アズアメ創作BL短編集

アズアメ

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(92)いりいの

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 生き残りの少年×ゾンビ絶対殺すマンのお兄さん。タイトル思いつきませんでした。
 ゾンビウィルスパンデミックに陥った世界で、ゾンビを倒すために二人で旅します。
 お兄さんの方は兄弟愛って感じなのでBL度は最後らへん以外割と薄め。
 矢印に全く気付かないお兄さんが好きです!

紀伊 いりこ(きい いりこ):危ない所をいのめに助けてもらった小学生。弟子入りを果たす。ネーミングは生き残り。いのめへのラブは一年の間に自然と無自覚に蓄積されてしまっていたのだ!

樟神 いのめ(くすがみ いのめ):刀でゾンビを容赦なく殺せるお兄さん。ネーミングは救いの女神。
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 それは突然起こった。あっという間に街はウイルスに蝕まれ。気付いたら、辺りはゾンビだらけになっていた。
「そんな……」
 母親だったモノが、ガチガチと歯を噛み合わせて威嚇する。
 父親だったモノが、僕に向かって手を伸ばす。
 命からがら逃げだして、家に辿り着いたと安心した矢先にこれだ。
 勿論僕は、二人の間を掻い潜って自室へと逃げ込んだ。今更アレが人間に戻るとは思えない。
 でも。ドアが破られるのも時間の問題かもしれない。
 窓の外を見る。嫌でも目に映るのは、この家に向かって押し寄せるゾンビの大群。
 二人が“仲間”を呼んだのだろうか。そう思うと泣きそうになった。
 もう一度外に目を向けると、醜い姿と成り果てた人間たちが必死に壁に張り付いていた。よじ登ろうとしているのだろう。
 そのおぞましさに身の毛がよだつ。恐怖で口が震えて、歯が勝手にガチガチと音を出す。
 それが、外で心待ちにしているゾンビの歯の音と重なって、まるで共鳴してるみたいで……。
 ああ、僕も仲間になるのだろうか。
 窓に張り付いたゾンビと目が合う。
「あ……」
 もうダメだ。
 自分を抱きしめ、目を閉じる。だって、小学生の僕には、もうどうしようもないのだから。

 パリン!
 窓が割れて、ゾンビが僕の体にのしかかる。が。
「破ッ!」
「え?」
『ギィイイイイイイイ』
 ゾンビから漏れ出す悲鳴のような声に、閉じていた目を再び開く。
 なだれ込んできたゾンビは、僕の横で動かなくなっていた。その体には刀が突き立てられていて……。
「大丈夫か?」
「ヒッ」
 ゾンビから刀を引き抜き、こちらに問いかけた青年が手を伸ばす。学生服に深く被った学生帽。その腰に差された日本刀は目つきの悪い彼によく似合っていた。
 このお兄さんがどうしてこんな格好をしてゾンビを斬りつけているのかはわからない。だけど……。
「安心しろ。俺はゾンビじゃない」
「本当?」
「ああ」
 差し出されたその手を取る。不思議と、彼ならば信じてもいいと思った。
「よし、いい子だ。いいか? そのまま俺の後ろについてろよ?」
「えっ……?」
 ドッ。ガチガチガチガチガチガチガチ。
 青年が僕を背中に隠した瞬間、両親だったそれの手によりドアが破られる。
「チッ、お前は目ぇ瞑ってな!」
 ザッ。
 彼が目にも止まらぬ速さで刀を振るうと、迫りくるゾンビ手がすぱりと切れた。
 そのまま、切っては捨てを繰り返した末、辺りはしんと静まり返る。
「すごい……」
「目を瞑っとけって言ったのに」
 ザッ。
