花の記憶

Yonekoto8484

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紫陽花

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幸子が病院で検査を受けた結果、「アルツハイマー病」という病名が告げられ、薬を処方され、病院に通うことになった。

哲雄は、幸子の病名を娘から聞いても、ピンと来なかった。当然、「アルツハイマー病」という病気を知らない訳ではない。今時、新聞やテレビで頻繁に取り上げられ、高齢者なら誰でも知っている癌や認知症と並ぶ、お馴染みの病気の一つである。幸子の症状が認知症の症状を連想させるものがあるのも否めない。

しかし、幸子がそういう病気に罹るわけがないと、哲雄は思っていた。二人で認知症予防の特集番組を見て、脳の活性化や人との交流などが予防法として効果があると先日、画面越しに講師に教えてもらったところである。それなら、脳を常に、フル回転させる必要があり、毎日一日中接客対応をしている幸子のことだから、罹らないはずである。

それに、幸子は、もともと才色兼備で、優秀な人である。高校も、大学も、首席で卒業し、難なくエリート会社に就職が決まり、哲雄と結婚し、長女を身籠るまで沢山実績を積み上げながら、立派に勤めた。それなのに、幸子は、他人に対し、少しも見下したり、上から目線な態度を取ったりすることはない。どこまでも、謙虚で、人に優しく、自分には厳しい人である。実に、殊勝な人格の持ち主である。

哲雄は、もちろん、病気は、才能や実績、人格や人柄を問わないことを知っていた。しかし、幸子があの恐ろしい病気を患っていることを認めるのが、心臓が止まりそうになるくらい、怖い。藁にもすがるような思いで、裁判で言い渡された不平な判決に対し控訴したり上告したりすると同様に、哲雄は、自分の心の中で、幸子が病気になるはずがないという理由を思いつくままに並べ立てて、自分の心と現実との間に砦を作り、恐怖から自分を守った。

だから、美恵子に、幸子がアルツハイマー病だと告げられても、ぶっきらぼうに否定した。
「アルツハイマー病⁉︎そんなバカなこと、あるか⁉︎」

美恵子は、必死で、父親を説得し、理解を得ようとしたが、一向に聞く耳を持とうとせずに、何をどう言っても、ひたすら否定し続けるから、美恵子は、とうとう、
「もう、どうしようもない人だから、お父さんは!」
と言い捨てて、呆れて帰った。

その日から、哲雄にとって、幸子が高嶺の花のような、手が届きそうで、届かないような存在になった。話しかけようと思っても、何と声をかけたら良いのか迷い、近づきたくても、近くことで幸子の病気を受け止めなければならないかもしれないと思うと、尻込みをしてしまうようになった。

「幸子は、知っているかな?自分の病気のこと?」
と哲雄は、最初気になったが、そう尋ねるまでもなく、幸子の表情を一瞥しただけで、その答えがわかった。以前、生き生きに輝いていた幸子の目の奥には虚な闇が潜み、顔には暗い影がある。その影を見ると、哲雄は、幸子がますます遠く感じてしまう。自分と幸子との間に一生歩き倒しても、踏破できないくらいの果てしない距離があるように感じた。その距離を作っているのは、他の誰でもなく、意地を張り、現実を受け止めるのを拒み続ける哲雄自身であったのだが、哲雄は、それには、気づけない。

ほとんど言葉を交わさずに過ごし、一ヵ月が経とうとしている頃に、幸子がふいに哲雄を近くの紫陽花園へ誘った。哲雄は、断る理由がないから、賛成した。

二人が前と同じように並んで歩き、前と同じように「綺麗ね!」と言い合い、前と同じように花の観賞を楽しんだ。

しかし、前と変わらずに、同じであるのは表面的なところだけで、本当は、全てが変わっていた。手と手が触れるくらいの近い距離を保ち並んで歩く二人の間には、大きな壁ができてしまい、二人の花を見て喜ぶ表情には影があり、二人の前には、「恐怖」と「不安」という形を装った得体の知れない相手が立ち塞がる。

二人の進む道を立ち塞がる相手に、一緒に立ち向かえるのか、全てを失わずに小さな幸せを掴んでいけるのか、それは、幸子にも、哲雄にも、紫陽花にも、わからない。

「ほら、これはハイブリッドらしいよ。」
幸子が少し変わった色合いの紫陽花を指さして言った。

「僕たちみたいだね。」
哲雄が答えた。哲雄と幸子は、生まれも育ちも、まるで違う夫婦である。

哲雄は、貧しい農家の家庭に生まれ、今住む街から遠く離れた田舎町で、過酷な環境で育った。校舎がボロボロの学校へ通い、下校後畑を耕し、酔っ払いの父親の帰宅後、暴行を振われる日々を繰り返し、大人になった。

一方では、幸子は、貧しい在日韓国人の家族の次女として生まれ、都会の狭いマンションで家族5人で暮らし、自分でバイトをし、学費を稼ぎ、大きくなった。

のうのうとした暮らしを知らず、楽々と過ごしたことがないところが二人の共通点だった。

哲雄がハイブリッドの紫陽花を見て、二人の馴れ初めを思い出し、少し勇気が湧いて来るのを感じた。二つの違う環境が一緒になり、何も生まれないはずがない。幸子は、治らない病気に罹ったのかもしれない。しかし、だからといって、二人には、もういいことは訪れないとも限らない。きっと、これからも、いいことはあるはずだ。哲雄には、そのような気がした。

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