を待ち望んでいたことだろうか。長年頭の中で描いて来たデートプランに思いを馳せる。
 夢が叶うのだ。嬉しくない訳がない。塾が終わった後なので、居酒屋ぐらいしか行く場所がないのは不服だが、それでも最高にお洒落な場所を選んだ。ここで酒の力を借りて、もう一押しできたのなら……。
 酒……。
 アルコールの香りが舌の上で蘇った途端、首を振る。
 あの日のことはあまり覚えていない。が、自分がなにか良からぬことを言った気がしてならない。きっと、だからこそ望月も事に及んでしまったのだろう。皮肉にもそれがきっかけで樹と恋仲になれたわけだけど……。
「……酒は控えめにするかな」
 時計を見る。樹の授業が終わった時間だ。さて、良くない記憶は心の奥底にぶち込んで、さっさと仕事を片付けよう。こっからが俺の薔薇色人生ってやつなんだから。


「でね、そのとき塾長が……」
「ん~」
「杏?」
「あ、ええと。何だっけ」
 ぼんやりとグラスを見つめていた俺に、樹が大げさにため息を吐いてみせる。
「は~。杏、今日はもう帰ろう?」
「えっ? どっか具合でも悪いのか?」
「それは杏の方でしょ。心がぐちゃぐちゃしてる」
「……」
 ぐうの音も出なかった。酒を少し飲んだところでもう一押しを、と思っていたのだが、どういうわけか頭の中で望月の言葉が繰り返されて……。
「杏、本当は望月くんが好きなんでしょ」
「は??」
 樹の指摘に声が裏返る。じわりと額に汗が浮かぶ。
「杏だってわかってるはずだよ。私といてもずっと上の空だし」
「それは……」
「望月くんはさ、杏のことが好きなんでしょう? 本当は、望月くんと付き合ってるの、杏なんでしょう? どうして私を誑かすようなことをするの?」
「えっ。いや、それは違う! それは誤解! 俺は……」
 悲し気に揺れる樹の瞳に胸が痛む。樹にも、自分にも、もうこれ以上の嘘は吐けないと悟る。
「俺は、樹のことが好きだった。本当に、ずっと。出会った時からずっとだ。だけど……」
「望月くんのことが好きになった?」
「ごめん……」
 まるで聖職者のような慈しみを湛えた樹に、俺は為すすべもなく真実を話した。
 望月が樹を本気で狙っていたこと。それを阻止しようと自分の身を捧げたこと。そうするうちに、望月の愛情が俺に向けられるようになってしまったこと。そして……。
「ごめん……。裏切ってごめん、樹……。俺、本当に最低だ……」
「杏。顔を上げて。大丈夫。私はいつだって杏の味方なんだから。杏の幸せが私の幸せだよ?」
「でも……。俺は結局、助けてもらってばっかで……。せっかく、樹を幸せにしようと思ってたのに……」
「馬鹿だなあ。私だって杏にはいっぱい助けてもらったよ。失敗したときに慰めてくれるのはいつも杏だったし、杏が何かと私を支えてくれてたこと、知ってるよ? ねえ私たちはさ、友達としてやり直せないかな?」
「でも……。俺は樹が思ってるほどいい奴じゃないよ? 卑怯な真似だっていっぱいしてる」
「それは……。また今度話してよ。全部許してあげるから」
「樹は、もっと怒るべきだ……」
「確かに私は望月くんに好意を寄せてたけど、それはいつもの一時的なものに過ぎない。杏も知ってるでしょ? 私が惚れやすい性格だって。だからね、私ならすぐに次の恋を探せるから。大丈夫だから」
「樹……」
「ほら、もういいから。行っておいで? 何か気がかりなことがあるんでしょう?」
「でも……」
「しっかりしなよ杏。君はもっと自分の気持ちに正直になるべきだ。そうでしょ?」
「っ、ごめん、樹……!」
 やはり清い笑顔をくれた樹は天使だった。
 もう迷わない。
 己の愚かさを悔いながらも、前進することを決意する。例えどうなろうとも、今この想いを伝えるべきだと思ったから。だから。


