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中国人はみんな中国語教師
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海の側に位置し,山に囲まれた小さな町である。豊かな大自然の恵みを受け,自然と隣り合わせの昔ながらの暮らしを営む者にとっては,正に居心地の良い場所だ。夏には,畑を耕し,田んぼを世話する。秋には,稲刈りをし,冬に備える。早朝には,漁に出て,釣った魚を自分でさばいて,調理をする。野生の鹿や猪を獲り、燻製にして,近所の方々にお裾分けをする。全国的に速いペースで都会化が進む中,昔の自給自足の暮らしが守られ続け,大事にされている印象を与える。
昔は,活気があって,お城まで建てられ,港町として栄えたものの、時代が変わり、高齢化と若者人口の都会への流出が急激に進んだ。今では,遺跡らしい遺跡もなく,かつての誇りと生気を失い,古き良き時代の面影だけを残し,時代に取り残され,次第に衰退していく。
時間の流れ方がゆったりしていて,住む人ものんびりしている。住宅地から出て,少しだけ足を伸ばし,山中へ行けば,まるで時間が止まったような感覚が味わえる。静寂に包まれた自然の中では,騒音という物はなく,虫の音や鳥の囀りなど自然の奏でるメロディーしかない。
秋には紅葉を,冬には雪景色を,春には桜を,夏には海を間近で堪能するには,もってこいの環境である。どの季節にも,旬の新鮮な食材は,すぐに手に入る。きれいな水とお米は潤沢にあるので,災害に見舞われない限り,不足することはない。それぞれの季節の風物詩を享受しながら,自然に守られた暮らしぶりが出来る,今では,珍しくて貴重な場所でもある。
古来の伝統やしきたりは,その意味や値打ちについて議論することもなく,踏襲される。家父長制などの昔の制度が根強く残っており、声を上げる者はおろか,改革する必要があると自覚している者もいない。外の世界を知ろうとする人も少なく,新しいものを取り入れようとしても、中身の伴わない形骸化したものに留まる。
中国で生まれ育った私が新卒で採用が決まった初めての赴任先は,こういう町だった。大学の専攻は,日本語と日本文化だったため,日本についての根本的な知識を身に付けているつもりだった。
応募した仕事は,中国の文化を日本人に伝え,イベントの企画や開催を通じて,違う文化を持つ人同士の交流のきっかけを作り,異文化理解を促進し,国際感覚を養うというものだった。翻訳や通訳からイベントの企画まで,幅広い業務を任されるものであるとは,聞いていたが,具体的にどのような業務を担当することになるかは,現地に着くまでわからない。期待と不安の交錯した複雑な心境で中国を発った。
日本に到着し,東京で三日間のオリエンテーションを受けてから,新幹線で赴任先へと向かった。
新幹線を降りると,新しい上司とその助手が駅まで迎えに来てくれていた。自己紹介をしてからすぐに車に乗り,働くことになっていた町へと向かった。新幹線を降りた駅から車で二時間ほど離れた田舎の町だった。
到着してすぐに,市役所へ挨拶回りに連れて行かれた。到着して初めてわかったことだったが,市役所の教育委員会に配属されることになっていた。
新しい職場で短い挨拶をしてから,家探し,転居届の提出,銀行口座の開設,携帯電話の契約などの手続きを二日間ぐらいかけて,終えた。
一連の転居関連の手続きを終えると,初めて自分が担当する業務について話を伺うことになった。
話を聞いていると,なんと,町の学校を回り,中国語を教えることになっているらしい。予想していた業務内容とは違いすぎて,「何かの間違いなのでは?」と思ったが,話を最後まで聞くことにした。最後まで聞いても,他に私に任される仕事はないようだった。中国語教師として働くことになっているようだった。
これは,困ると思った。確かに,私は中国人で,中国語が話せる。しかし,中国語を教えたことがないし,子供の前に立って何かを教えた経験もない。中国語が話せても,その教授法は知らない。教師ではない。
説明が終わり,質問をする間もなく,今度は学校へ連れて行かれ,挨拶をした。予想外の展開で,何と挨拶したら良いのか,途方に暮れたが,適当に名前と出身地を名乗るだけのとても短い自己紹介をした。
すると,何と,喝采が始まった。「日本語,上手!」とみんなは,目を丸くして,感心している様子だった。
この反応は,また驚いた。この仕事に応募した時の採用要件は,日本語が堪能であることだったからである。日本語が出来るのは,当然であると思っていた。でなければ,翻訳や通訳はもちろん,日本で働くのは難しいというのは,私の常識だった。
それに,戸惑って何を言ったら良いのかわからずに困っている私の挨拶は,小学一年生の児童でもすらすらと言える内容だった。拍手には,値しない。それなのに,ここまで喜ばれると,逆に馬鹿にされたような気持ちを抱く。
挨拶三昧の一日が終わり,新しいマンションまで送ってもらう時のことである。新しい上司は,どことなくとっつきにくいところはあったので,その助手に業務のことについて,尋ねてみた。助手は,歳の近い優しそうな雰囲気の若い女性だった。
「中国語を教えるんじゃなくて,翻訳や通訳の仕事だと聞いていたが,そういう仕事は,ありませんか?」と聞いてみたら,「え?唐さんは,翻訳をする立場でしたか?」とびっくりされた。
一体,何の手違いで,このことになったのだろう。私には,全く見当が付かなかった。
上司の助手には,とりあえず,「大学で日本語を専攻し,日本語を活かす仕事がしたくてこの仕事に応募したので,もしそういう仕事があれば,回して欲しい。」と伝えてから,別れた。
上司の助手と別れても,しばらくは落ち着かなかった。頭の中は,混乱していた。訳が分からなかった。しかも,翌日の朝から学校で中国語を教えることになっている。これは,本当にえらいことになった。そう思った。