 空で払われた刀は青年の手により、ハートの模様が描かれた鞘に納まる。
「ハート型? 随分可愛いね」
「ハートじゃない。これは猪目だ。猪の形で、伝統的な……」
 青年のうんちくに耳を傾けようとしたけれど、やっぱり限界だった。
「お父さん、お母さん……」
 零れ落ちてしまった言葉と感情が、止めどなく僕を苛む。
「……諦めろ」
「う、ううう……」
 わかってる。もう両親が蘇ることはないのだと。だけど……。
「ここにいるのは危険だ。坊主、俺と一緒に来い。な?」
「……やだ」
 覗き込んできた青年から、ぷいと目を逸らして頬を膨らませる。
「む。俺だってお前みたいなお荷物、本当はゴメンだ。だが、折角助かったんだ。命無駄にすんな、わかるだろ?」
「わからない! 僕もお父さんとお母さんとここで……」
「チッ。お前、生き残ってることがどんなにすごいことかわかってねえな。まぁいい、好きにしな。他人の生死は決めらんねえ」
 もっと引き留められると思っていたのに。説得することを早々に放棄した青年は僕を置き去りにして歩き出す。
「……うう」
 なんだよ。僕はどうすればいいんだよ。このままここに居ても仕方がないことぐらい、僕だって……。
「ったく、泣くなよ」
「っわ」
 戻って来た青年が、俯く僕に学生帽を被せる。
「生きたいんだったら俺と来るんだ」
「……」
 差し伸べられた手は傷だらけだった。きっとこの人と共に行動するにも覚悟が必要なのだろう。でも。
 僕はその手を取らなければいけないと思った。
「よし、良い子だ」
 その温かい手に触れると、青年はにかっと笑った。
「俺は、樟神 いのめ」
「えと。僕は、紀伊 いりこ」
「いりこ、今日からお前は俺の弟子だ」
 こうして僕は、ゾンビに支配されてしまったこの世界を変えるための一歩を踏み出した。きっとそれが僕の役目なのだと信じて。



「いりこ! そっち行ったぞ!」
 隙を突いて逃げ出したゾンビが少年目掛けて突進する。が。
「了解!」
『ぎいいあああああああああ!』
 軽快な返事の後、少年が手にした剣が唸り、ゾンビを見事にぶった切る。
「よし。ここらの化け物はそろそろ片付いたな」
「うん!」
 笑顔で剣を振るい付着した血を飛ばしたいりこには、もうあの時のような怯えの類はない。人間の子どもがここまで戦闘に適応してしまっていいのだろうか。
「我が弟子ながら流石だな、いりこ」
「えっへん!」
 紀伊 いりこを拾ってから早一年。彼は目を見張るほどの成長を遂げた。
 この国は未だ化け物たちに占領されたままだが、俺たちの手により着実に化け物たちの数は減っている。
「でもさ、やっぱりにーちゃんには敵わないよ。にーちゃんってば今日で五十は片付けたでしょ?」
「お前だって結構な数相手にしただろ? 疲れてないか?」
「大丈夫だよ。僕だって、早くにーちゃんみたいに立派になりたいんだもん。これくらいじゃ足んないよ」
「それは嬉しいが、あんま張り切り過ぎるな。お前が怪我するとこなんか、俺は見たくないからな?」
 いりこに譲った帽子に手を置き、その頭をぽんぽん撫でる。
 今までたくさんの死を目の当たりにした。
 俺なりに人間の作法にのっとって、死を悼み、悲しんできたつもりだった。
 でも。いりこが死んでしまったら。その時、俺は何を思うのだろうか、と。最近はそればかり考えてしまうのだ。
 長くを共にし過ぎた。たった一年。されど一年。孤独だった俺にとっては余りにも長すぎた。湧いてしまった情は今更簡単には捨てられない。
 自分でも愚かなことをしたものだと後悔した。だが、彼を見た途端、何故だかつい守ってやりたくなったのだ。
