星月夜の海

Yonekoto8484

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弄月

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ある日,保奈美が海保菜と龍太の座る台所に入って来て,喜びが溢れそうな顔で言った。
「さっき,一人で海に行って来たけど…!」

「あなたが!?」
海保菜は,驚いた。龍太も,目を丸くした。

「痛くなかったよ,初めて!全然痛くなかった!」

「…それは,おめでとう。怖くなくなったんだね。」
海保菜が微笑んで,言った。

龍太は,反応しなかった。最近,人魚の話題になると、黙り込むことが多い。前は,前向きに受け止めてくれていたのに,息子の態度が急に変わり,海保菜は,心配だったが,無理やり息子の悩みを聞き出すつもりはなかった。息子が自分で話すのを待つことにしていた。

「あなたは,本当に変わったわ…自覚しているの?前とは,全然違う!潜るのが怖かったのに、私の事が怖くて,叫びまくっていたのに…もう嘘みたい!」
海保菜は,小さく笑った。

「そんなに叫んでいたの?」
龍太が尋ねた。

「…そうかな?そんなに変わったかな?」
保奈美がわざととぼけて見せた。

「叫びまくっていたよ!それなのに,今は,海竜でも平気で近づいて,撫でたりするし,自分で海に行って泳ぐし…成長したね。

人魚になったね。もう人間じゃない。体だけじゃない。心も変わっている,性格も。びっくりするくらい!」

「…私も,お母さんみたいに自由になりたいから。」

「え?自由じゃないよ、私。海のものだよ,完全に。」

「うーん、魂は,とても自由に感じるよ。」

「魂か…魂は,いつだって,海の波や夜空の星と同じくらい自由でありたいよ。なかなか,なれないけど。」

「私も,そうなりたい。」

「なれるよ。体は,自分がどう思っていても,なるようにしかならないけど…魂は,あなたが決めるよ。心は,あなたが決める。だから,自分を信じて。」

そこへ,尚弥が突然帰ってきた。
「忘れ物した!オフィスに着くまで全然気が付かなかった!」

尚弥は,時計をチラッと見上げた。
「もう,遅刻だ!」

「保奈美が一人で、海で泳いできたんだって,初めて。もう,痛くないって。」
海保菜が嬉しそうに報告した。

「え?一人で行けるようになった?それは,よかったね!」
尚弥は,少しの間,遅刻のことを忘れて,真摯(しんし)に妻の話に耳を傾けた。子供のこれまでの思い悩んでいる様子を見て,自分の無力さを思い知らされてきた尚弥だったが,特に,いつも怖そうにしていた保奈美が一人で怖かったものと向き合えるようになったと聞いて,とても嬉しかった。

一週間が経ち,待っていても,龍太は,なかなか自分から話してくれそうになかった。そして,それより気になるのは,息子の体調だった。息子は,少し弱って来ているように見えた。顔色が悪くて,青白くて,どこか無理しているように見えた。海保菜は,多分海を避けているせいだと思い,久しぶりに子供たちを誘って,浜辺で散歩することにした。海に行けば,息子の体調も少しでも良くなるはずだし,悩んでいることについて話すきっかけになるかもしれないとも思った。

保奈美は,すぐに行くと賛成した。龍太は,少し迷っているように見えた。

「…顔色が悪いし,行った方がいいと思うよ。ここまできたら,体は,海に頼っているから,定期的に行かないと,体調を崩すかもしれない。」
海保菜は,頑張って説得した。

龍太は,少し嫌々ながらだったが,「行く」と言ってくれた。

海に近づけば,龍太が胸を痛そうに手で押さえた。

「大丈夫よ。私も痛いよ,保奈美も。」
海保菜は,息子の手を取って,自分の胸に当てさせた。
「私も,速いでしょう?普通だよ。怖いことじゃない。怖いと思ったら,もっと苦しくなるよ。」