 インターホンを鳴らして数秒。目の前の扉が開き、目を丸くした望月が現れる。
「え、嘘。本当に来たんですか?」
「来ちゃ悪いかよ」
 悪態を吐きつつ、己の可愛げのなさにハッとする。まあいい。可愛さなんざ俺に求められても困る。正直に伝えてなんぼだ。
「いや、だって。今日は桜庭先生とデートでしょ?」
「知ってたのかよ」
 知っててあんな約束を一方的に取り付けてきたんだから、コイツは本当に性格が悪い。
「何ですか。かっこ悪いところでも見せて、振られたんですか?」
 冗談めかした顔で挑発してくる望月に、俺は静かに肩の力を抜く。
「たしかに。かっこ悪い。恥ずかしいくらいかっこ悪いことしてる自信はある」
「え、そんなに落ち込まないでくださいよ。まさか本当に振られたんですか? しょうがないですね。僕でよければいくらでも慰めてあげますよ」
 望月は目を丸くした後、すぐにニヤニヤと笑みを浮かべる。
「その前に、一つ聞いていいか?」
「えっ」
「聞いていいか?」
 動揺する望月の手を取り、ずいと距離を詰める。
「えっと、はい。どうぞ?」
 こちらの気迫に飲まれた望月が状況も分からないままに答える。そして。
「なあ、望月。お前は俺のことがまだ好きか?」
「は……?」
 さっと唇を奪い、質問をぶつけた俺を見て、望月が惚ける。
 間抜け面め。いや、本当の間抜けは俺の方か。
「俺はさ、樹に言われてようやく気づいたんだ。俺が今、好きなのはお前なんだって」
「え? ちょっと待ってください、あの……、先生、酔ってます?」
「少し酔ってる。でも、記憶が飛ぶほどじゃない」
「ってことは、この前のは記憶が飛んでるってことですか?」
「細かいとこはな。でも、俺がその……。お前に甘えるような真似をしたことは、なんとなく……」
「覚えてるんだ……。はは、困ったな。僕、相当デレデレしてたからなあ……」
「お互い様だろ。それで。その……。お前は、こんな俺をまだ受け入れてくれるか?」
「本気ですか?」 
「ああ」
「桜庭先生のことはいいんですか?」
「ん。俺はずっと樹に依存してきた。幼い頃、両親からあまり愛を受けていなかった俺にとって、優しくしてくれた樹は、神様みたいなもんだった。だから、恩を果たすために、俺が樹を幸せにする予定だった。樹以外の人間なんて、興味がないはずだった。なのに」
 熱い視線を望月に送る。すると、意外にも望月は照れた表情をしてみせた。
「お前が俺を甘やかすから。樹よりもずっと俺に愛をくれるから。だから、俺は……」
「僕に依存しちゃった?」
「ああ。お前が言ったことは正しかったよ。俺は愛に飢えてたんだ。そんなときに、お前は俺に甘くした。だから……。責任取れとは言わないけど……」
「いいですよ。依存でも構わない。僕が貴方にたっぷりと愛情を注いでやりましょう。飢えを忘れてしまうほど、嫌と言うまで、ね」
「ん……」
 互いの愛の深さを確かめ合うように、長く甘い口づけが交わされる。心を覆っていた茨が溶けて去ってゆく。
「ああ、本当はこんなつもりじゃなかったのにな。庵野先生のことは味見したいがために吹っ掛けてただけなんですけど」
「望月。頼むから、俺に飽きないでくれ。俺を一人にしないでくれ」
「しませんよ。僕は貴方が嫌だと言っても、た~っぷり愛してやりますから」
「……っわ! えっと。その、お手柔らかに頼む」
 いつの間にかベッドに押し倒され、再び長い口づけが落とされる。甘い。甘くて脳がふやけてしまいそうだ。
 ああ。今後は、コーヒーも栄養ドリンクも酒も、素直に飲めるかもしれない。少し、いや大分甘く感じるかもしれないけれど。
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