 すぐに手放すべきだったのに。
 懐かれて、いつの間にか彼の羨望の眼差しが心地よくこそばゆくなって。だから、彼が死んでしまった時、私はきっと……。
「大丈夫。僕は絶対死なないよ」
「えっ?」
 声に出ていただろうか、と思わず唇に指を当てる。が、どうやらそうではないらしい。
「にーちゃん、僕は怪我だってしないよ。死なないよ。にーちゃんが助けてくれた命だもん。大事にするに決まってる。だから、そんなに悲しい顔しないで?」
 いりこに握られた手が温かかった。まさか自分がこんなにも人間らしい感情を抱く日がくるとは思いもしなかった。
 守りたい。この優しい少年を。いつしか自分の子どものように、本当の弟のように可愛く思うようになってしまったからには……。
「ああ。こんな戦い、とっとと終わらせてやる。だから、あと少し辛抱してくれ、いりこ」
 いりこの頰についた悪しき化け物の血を拭い、微笑み返す。彼の無邪気さを穢すそれはこの俺が全て潰してやる。
「へへ。化け物みーんな片付いたら、二人で一緒に暮らそうね! にーちゃん!」
「……ああ」
 彼の願いは叶わないだろう。だけど俺に後悔はない。
 所詮俺の脳みそは、そういう風に造られているのだろう。なんて。



『いのめ。お前は最高傑作だ。私の愛すべき優秀な作品だ。ああ、これで人間は何があろうとも救われる……!』
 生みの親である樟神博士は、俺を見て涙を流した。それを見た俺は、人間とはなんて身勝手な生き物だろうかと思った。
 俺は、人類を救済するためだけに造られたキメラだった。
 元々、猪として生まれたはずの俺は、混ぜに混ぜられ人間の皮を被されて、人間の為の道具となっていた。
 研究所の至る所に、失敗作の残骸が散らばっていた。仲間だったそれらのほとんどは、動かなくなってしまった。過度な実験に耐えられなくなったそれらは、ごみのように捨てられた。
 何が救いだ。
 俺を誉めそやす博士に反吐が出た。だが、拘束され、薬づけにされたままでは、逆らうことなどできなかった。
 いつか壊してやる。下らないこの研究所も。人間の勝手な理想も。
 そう思いながら、俺は眠った。
 そして、ある日。
『いのめ! お前の出番が来た! 来てしまったのだ!』
 叩き起こされた時にはもう、研究所の人間はほぼほぼゾンビと化していた。
 死に物狂いで俺を叩き起こした博士も、既に感染しているようだった。
 ああ、だったら。
『ああ、いのめ……。それが正しい。流石私の最高傑作だ。人類を、頼んだぞ、いのめ……』
 憎らしかった生みの親は、刀をひと振りしただけで死に絶えた。
 何が正しいものか。たくさんの生物を犠牲にしておいて。この忌々しい体のどこが最高傑作だというのか。



「そう、思っていたんだがな……」
 眠るいりこを抱えながら、人間の生き残りが集うシェルターに入り込む。
『おお、君たちはもしや!』『ゾンビを倒して回っているという伝説の……!』
「すまないが、この子を預かってはくれないか?」
 俺を英雄扱いしてくる人間たちには反吐が出たが、顔に出ないようにしつつ、人間にいりこを押し付ける。
『ええと。それはいいですけど、あなたはどこへ?』
「危険地区へ行く。そこを叩かない限り平和は訪れないだろう?」
『なんと!』『あなた一人で向かうつもりなの?!』
「この子はまだ幼い。巻き込むわけにはいかないだろう? それに、俺の心配ならば無用だ。なんせ俺は、人間ではないのだからな」
『ッ……!』
 牙を出して笑ってやると、案の定人間たちは怯えて後ずさる。
「安心しろよ。俺は人間を守るために造られてんだ。全うしてやるよ」