龍太は,半信半疑で,海保菜の顔を見上げた。

海保菜は,息子の手を握った。
「苦しそうに,手で押さえなくてもいい。人魚の自分を恐れない。遮断しない。戦わない。深呼吸して,海を見て。落ち着くよ。」

「…落ち着かないよ。ますます痛くなるだけだよ。」

「あなたは,これでいい。具合は,悪くない。どこもおかしくない。これが普通だ。そう思えたら,落ち着くんじゃない?怖いから,痛いんじゃない?前は,怖くなかったのに…何か,あったの?」

龍太は,何も言わずに,俯いた。

「顔を上げて。」
海保菜は,優しく息子の手を握ったまま促した。

「いやだ。」

「なんで?」

「海を見れば,もっとひどくなる。」

「もっと,速くなる?それでいい。速くなってもいい。怖くない。」

「怖いよ…変わっちゃう…最近,すぐ変わりそうになる。」

「変わってもいいよ…私も,今抑えていなかったら,とっくに変わっているよ。ありのままの自分を受け止めなきゃ。変わる自分を受け入れなきゃ。」

「変わりたくない!」

「体は,もう前とは違う。変わりたいとか,変わりたくないとかは,もう関係ない。変わる体だから,仕方がない。変わらなきゃ。」

「…怖くて,できない。」
龍太がまた自分の胸を押さえた。小さく溜め息をついた。

「落ち着いて。大きく,息を吸って。潮風を頬に感じて。恐れなくていいの。変わっても,大丈夫。今なら、水に触れなくても,変われるから。」

「…家に帰りたい。」

「ここ、この場所も,あなたの家だよ。慣れてほしい。今の胸の苦しさは,生涯付き合わないといけないものだから,逃げてほしくない。前みたいに,自ら潔く、恐れずに受け止めてほしい。」

海保菜は,急に人魚に変わって,息子の手をまた自分の胸に当てさせた。
「ほら、落ち着いたでしょう?あなたも楽になっていいよ。」

龍太は、目を逸らした。保奈美は,距離を置いて,何も言わないことにした。

「顔を上げて。海を見て。顔を隠さなくていい。海から、隠れなくていい。触ってみて。」
海保菜は,息子の手を水につけた。すると,苦しそうに屈んだ。

「抑えない。さっき,何かを感じたでしょう?それを抑えない。戦わない。身を委ねる。」

「なんで?手しか触れていないのに…。」

「強くなったから。体は,もう,違うから。人間の血に,人魚の血が少し混じっているとかじゃない。人魚の血に体は,支配されている。でも、それでいい。戦わなくてもいい。」

海保菜は,龍太の背中に手をかけた。

「やめて!触らないで!」

海保菜は,首を横に振った。
「あなたこそやめて。戦うのをやめて。無理だよ。

なんでこんなに怖くなったの?まるで,前の保奈美みたい…。」

龍太は、首を激しく横に振った。

「何?恥ずかしいの?怖いの?気持ち悪いの?