しかし,私の立場としては,翌日の学校での業務を終え,市役所へ戻ってから,上司に事情を話してみるしかない。今すぐ解決できる問題ではない。
次の日のことをとても不安に思いながら,その夜はもう寝ることにした。
昔は,活気があって,お城まで建てられ,港町として栄えたものの、時代が変わり、高齢化と若者人口の都会への流出が急激に進んだ。今では,遺跡らしい遺跡もなく,かつての誇りと生気を失い,古き良き時代の面影だけを残し,時代に取り残され,次第に衰退していく。
時間の流れ方がゆったりしていて,住む人ものんびりしている。住宅地から出て,少しだけ足を伸ばし,山中へ行けば,まるで時間が止まったような感覚が味わえる。静寂に包まれた自然の中では,騒音という物はなく,虫の音や鳥の囀りなど自然の奏でるメロディーしかない。
秋には紅葉を,冬には雪景色を,春には桜を,夏には海を間近で堪能するには,もってこいの環境である。どの季節にも,旬の新鮮な食材は,すぐに手に入る。きれいな水とお米は潤沢にあるので,災害に見舞われない限り,不足することはない。それぞれの季節の風物詩を享受しながら,自然に守られた暮らしぶりが出来る,今では,珍しくて貴重な場所でもある。
古来の伝統やしきたりは,その意味や値打ちについて議論することもなく,踏襲される。家父長制などの昔の制度が根強く残っており、声を上げる者はおろか,改革する必要があると自覚している者もいない。外の世界を知ろうとする人も少なく,新しいものを取り入れようとしても、中身の伴わない形骸化したものに留まる。
中国で生まれ育った私が新卒で採用が決まった初めての赴任先は,こういう町だった。大学の専攻は,日本語と日本文化だったため,日本についての根本的な知識を身に付けているつもりだった。
応募した仕事は,中国の文化を日本人に伝え,イベントの企画や開催を通じて,違う文化を持つ人同士の交流のきっかけを作り,異文化理解を促進し,国際感覚を養うというものだった。翻訳や通訳からイベントの企画まで,幅広い業務を任されるものであるとは,聞いていたが,具体的にどのような業務を担当することになるかは,現地に着くまでわからない。期待と不安の交錯した複雑な心境で中国を発った。
日本に到着し,東京で三日間のオリエンテーションを受けてから,新幹線で赴任先へと向かった。
新幹線を降りると,新しい上司とその助手が駅まで迎えに来てくれていた。自己紹介をしてからすぐに車に乗り,働くことになっていた町へと向かった。新幹線を降りた駅から車で二時間ほど離れた田舎の町だった。
到着してすぐに,市役所へ挨拶回りに連れて行かれた。到着して初めてわかったことだったが,市役所の教育委員会に配属されることになっていた。
新しい職場で短い挨拶をしてから,家探し,転居届の提出,銀行口座の開設,携帯電話の契約などの手続きを二日間ぐらいかけて,終えた。
一連の転居関連の手続きを終えると,初めて自分が担当する業務について話を伺うことになった。
話を聞いていると,なんと,町の学校を回り,中国語を教えることになっているらしい。予想していた業務内容とは違いすぎて,「何かの間違いなのでは?」と思ったが,話を最後まで聞くことにした。最後まで聞いても,他に私に任される仕事はないようだった。中国語教師として働くことになっているようだった。
これは,困ると思った。確かに,私は中国人で,中国語が話せる。しかし,中国語を教えたことがないし,子供の前に立って何かを教えた経験もない。中国語が話せても,その教授法は知らない。教師ではない。
説明が終わり,質問をする間もなく,今度は学校へ連れて行かれ,挨拶をした。予想外の展開で,何と挨拶したら良いのか,途方に暮れたが,適当に名前と出身地を名乗るだけのとても短い自己紹介をした。
すると,何と,喝采が始まった。「日本語,上手!」とみんなは,目を丸くして,感心している様子だった。
この反応は,また驚いた。この仕事に応募した時の採用要件は,日本語が堪能であることだったからである。日本語が出来るのは,当然であると思っていた。でなければ,翻訳や通訳はもちろん,日本で働くのは難しいというのは,私の常識だった。
それに,戸惑って何を言ったら良いのかわからずに困っている私の挨拶は,小学一年生の児童でもすらすらと言える内容だった。拍手には,値しない。それなのに,ここまで喜ばれると,逆に馬鹿にされたような気持ちを抱く。
挨拶三昧の一日が終わり,新しいマンションまで送ってもらう時のことである。新しい上司は,どことなくとっつきにくいところはあったので,その助手に業務のことについて,尋ねてみた。助手は,歳の近い優しそうな雰囲気の若い女性だった。
「中国語を教えるんじゃなくて,翻訳や通訳の仕事だと聞いていたが,そういう仕事は,ありませんか?」と聞いてみたら,「え?唐さんは,翻訳をする立場でしたか?」とびっくりされた。
一体,何の手違いで,このことになったのだろう。私には,全く見当が付かなかった。
上司の助手には,とりあえず,「大学で日本語を専攻し,日本語を活かす仕事がしたくてこの仕事に応募したので,もしそういう仕事があれば,回して欲しい。」と伝えてから,別れた。
上司の助手と別れても,しばらくは落ち着かなかった。頭の中は,混乱していた。訳が分からなかった。しかも,翌日の朝から学校で中国語を教えることになっている。これは,本当にえらいことになった。そう思った。
しかし,私の立場としては,翌日の学校での業務を終え,市役所へ戻ってから,上司に事情を話してみるしかない。今すぐ解決できる問題ではない。
次の日のことをとても不安に思いながら,その夜はもう寝ることにした。
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