『そういえば、世界的な学者の樟神博士が人間を守るためにキメラを造ったって……』『まさか、彼が……?』
「そういうことだ。ただ、その子は人間だから、大事にしてやってくれ」
 じゃあな、いりこ。
 睡眠薬でぐっすりと眠るいりこに心の中で別れを告げて、人間たちに背を向ける。
 結局のところ、造られた意味には逆らえなかったな。けど。だったら。
「全力でやってやろうじゃないか」


 つい一年前までは人で賑わっていたオフィス街も、今やゾンビの巣窟となり果てて、至る所が朽ち果てていた。
 大丈夫。ここさえ押さえれば、人間たちもぐっと動きやすくなるはずだ。
 刀を持つ手に力が入る。
 俺は血に塗れる生き方しかできない。平和が訪れた世界には相応しくない。俺は戦うために造られた兵器なのだから。
 でも、いりこは違う。彼はれっきとした人間で、平和になった世界で穢れを忘れ、生きる権利がある。
 あの約束は果たせないけれど。彼の未来を切り開くことならばこの俺にもできる。
「いりこを守れるのならば、この呪われた使命も決して悪いものではないな!」
 化け物を次から次へと力任せに斬りつける。
 とっくに噛まれてしまった腕や足は大量の血を流し、中々言うことをきいてくれない。
 それでも、俺は前進することを止めない。全てはいりこの未来のために。
「これで、最後ッ……!」
 ドッ。
 ゾンビから緑色の液体が噴き出し、俺の頬を汚してゆく。
「ああ。終わった……」
 化け物の死骸の山が動かないことを確認してから、仰向けに倒れ込む。
 終わった。終わったのだ、俺の役目は。
 ごほごほと咳をすれば口の中に血の味が広がる。
 大丈夫。全滅とまではいかなくとも、結構な数を殺してきた。後は、人間たちが上手くやってくれるはずだ。抗生物質なり新しい兵器なり準備しているはずだろう。
 だから、もう……。
「にーちゃん!」
「は、いりこ、何で、お前がここに……」
 閉じかけた瞳をこじ開けて見ると、目の前にいりこがいた。
 幻覚だろうか。そう思い手を伸ばすと、いりこの手が俺の手を掴み、包み込む。
 温かい。ということは、これ、本物の……? だけど、それにしては、雰囲気が……。
「にーちゃんこそ、何でここにいるのかな。僕、言ったよね。一緒に暮らそうねって」
「う……。悪いけど、それは無理だ。いりこ、お前と俺とじゃ違うんだよ」
「違わないよ。いや、確かに違うかも。だけど、僕はそういうことを言ってるんじゃない。ねえ、にーちゃん。どうして僕を置いて行くの?」
「それは……」
 頭が痛い。体が痛い。心が痛い。だけど、最後の力を振り絞り、思いきり笑ってみせる。
「もう遅いんだよ、いりこ。見てわかるだろ? 俺ももうすぐコイツらの仲間入りだ」
「にーちゃん……」
 牙が伸び、目はぎらりと光を増し、髪が逆立ち、人ならぬ狂気を帯びた俺がいりこの瞳の中で不気味に笑う。
 駄目だ。造られた体とはいえ、化け物の血が入ってしまえば人間と同じだな。
「逃げろ、いりこ……。もう、理性が持たない……。逃げ……」
「うう……」
 手が勝手に動き、いりこの首を締め上げる。そして、その無防備な肩に口を寄せ、噛みつこうと口を開け……。
「っぐ?!」
「は~。勝手にくたばってちゃザマぁないんだけど? にーちゃん」
 俺の腹を思い切り蹴り飛ばしたいりこが詰まらなさそうにため息を吐く。
「え?」
「にーちゃんさぁ、まだ気づかないの? ほんと馬鹿だよねぇ」
「ぐぁ……」
 形勢逆転。今度はいりこの手が俺の首をぎりぎりと絞めつける。その力は恐ろしく強く、理性を失いかけた俺でさえ敵わなくて……。
 あれ、これ、本当に人間が出せる力、なのか……?