気持ち悪くても、怖くても、恥ずかしくても、それがあなただし,変えられないよ。

あなたと保奈美に,逃げるのをやめて堂々と生きてほしい、人魚として。嫌でも,人魚だから。」

「…人魚として?」
保奈美が小さい声で訊き返した。

「人魚としてというか…あなたらしく生きてほしい。

体は別として,人魚にはならなくていいよ。どうありたいか,あなたたちが自分で決めたらいいよ。

ただ,体は,変わろうとしたら,素直に変わるしかない。でないと、衰えて,滅びる。」

龍太は,大きく溜め息をついて,顔を上げて海をまっすぐに見つめた。すると,すぐに胸を押さえて泣き出した。

「体はかたい。ほぐしてあげる。」
海保菜は,龍太の背中や肩を優しく揉み始めた。

「やめて!…本当に変わっちゃう…痛い。苦しい。」

「変わってもいいし,もう変われ!抑えずに,戦わずに,素直に変われ。前みたいに。変わっていいよ。」

龍太は,戦い続けた。

「どこが痛い?胸?ここ?」
海保菜がちょうど龍太が手で押さえていたところを触って,緊張をほぐした。

龍太は,呻(うめ)き声が漏れた。

「もういいよ。諦めて、変われ。

どうしたの?なんでこんなに戦うの?」

海保菜は,龍太の肩から手を離さずにはっぱをかけた。

「…もう無理!」

「そう、もう無理よ。素直に変われ。

この間,竜の姿を見て,分かったはずだ。自分は,人間じゃないって。全然違うって。人魚でしょう?竜でしょう?」

「人間も,人魚も,竜も,嫌じゃない!変わるのが嫌なんだよ!変わることが嫌なんだよ!なんでもいいから,早く,変わらない体になりたい!」
龍太は,ようやく言った。

「なんで,変わるのがそんなに嫌になったのかな?」

「…飲み込まれそうになるから,海に。自分が消えそうになる。自分は,何なのか,わからなくなる。誰かに教えて欲しい…僕は,一体何!?」

保奈美は,弟の言葉を聞いて,すぐに涙ぐんで,頷いた。
「私も,同じだ。」
と小さい声で呟いた。

海保菜は,ゆっくりと頷いた。息子の気持ちは,よくわかった。保奈美がずっと悩んでいたのも,同じ疑問だったということも,わかった。自分自身も,若い頃に,同じ気持ちを抱いたことがある。でも、どう答えたらいいのか,すぐには,思い浮かばなかった。

海面に映る月の影をしばらく眺めてから,言った。ずっと心では,思っていても,言葉にしようと努力しないと,言葉にならない思いがある。

「あれを見てごらん。」
海保菜が水面に映る月を指差して,言った。

保奈美も龍太も,母親が指差す方を見た。

「あなたは,何なのかというのは,私が決めることじゃない。自分とは何かというのは,人に決めさせてはいけないことだよ。自分で決めるんだよ。そうでないと,すぐに流されてしまう。

自分は,これだと自分で定義すればいい,何回でも。少し変わって来たと思ったら,また見直して,自分で再定義すればいい。

私も…最近まで人魚や人間,男や女,積極的や消極的は,絶対的なもので,生まれ持って決まるものだとばかり思っていた。でも,人の心は,そんな単純なものじゃない…。

私は,人魚だ。でも,人間のようなところもある。女だけど,男のようなところもある。積極的になるときも,消極的になるときも,ある。

ある時,気づいた。二択一じゃなくていいと…白黒みたいに,世界を二極化したものとして捉えるから,自分は縛られてしまうのだと…。

あなたも知っていると思うけど,私たちの住む世界は,決して白黒じゃない。赤,黄,緑,青,紫,茶など,様々な色がある。そして,その色たちを混ぜれば,また違う色が生まれるのだ。列挙にいとまがない。私たちも,それでいいんじゃない?

型にはまる必要はない。多種多彩でいい。

あなたの心は,人魚のようなところと,人間のようなところと,竜のようなところと,分類出来ないようなところは,どれも確実にあると思う。でも,それでいいのだ。選ばなくていい。というか,どれか一つを選択するのではなくて,全部選択すればいいんじゃない?自分を規定しなくていいよ…お母さんは,そう思う。

色んな自分を,みんな否定せずに,丸ごと受け入れたらいいんじゃない?」

龍太も,保奈美も,気持ちが楽になった気がした。

「でも,体は,別問題だ。あなたは,変わらないと,病気になるよ。人魚にならなくていいから,体だけ変えて。」

龍太が頷くと、体はすぐに変わり始めた。

「速い、速い!」
龍太が海保菜にしがみついた。

「速くてもいいの。変わってもいいの。体を楽にして。痛くないでしょう?少しも。」

「痛くない…でも、嫌だ。」

海保菜は,何も言わずに,肩に手をかけ続けた。

龍太は,気が付いたら,体は変わっていた。知らないうちに出来上がっていた。

「普通だよ、これで。二人とも、もう痛くないね。よかったね。」
海保菜が保奈美の肩にも手をかけて言った。

「そんな簡単に変われるなんて…。」

「出来る。今のあなたたちなら,簡単に海と陸を行き来出来る。ちょっと,羨ましいなぁ。」
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