哲学的ゾンビ

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哲学的ゾンビ

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「俺ってさ、世界一性格がいいと思うんだ」

 ​古びた紙とインクの香りが満ちる文芸部室。昼休みの気怠い静寂を破ると、向かいの席で哲学書か何か、とにかく難解そうな分厚い本に落ちていた雫の視線が、ゆっくりとこちらに持ち上げられた。栞を挟むことなく本を閉じるその仕草に、彼女の意識が俺へと向けられたことを物語っていた。

​「……今、なんて言ったの?」
「だから、俺の性格が良すぎるって話だ」

 ​そう繰り返すと、雫は心底不思議そうな顔で小首を傾げた。

「急にどうしたの、湊。ついに最後の頭のネジが飛んでっちゃった?」

 やれやれ、とでも言いたげな声音。そこに含まれた呆れと侮蔑の色は意図的に無視して、俺はわざとらしく咳払いをしてみせる。

「いやいや、これは至って真面目な話だ。ちょっと冷静に考えてもみてくれよ。俺って、まあ、クラスじゃ浮いてるっていうか、いわゆる『ぼっち』の部類に入るだろ?」
「うん。別にそこ、今さら言い淀むところじゃないと思うけど」
「うるさいな……。それで、だ。俺はそんな状況下にありながらも、こうして毎日、律儀に学校に通ってる。教室では極力息を殺し、誰かに悪態をつくわけでもなく、人に迷惑をかけないよう細心の注意を払って日々を過ごしてるわけだ。これってよくよく考えてみれば、俺は誰よりも人に気を遣いながら生きているってことにならないか? この謙虚さと忍耐強さ、そして他者への深すぎる配慮の精神。総合的に判断して、俺は『世界で一番性格がいい』と、そう結論付けられてしかるべきだと思うんだが……どうだ?合ってるよな?」

 ​我ながら完璧な論理だ。俺は得意げに胸を張り、目の前の聡明な友人の賛同を待つ。彼女は大きく数回まばたきをした後、深々と、それはもう地球の核まで届きそうなほど、深々とため息をついた。  

 ​「はぁ……ついにここまでこじらせちゃったか。自己肯定感が地の底まで落ちた結果、独善的で気持ち悪い自己愛に目覚めちゃったんだね。あーあ、可哀想に。なんだか見てられないよ」
「こじらせてない!これは客観的な事実に基づく冷静な自己分析だ!」
「どの口が言うのかな。その分析、主観と願望しか入ってないよ」

 雫はテーブルに肘をつき、白く細い指を組む。そして、少しつり上がった黒く鋭い瞳で、真っ直ぐに俺を見た。そのあまりにも真剣な眼差しは、俺の胸の内にある浅はかな自尊心までも見透かすようで、思わずたじろいでしまう。

「いい? 湊。湊のそれは『性格がいい』んじゃなくて、ただその方が『体裁がいい』ってだけ。波風を立てるのが怖いから、誰かに否定されて傷つくのが嫌だから、他人との関わりを極力避けて、空気でいることを選んでる。でもそれって結局、人のためなんかじゃなくて、自分にとって一番『都合がいい』ように、一番『楽』なように生きてるだけじゃないの?」
「うぐっ、そ、それは詭弁だ!俺は別に楽をしたいわけじゃ……」

 ​かろうじて絞り出した反論は、情けないほど説得力に欠けていた。我ながら苦しい言い訳だと言葉に詰まる。その一瞬のためらいを、彼女は決して見逃さなかった。

「じゃあ聞くけど、湊はクラスメイトの名前、全員フルネームで言える? 彼らが何に悩んでて、何に喜んでいるか、想像したことはある?」
「なっ……!」
「ないでしょ、知るわけないよね。人に迷惑をかけない、なんて言うと聞こえはいいけど、それって裏を返せば、人に全く興味がないってことでもあるんだよ。むしろ、コミュニケーションを取ろうとしないなんて、無意識に周りの人間に気を遣わせてるだけじゃない? 『あの人、どう接したらいいんだろう』って具合にさ。注目されないようにって言ってるけど、結局は自己中心的に行動してるだけ。それって本当に『誰よりも気遣ってる』って、胸を張って言えることなのかな」

