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外伝4 せんせいの誕生日
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「ねぇ、房子……アレ、なんなの?」
コソコソと話す声が聞こえる。だけど私はそれを無視して机に突っ伏したままの姿勢を保った。
「すみ枝さんがまた何かやったみたいで……」
「先輩が? 何かあるたびに二人してウチに押し掛けるのやめてほしいんだけど……」
「ちょっと市子、聞こえちゃうから」
思いっきり聞こえている。恐らく聞こえるように話しているに違いない。だけど私にはそんなことを気にしている余裕はない。
とにかく今日のうちに気持ちを整理しておかなくては明日からの仕事に差し支えてしまう。
「あの、樹梨さん……?」
おずおずと声を掛けてきたのは友永市子だ。私はゆっくりと顔をあげると市子さんは眉をハの字にして私に聞く。
「先輩がまた何かしたんですか?」
「何もないんです……」
口に出したことでさらにその事実を思い出してしまう。
市子さんは私の恋人であるすみちゃんの高校時代の後輩だ。ちょっと妬けるくらい気心が知れた長い付き合いの友人だけど、市子さんには房子さんという恋人がいる。
すみちゃんに紹介されて二人と知り合った。まだ付き合いは短いのだけれど、最近では私の一番の相談相手になっている。すみちゃんのことをよく知っていて、しかも同性の恋人を持つ年上の二人はとても頼りになる存在だ。
だから今日も二人が住むマンションに押しかけてしまった。
「どうしたのか説明してもらえる? 何か力になれることがあるかもしれないし」
そう言ったのは房子さんだった。
初対面のとき市子さんのことを性格がきつくて近寄りがたい雰囲気だと思っていた。けれど実際に話をして打ち解けると幼い雰囲気も残したかわいい女性だと感じる。
房子さんは女性の持つ色気とやさしさを煮詰めてできているような雰囲気があるけれど、本心が見えなくて少し怖いとすら感じる。多分、敵にしたら一番怖くて一番厄介な人になるという予感がした。
「自分でも子どもっぽいってわかってるんです。これくらいのことを気にする方がいけないってわかってるんです」
私は自分の心にいいきかせるように話す。房子さんも市子さんも黙って耳を傾けてくれていた。
「今日……七月七日です……」
「そうですね。今日はたなば……っあ!」
市子さんは何かに気付いたように途中で言葉を切って口もとに手を当てた。そして房子さんに顔を寄せて耳打ちをする。そうすると房子さんはこめかみを抑えてうなだれた。
「あの子は……」
「すみちゃんが今忙しいのは知ってますし、こんなことを気にするなんて馬鹿げているって思うんです。だけど……」
「本当に先輩は……樹梨さんももう別れてもっといい人を探したらどうですか? 私ならあんな人絶対に無理です」
市子さんの言葉に冗談や慰めの色はない。きっと本気で言っているのだろう。
「そんな別れるほどのことじゃないし。すみちゃんにもいいところがいっぱいあって……」
私は慌てて弁明する。そうだちょっとショックだっただけで、別れたいなんて思っていない。
「だけど先輩はこれからもこんなことが繰り返しますよ? それでもいいんですか?」
「ごめんなさい、ちょっと愚痴りたかっただけなんです。そう言うところも含めて好きになったんだし」
市子さんの言葉で私は逆に落ち着けた。すみちゃんが私のことを好きじゃないとか、大切に思っていないとかそんな風に考えているわけではない。ちゃんと私のことを好きでいてくれることはわかっている。
「こんな些細なことを気にしちゃった私の方が悪いんです」
「駄目ですよ樹梨さん! そうやって甘やかしたら先輩が図に乗るだけです」
すみちゃんと市子さんは仲が良いはずなのに、どうしてここまで辛辣なのかはいまだに理解できない。
「そうよ。今日は樹梨さんの誕生日なんでしょう? しかも付き合いはじめて最初の誕生日。そんな日を忘れるなんてすみ枝さんがどうかしてるのよ」
房子さんも市子さんの言葉に同調した。
そう、今日は私の誕生日だ。しかも日曜日と重なった。だから私は少しだけ期待してしまっていた。
去年の誕生日はまだすみちゃんと知り合ったばかりの頃で、すみちゃんに偶然会うことを期待して街に繰り出していた。
本当に偶然に会うことができてポストカードをプレゼントしてもらった。
それから少し後になって、授業参観の様子を描いた『未来』という絵をもらった。
誕生日の少し前、酔っぱらっていた私はすみちゃんの家に泊めてもらった。
私は誕生日があまり好きじゃない。だけど今は誕生日にはそうしたすみちゃんと出会ったときの思い出が浮かぶ。きっとすみちゃんも同じだと思っていた。
だけど土曜日になってもすみちゃんからの連絡はなかった。すみちゃんに電話をしたら「急なリスケがあって月曜の十時までに仕上げて送らなきゃいけない仕事が……」とヘロヘロの声で言ったのだ。誕生日のことなんて完全に忘れているようだった。
私は「そっか。邪魔してごめんね。お仕事がんばってね」とイイ女風に伝えて電話を切ったけれど内心複雑だった。