「あっは。ようやく気づいた? ねえ、気づいたんでしょ?」
「ごほ……。そ、んな、はず……」
 首から手を離し、嬉しそうに顔を近づけてきたいりこから目を逸らす。ひとつ思い当たるとすればその力は……。
「そうなんだよ! 僕は、アンタとお揃いなんだよ! 樟神博士に造られた! アンタの弟。正真正銘の化け物さ!」
「いり、こ……?」
「と言ってもさあ、僕は失敗作だったわけで! 無残に捨てられたんだよ! あのクソ博士にさあ! だけど、僕は逃げ出したんだ! 処分されるその前に! 暴れて暴れて、人間たちを苦しめるウイルスをまき散らしてやったわけ!」
「失敗作……? ウイルスをまき散らした……? まさか、だって、お前には両親が……」
「あっは。最高。やっぱり引っかかるよね。そりゃあ。でも、残念。あれはただの他人。んで、演技だって気づかれないよう僕自身に「人間である」暗示を念入りにかけて、力も封印してたんだよね~。とっても人間らしかったでしょう? にーちゃんに近づくためにはあれくらいやんなきゃと思ってさ」
「俺に、近づくため……?」
 いりこが人間じゃないなんて。いりこがこの悪夢の元凶だったなんて。信じられるわけがない。だけど、この力は間違いなく俺と同等、もしくはその上を行くもので……。
「そ。樟神博士の最高傑作であるにーちゃんと失敗作である僕。どっちが強いか、地獄にいるあのクソ博士と人間たちに、分からせてやるんだよ!」
「が、あッ……」
 いりこの刀によって肩が壁に縫い付けられる。吹き出した血には既に緑が混じっていて、痛みよりも焦燥感が強く体を支配する。
「失敗作のが強かったなんて最高のジョークじゃない? だからさ、人間たちの目の前で人間たちのヒーローであるにーちゃんを僕の手でぶち殺してやる算段だったのに。一年間仲良くしてきた人間の男の子に裏切られて殺される絶望を味わってもらうつもりだったのに。なのにさ! 勝手に先走って一人で死んじゃうなんて。そんなつまらない死に方、許せるわけないだろう? 僕はず~っとその瞬間を待ち望んできたんだからさあ。せめて僕にトドメを刺させてよ」
「う……、いりこ……、すまない……、でも……」
「黙れ! 別に僕はアンタに謝って欲しいなんて言ってない! 僕はアンタをこの手で殺したいんだよ! 博士を殺したアンタを、博士の愛情全部掻っ攫ったアンタを、殺してやる……!」
 なるほど。いりこは樟神博士から愛されたかったわけか。俺なんかが親面したって無駄なわけだ。
「……おい。何で抵抗しない?」
 静かに目を閉じる俺に向かって、いりこが疑問を投げかける。その手に握られたもうひと振りの刀で突き刺せば全ては終わるというのに。
「お前こそ、さっさと殺したらどうだ?」
 そう促した途端、いりこの眉間に皺が寄る。
「何で抵抗しないのかって聞いてるんだ。アンタは人間を救うんじゃないのか? 僕がこの後腹いせに人間たちを殺して回ることぐらい予想出来てるんだろう?」
「俺だって完璧じゃないさ。そういう風に造られてはいるが、逆らえない訳じゃない。こうなってしまった以上、人間などもうどうでもいい」