 ​正論という名の、一方的な暴力だった。俺が必死に築き上げてきた矮小なプライドが、いとも簡単に、木っ端微塵に崩れ落ちていく。

 ​彼女の言葉はいつもこう。的確で、一切の容赦がなくて、そして、悔しいほどにどこまでも正しいのだ。

「それにね、本当に性格のいい人って、自分の性格の良さなんていちいち意識しないと思うよ。それをわざわざ口に出して『俺って性格いいよな』なんて自己分析してる時点で、もう答えは出てるんじゃないかな」
「おい、もうやめてくれ。俺のライフはとっくにゼロだ……」

 ​俺は机に突っ伏した。完膚なきまでに論破され、もう何も言い返せなかった。目の前が真っ暗だ。

「……ごめん、ちょっと言い過ぎた?」

 頭上から降ってきた声は、先程までの冷たさは消え、少しだけ温度を取り戻していた。棘が抜けた、バツの悪そうな響き。俺は顔を上げずに、唸るようにして答える。

「いや、お前の言う通りだ。俺は愚かで惨めで、世界一性格が悪い。他人の心も理解できない、ただ思考するだけの肉塊さ」
「えっと、そこまでは言ってないんだけど……」

 呆れたような、困ったような声。俺がゆっくりと顔を上げると、雫が少し眉を下げてこちらを見ていた。その表情は捨てられた子犬を見るような、そんな憐憫に満ちていた。

​「……じゃあ、ひとつ聞きたいんだけど」

 ここで引き下がるのは、あまりに情けない。俺は椅子を引き、もう一度彼女と真っ直ぐ向き合った。

「性格がいいって、一体なんなんだ。嫉妬とか、劣等感とか、承認欲求とか。そういう人間なら誰しもが持ってる醜い感情には全部蓋をして、完璧な聖人であるかのように振る舞うことが、性格がいいってことなのか? そんなの、ただ感情を殺しただけの偽善者、心無いロボットと同じじゃないか」

 それは、純粋な疑問だった。感情のない善意に、価値はあるのか。果たして、そんな生き方は人間らしいと呼べるのか。人間性の放棄に他ならないのではないか、と。

「うーん……」

 ​雫は顎に指をあて、少し考える素振りを見せる。

「それもある意味では、いい性格と言えるんじゃないかな。だって、他人からはその人の内面なんて、言動からでしか判断できないでしょ?その人の本心がどうかなんて他人には知りようがないし、それがどんなにドス黒くても、表に出なければそれは意味を成さない。だから、たとえ取り繕った性格であっても、そこから生まれた言動が誰かを救ったり、場を和ませたりするなら、それは『良い』と評価されるべきなんじゃないかな」

 淀みなく紡がれる言葉に、俺はただ聞き入っていた。こいつは本当に頭がいい。俺の中にある漠然とした感情や疑問を、いつも的確に、そして美しく言語化してくれる。

「なるほどな。結果が良ければ動機は問わない、か」
「まあ、功利主義的な考え方だよね。でも、私が思う『性格のいい人』は、ちょっと違うかな」
「え、どう違うんだよ」

 ​興味を惹かれて、思わず身を乗り出す。

「そうだな……やっぱり、裏表がなくて、純粋な思いやりがある人、かな。私はね」
​「裏表のない、思いやり?」
「そう。打算とか見返りとか、そういうのを一切考えないで、本当に純粋な気持ちで人のことを思いやれる心。それこそ、本物の『性格が良さ』ってことなんじゃないかな」

 ​純粋な気持ち。その言葉が、俺にはやけに眩しく、そして、途方もなく現実離れして聞こえた。

「俺はそういう、過度なお人好しはあんまり好きじゃないな。いるだろ?求めてもいないのに善意を押し付けてくるような、自己満足に他人を付き合わせているだけのやつ。あれは正直キツい」
「ふふっ、相変わらずひねくれてるね。湊は」

 ​雫は楽しそうに、小さく笑った。ひねくれてるとバカにされたのに、なぜだか嫌な気はしない。

「でも、湊の言うこともわかる。だから、私が思うような理想の人間になるには、その分、他者の性格や感情にものすごく敏感でないといけない。お節介で厚かましいと思われてしまったら、せっかくの善意も、かえって『性格の悪い人』って捉えられてしまうからね」
「難しいな。気遣いができるってのは、結局、相手の物差しで測られるもんだろ」
「そう。だから、時にはあえて気を遣わないこと。つまり、周りの空気に合わせて少し意地の悪いふりをしたり、逆に流されず、自身の倫理観を貫いたり。こういう、強かさとしなやかさが必要なんだと思う。本当に性格がいい人っていうのは、ただ優しいだけじゃなくて、底抜けにクレバーで繊細な人なんだよ、きっと」
「クレバー、ねぇ……」

