花の記憶

Yonekoto8484

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勿忘草

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哲雄が急な坂を楽々と登って行く妻の幸子について行こうとして、途中で顎を出し、立ち止まった。

魚が海流をものともせずに、悠々と海を自由自在に泳いで行くように、軽やかに坂道を登り下りをしながら、散った花を拾い集める幸子の姿は、辛そうに、「はあ、はあ。」と息を切らしている哲雄のとは、対照的である。

「この体力の差は、何なのだろう⁉︎」と哲雄が一瞬戸惑った。

しかし、車の免許を取らずに、子供を8人育てた幸子は、脚を鍛えていた。子供の送り迎え、お買い物、通院などの用事を全て徒歩でこなして来たのだった。今のデパート店員の仕事も、徒歩で通勤している。

大工として生計を立てて来た哲雄は、大工の腕には覚えがあるものの、脚はそこまで丈夫ではない。幸子みたいに、徒歩通勤はおろか、お買い物などの用事も全て車に頼って来たのだった。それに、今年の3月に定年退職をしてから、家に籠もりがちになり、脚も鈍ってしまっていた。

幸子は、子育てが一段落し、去年から念願のデパート店員の仕事をしている。子供の頃から暗算が得意で、算数の成績がずば抜けてよかった幸子は、腕が鳴るようで、仕事を始めてから、体調も良く、いつもピンピンしている。

お客さんとの懇ろな接し方や生まれつきの優しくて気立ての良い性格のお陰で、デパートの常連に覚えてもらい、デパートの欠かせないスタッフメンバーの一人になっている。幸子の人となりが功を奏し、デパートで働き始めて僅か一年で、なんとマネジャーへの昇進を果たしたのだった。

幸子の人当たりの良さは、思ったことを何でもぶっきらぼうに言ってしまう癖のあるせいで、30年近く同じ職場で働き続けても、なかなかうだつが上がらなかった哲雄とは、雲泥の差である。しかし、哲雄のはっきり物を言うところは、人の怒りばかり買うところでもなかった。勤勉で、誠実な物腰に一目を置く者も沢山いたし、出世しなくても職場では信頼されていた。長年の付き合いのインド人の友人とも親交が深く、交流が途絶えることはなさそうだ。

「あなた、これを見て。」
幸子が摘んだ小花でいっぱいになった籠を持って、立ち止まって10分近く経っても、歩き出せずに棒立ちをしてしまっている哲雄の元へ軽快な足取りで駆け寄って来た。

「可愛いでしょう?」
幸子がそう言って、哲雄に差し出して来たのは、淡い青色をした小花、勿忘草(勿忘草)だった。

幸子の花好きは、哲雄にも共通するところである。哲雄も、数年前に、庭に薔薇の木を沢山植え、手塩にかけて、子供のように大事に育てている。自分の手で何かを育て、実を結ぶというのは、実に、達成感のあることである。哲雄のこの感覚は、幸子が8人の子育てに四苦八苦しながらも、「愛おしい。」と子供のことを表現していた気持ちに通じるところがあるのかもしれない。

ところが、幸子は、花を育てるだけにとどまらず、野原で集めた小花を分厚い本に挟み、ドライフラワーを作るのが趣味である。花だけではなく、秋の色の染まった紅葉の葉っぱも、同様に本に挟み、友人へのプレゼントや手紙によく添えて、喜んでもらっている。幸子は、そういう細やかなことで、他人を笑顔にすることで、喜びを感じる、温厚で、心の優しいタチである。

今日、幸子は、休みが取れたから、久しぶりに二人で出掛けようと誘ってくれたのだった。これまでの長い結婚生活は、幸子が子供の世話に、哲雄が仕事に追われ、二人の時間というものが滅多に持てなかったのだが、哲雄が退職してから、こうして、幸子の休みの日に一緒に過ごせるようになり、まるでこれまで一緒に過ごせなかった時間を取り戻そうとしているように感じる。

新婚旅行以来、行けていなかった二人旅行も、この間、幸子の連休に合わせて、ハワイに行って来たのである。ハワイは、ずっと夢に描いていた通りの素敵な場所で、大人になってから初めて、何にも追われずに、ゆったりと二人で過ごせて、正に有頂天だった。そのようなのんびりとした、至福な時間が過ごせて、夫婦共に、これまでの様々な苦労が報われたような気持ちになった。

坂道を無事に下り、家の玄関に辿り着くと、哲雄は、汗だくになっていた。

「まだ5月なのに、なんでこんなに熱く感じるんだろう⁉︎」
と内心で嘆きながらも、疲れていることを首にも出すまいと、努力して笑顔を作り、幸子に話しかけた。
「5月は、花が沢山咲くから嬉しいね。」

「そうだね。元気になるわね。」
幸子は、努力せずに、自然な笑顔で微笑んで、答えた。

玄関を開けようとすると、幸子が籠を落とし、花が玄関前の地面にばら撒いてしまった。花を落としたことに気づき、大慌てで拾い始めた幸子を助けようと、哲雄もしゃがんだ。

花を入れ直した籠を手にするなり、
「あら、可哀想に!」
と幸子が声を上げ、すぐに手を合わせ、祈り始めた。

幸子を知らない人なら、珍しがる光景だが、半生分の喜怒哀楽を共にした哲雄には、わかる。幸子が籠が落ちた時に、下敷きになり、死んでしまった蟻(あり)の冥福を祈っているのである。幸子は、昔から、信心深くて、蟻の魂でも尊いと思い、全ての生き物に対して、畏敬の念を抱いている。

哲雄は、蟻に手を合わせたことがないが、蟻の魂でも、成仏出来るように、きちんと供養したいと思う幸子の姿には、美しくて、どことなく神々しいものがあるように思える。

「じゃ、お昼にしようか。」
幸子は、蟻の供養儀式が終わり、いつのまにか立ち上がり、玄関に入ろうとしていた。

ふと我に返った哲雄も、立ち上がろうとしたが、腰が痛くて、立てないのである。そのことを幸子に勘ぐられるのが恥ずかしい哲雄は、
「あなたが先に上がって。僕は薔薇の水遣りをしてから、上がるから。」
と誤魔化した。

幸子は、夫の哲雄の嘘をすぐに見抜いたが、彼の尊厳を傷つけたくないから、指摘を控え、黙って見守ることにした。

「わかった、親子丼にするね。」
幸子がウィンクして言った。

親子丼は、哲雄の大好物である。哲雄は、幸子の自分がくたびれているのを察し、好きなものを作ってくれて、批判したりせずに労るところにこれまで何度救われて来たことだろう。仕事が立て込んで帰りが遅くなった日、職場の同僚や上司と意見が合わなくて揉めてしまった日、哲雄が神経を使いすぎて、へたばりそうになると、必ず幸子がそれを察し、親子丼が卓上に出る。「疲れた。」とこぼした記憶がないのに、頭を悩ますようなことがある日は、いつも魔法のように、親子丼が出るのだった。正に、以心伝心である。

哲雄も、いつか、幸子のために、そういうことが出来たらいいなあと思った。
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