「無責任な! それでも樟神博士の最高傑作か?」
「さあね。まあ、お前よりは博士に信頼されていたがね」
「くそ! 馬鹿にしやがって! 殺してやる!」
 怒り狂ったいりこが、俺に向かって刀を振りかざす。でも。
「は、何だよ。何でだよ。なんで……」
「殺せないのか?」
「黙れ!」
「はは。とんだ失敗作だな。お互いに」
 緑に汚れた血を吐きながら、いりこの苦しむ顔を見る。
 彼は確かに俺を、そして人間を憎んでいた。だけど、彼はまるきり失敗作ではないのだろう。だって、彼の脅し文句は恐らく嘘だ。彼にはもう人間を殺せない。この一年で彼は人間として生きてきた。人間として俺や生き残りの人間たちと接してきた。例え芝居であったとしても、彼の心に何らかの影響は与えたはずだ。その証拠に、彼の瞳にはもう復讐の炎が灯ってはいなかった。
「クソが。所詮は僕もアンタと一緒ってことかよ」
 項垂れたいりこの頭に手を伸ばしかけ、そのままどうすることもできずに引っ込める。
 俺がいりこを慰めたって、きっと彼は嬉しくないだろう。ならば。
「人間たちはもう放っておいても大丈夫だろう。直に解決策を見出すはずだ。この世界は、もう少しすれば平和になる」
「最悪だ」
「そう嫌な顔をするな、いりこ。お前はまだやり直すことができるはずだろ? 俺を殺し、人間として英雄になるんだ」
「猿芝居を続けろと?」
 精一杯できる提案をしてやると、案の定いりこは目を丸くして苦い顔をする。
「それがお前の幸せだ」
「馬鹿な。じゃあアンタはどうなる」
「分かるだろう? 俺は駄目だ。まあ、本望と言えばそうなんだろうさ。だからもう、これでいい」
「……馬鹿じゃねーの?」
「なんとでも」
 いりこの顔を目に焼き付けてから、そっと閉じる。限界だった。地面に広がる緑の血は俺が正常でないことを嫌でも訴えてくる。
 ああ、寒い。寒くて仕方がない。
「頼む、いりこ。俺の願いを、聞いてくれ。俺は、お前にトドメを刺してほしいんだ」
「できない……」
「はは。意気地なしめ。お前が言ったくせに。でも、それでいい。お前は、優しい方がいいさ……」
 刺さったままだった刀を肩から抜き、己の心臓にその切っ先を宛がう。
「いのめ!」
「ふ。いりこ、お前は上手くやるんだぞ?」
 最後の力を振り絞り、己の心臓を突くために刀を握りしめ――。
「させない」
「え?」
 からん。
 静かに呟いたいりこの手により、あっけなく刀が弾き飛ばされる。
「どうして……」
 もう駄目だ。力を使い果たし、ついに指一本動かせなくなってしまった俺には、ゾンビになり果てる自分を止めることすら敵わない。
 殺してくれた方が、嬉しかったのにな……。
 己の皮膚がぼこぼこと異質なものに変わってゆく。
 ああ、いりこ。どうか、お前だけでも早く逃げて……。
「……?」
 薄れゆく意識の中で、いりこの吐息を近くに感じる。そして。
 あ、れ……?
 唇に柔らかいものが当たり、口内で何かが蠢く。
 キス、されてる、のか……?