 ​そんな人間が、いるのだろうか。

 打算なく人を思いやり、相手の心を的確に読み取り、時には自分を偽ってまで相手を気遣う。そんな、天使みたいな完璧な人間が。

 ​……いや、いるな。
 ごく身近に。今、まさに、俺の目の前に。

​「それって、雫のことかもな」

 ​思わず、口から言葉がこぼれていた。
 ​
「はあっ!? な、なに急に……っ!バカなこと言わないでよ!」 

 ​雫が素っ頓狂な声を上げる。その白い頬が、みるみるうちに真っ赤に染まっていくのが見えた。いつも冷静沈着なこいつが、こんなに取り乱すなんて珍しい。

​「いや、だってそうだろ。お前、口は悪いけど根はすげえいい奴じゃん。こうやって、ぼっちな俺の昼飯に毎度付き合ってくれてるしさ。俺にだけズバズバと物言ってくるのも、俺が気を遣わなくていいように、わざと昔からの距離感で合わせてくれてるんだろ?」

 ​そうだ。普段の雫はもっと物静かで、言葉遣いも丁寧だ。少なくとも、俺に向けるような口の悪さは微塵も見せない。

 だけど、俺と二人きりになると、この遠慮のないサバサバとした口調に戻る。それはきっと、俺がその方が気楽だと分かっていて、わざとそうしてくれているに違いない。

 頭が良くて繊細な彼女なりの、不器用な優しさなのだと、今、確信した。

 そう思っていると、雫は真っ赤な顔のまま、耐えきれないというように俯いてしまった。さらり、と長い黒髪が揺れて、その表情を隠してしまう。どうやら、よほど図星だったらしい。

「キミって人はさあ……。ホント、そういうとこだよ」

 目を逸らした彼女の声は、かすれてほとんど聞き取れなかった。

 呆れるようで、嬉しそうで、そして、どうしようもなく悲しそうな、そんな不思議な響きだった気がする。

 ​しばらくして、​ふぅ、と雫が小さなため息をつくのが聞こえた。それは、溢れ出しそうな何かを必死に押しとどめるような、そんな息遣いだった。  

「……私は、性格良くないよ」

 突然、静けさを破って、彼女は言った。

「えっ? なんでだよ。今言った通りじゃんか。お前は間違いなく、俺の知る中で一番性格いいって」
「ううん、良くないの。全然良くない」

 ​雫は静かに首を横に振った。その否定の仕方は、あまりにもはっきりとしていて、有無を言わせない響きがあって、俺は戸惑うしかなかった。

「純粋さなんか欠片もない。私の行動はいつも利己的で、打算にまみれてる。湊が思ってるより、私はずっと臆病でずる賢いんだよ」​
「そう、なのか?」

 俺には、その言葉の意味が理解できなかった。俺と彼女の自己評価がかけ離れすぎていて、頭が追いつかなかった。

「やっぱ、湊にはわからないよね。そうやって、昔からずっと、私としかまともに話さないから。だから、いつまで経っても鈍いまま」
「うるさいな。じゃあ、わかるように説明してくれよ」
「うーん、それはできない相談かな」

 ​俺が少し苛立ちながら問い詰めても、雫は曖昧に微笑むだけだった。いつものポーカーフェイスに戻っているはずなのに、なぜだかその笑みはひどく脆く、儚く見えて、急に胸がざわついた。

 いつものこいつじゃない。俺の知っている雫じゃない。まるで、知らない誰かを見ているような、そんな奇妙で不気味な感覚。

「でも、そのうちわかるよ。きっとね。大人になる頃には、嫌でもわかっちゃうの」
「はぁ? なんだよそれ、哲学か? 」

 ​俺が茶化すように言うと、彼女はまた、くすっと小さく笑った。

「そうかもね。キミにはまだ理解できない、ちょっとした哲学」

 そう言って窓の外に視線を移した雫の横顔は、俺の知らない表情をしていた。

 俺が見ているのは、俺が知っていると思っている雫は、ほんの断片に過ぎないのかもしれない。そんな考えが、不意に頭をよぎった。 同時に、無性に気持ちが悪かった。

「……んだよ、らしくねえな」
 
 ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しく、静まり返った部屋に溶けて消えそうだった。

 雫は、何も答えなかった。
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