 突拍子もないその行為に困惑しつつ、その執拗さに上手く息が出来なくて……。
「ん、んっ……、んぅ……! っは……!」
「は。やっと飲んでくれた」
「な、に……?」
 ぼうっとする頭で問いかけてから、ふと顔に手を当てる。
「あ、え……? 俺は、ゾンビになったはずじゃ……」
 慌てて体のあちこちを確かめるが、どこも元の人間の肌に戻っていた。いや、それどころか、いりこにつけられた肩の傷も、ゾンビにやられた手足も、日々刀を抜くせいで傷ついてしまった手の腹さえもが真っ新綺麗になっていた。
「僕、こう見えて医療用として造られたんだよね。だから、人の害になるウイルスも簡単に作れちゃうんだ。そして……」
「その逆も然り、か」
「そういうこと。サービスで傷も塞いじゃった訳だけどさ」
「俺を助けて良かったのか?」
「……降参だよ。僕はアンタの言う通り、失敗作だったわけさ」
 苦笑いしながらため息を吐くいりこは、もうすっかり自分を偽ることを止めていた。
「だが、その技術を人間に提供すれば、お前は人間たちの救世主になれる」
「嫌だよ、そんなの。そんなことしたら目立って仕方がない。それに、平和になった後で人間から何をされるか。アンタだってゾンビが全滅すれば、きっと人間に恐れられ、殺される。人間は自分たちの都合で生きているからな。簡単に手のひらを返すだろうよ」
「そうだな。だからこそ、俺はあの場で朽ちることが最善だったのだが……」
「ねえ、いのめ。人間たちはほっといてもきっともうすぐで薬を完成させてこの騒動を収束させる。だから、僕たちはさ、一足早いけど一緒に暮らしてもいいんじゃない?」
「は?」
「約束、忘れた?」
「覚えてはいるが……。お前はそれでいいのか?」
「復讐は飽きちゃったよ。人間はしぶといし、おにーちゃんはいい人だし。もう過去に囚われるのはやめた。まあ勿論、おにーちゃん次第ではあるけど……。ねえ、いのめ。僕と一緒に暮らしてくれる?」
 差し出された手のひらを見つめ、考える。あの時――いりこと最初に出会った時、別に俺は人間を助ける気なんてさらさらなかった。だが、いりこのことは助けなければいけない気がした。どうして自分がそうしたのかずっと疑問に思っていたけど、恐らく本能で感じ取っていたのだろう。いりこは謂わば俺の弟だ。仲間を助けたいと思う心ぐらい改造されても持ち合わせているわけで。
「そんな生き方も楽しいのかもしれないな」
 いりこの頭を優しく撫でる。ずっと孤独を感じていたけれど、兄弟がいればこの薄汚れた世界でも生きていける気がして胸の奥が温かくなる。
「……いのめはさあ、随分とお気楽な脳みそしてるんだね」
「えっ。反抗期か?」
 いりこの髪の柔らかさを堪能していた手を取られ、不満そうな瞳で見つめられる。馴れ馴れしすぎたのだろうか。いや、でも兄弟として一緒に暮らすのであればこれくらいのスキンシップは許されてもいいはずだ。
「は~。僕が美しい兄弟愛を育もうと思っているとでも?」
「え、駄目なのか……?」
 いりこの意外な一言に浮かれた気持ちが急激に下がっていく。そうだよな……。いりこは俺のことを恨んでたし……。俺のことをいい人だと言ってくれはしたが、兄として慕うつもりはないということか……。
「ちょっと、そんなしょげ返らないでよ。そうじゃなくて、僕が言いたいのは……いや、やっぱ今はいいやそれで」
「いいのか? 別に、無理しなくていいんだぞ……?」
「いいよ。おにーちゃんの弟として暮らしてあげる。でも、覚悟してよ。じっくりと、時間を掛けてわからせてあげるから、ね?」
 含みのある表情を浮かべたいりこが俺の手をゆっくりと撫でる。変な触り方だ。やっぱり寂しいのだろうか。それとも何か不安なことがあるのだろうか。
「俺ができることならば力になるからな。遠慮はするなよ、いりこ」
「はは。煽られちゃったよ。困ったな」
「別に、嫌味で言ったわけじゃない」
「ふふ。真面目だなあ。わかってるって。でも大丈夫。遠慮するつもりは全くないからさ」
 そう言ったいりこが前触れもなく抱きついてくる。
「なんだ、甘えたいのか?」
「まあね」
 いりこの言ってることの真意はいまいち、というか全然わからないが、多分嫌われてはいないだろう。だったらいい。
 たった一人生き残った弟を、抱きしめ返して頭を撫でる。
 使命は大方果たしたんだから、ここからは人間らしい生き方をしてもいいだろう。家族というものにずっと憧れていたんだ。今度こそ、いりことは良い関係を築きたいものだ。
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