別に誕生日にプレゼントが欲しいわけじゃない。
きっと私はこれから先、誕生日が来るたびにすみちゃんと出会い、惹かれていった日々を思い出すだろう。私にとっては何よりの宝物だ。
だからこそすみちゃんが誕生日を覚えていなかったことが悲しかった。出会ったときのことを一緒に忘れられてしまったような気持ちになったのだ。
誕生日の今日を迎えて、どうしても家に一人でいるのが辛くなって房子さんと市子さんの家に押し掛けたのである。
そのとき市子さんの携帯が震えた。市子さんは画面を見て一瞬顔をしかめてから電話に出る。
「もしもし?」
市子さんは立ち上がって部屋を移動した。
「せっかくのお休みに押しかけてすみませんでした。もう大丈夫です」
「よかったら一緒に夕食でも食べない? ささやかだけどお祝いをさせて」
房子さんがやわらかな口調で言う。
「いえ、今日はもう帰ります。明日の仕事の準備もありますし」
「そう? 先生も大変ね。授業の準備とか?」
「そうですね。用意されている教材もあるんですけど、少しでもわかりやすく教えられるように……」
私がそこまで言ったとき、房子さんが「ちょっと待って」とつぶやく。
「あれ?」
そうして何度も首をひねった。何事だろうと房子さんを眺めていると、隣の部屋から電話を終えた市子さんが戻ってきた。
「本当に馬鹿なんだからっ」
市子さんは呆れた顔を隠そうともせずにつぶやくと私を見る。
「樹梨さん、もしかして電話切ってる?」
そう言われて今朝電話の電源を落としたままだったことを思い出した。友人たちから誕生祝のメッセージが届くのはうれしかったが、同時にすみちゃんに忘れられていることが余計に悲しくなって電源を切ってしまったのだ。
「もしかして今の電話……」
「先輩から」
市子さんは深いため息をつく。
「先輩、樹梨さんの誕生日を忘れたわけじゃなかったみたいですよ。ただ、今日がまだ七月三日くらいだと思ってたみたいです」
「へ?」
「なんだか仕事が立て込んでて、曜日感覚も日付感覚もなくなってたとかなんとか言ってました。喜太郎くんと仕事の話をしているときに七月七日だったことに気付いたんですって」
市子の言葉が理解できなかった。そんなことがあるのだろうか。
教師をしていると否応なく日付や曜日を意識させられるから、日付を忘れたことなんてない。
だけどすみちゃんの仕事は決まった休日もない。そう考えれば、すみちゃんが日付や曜日を忘れることもあり得るんじゃないかと言う気持ちになってきた。
「それでどうして市子さんに電話が?」
「樹梨さんに謝ろうと思って電話したけどつながらないから行き先を知らないかって」
「それで……?」
「家に来てるって伝えましたよ。でもまだ仕事が終わってないみたいだから、さっさと終わらせろって怒鳴っておきました」
「はぁ」
「なにがなんでも終わらせて、絶対に今日中に樹梨さんの家に行くから待ってて、ですって」
なんだか体の力が抜けていく気がした。
「やっぱりそうよね」
房子さんが笑顔で言う。
「どうしたの、房子?」
「さっき思い出したんだけど、一カ月以上前のことなんだけど、すみ枝さんが家に来たことを思い出したの」
「何それ、私知らない」
「市子が会社に行ってたときだから」
「いくら先輩でも私がいないときにホイホイ家に上げないでよ」
「でも来ちゃったものは追い返せないでしょう?」
「先輩なんて追い返せばいいのよ」
なんだか房子と市子が痴話喧嘩をはじめてしまいそうだったので私は慌てて口を挟む。
「えっと、すみちゃんはどうしてこちらに来たんですか?」
そこで我に返ったように房子は私の方に向き直る。
「なんだか悩み事があるみたいでね。ずーっと難しい顔で唸ってるから何があったのか聞いてみたの。そうしたら樹梨さんの誕生日に何を贈ろうかって悩んでて」
そうして房子さんはケラケラと笑った。
「そんなに悩むこと?」
市子さんはあきれ顔だ。
「あの子が言うには、一番自信がある絵は去年プレゼントしたし、もうプロポーズもしちゃったし、指輪もプレゼントしたから、これ以上どうやってサプライズのプレゼントを用意すればいいんだろうって」
房子さんの言葉を聞いて、私は日付を勘違いしていて誕生日を忘れられたことが一番のサプライズじゃないかな、なんて思ってしまう。
「房子、それでなんて言ったの? 先輩、プロポーズのときのサプライズで大失敗してるでしょう?」
「本当に。だからサプライズなんていらないからって言っておいたんだけど……」
房子さんの言葉に私はちょっとホッとする。すみちゃんは悪意なくちょっとだけズレている。だから諸手を挙げて喜べないけど、怒ることもできず微妙な気持ちになってしまうのだ。それでも満悦なすみちゃんの顔を見るとうれしくなってしまうのだけれど。
「先輩はボケてますけど、樹梨さんの誕生日を忘れるほどボケてはいなかったみたいですよ」
市子さんが小さく笑みを浮かべて言う。
「本当にありがとうござました」
私はそう言って立ちあがった。
「もう少しゆっくりしていったら? どうせすみ枝さんもまだ仕事が終わらないだろうし」
「家に帰ってすみちゃんを待つことにします」
私は最後にもう一度二人にお礼を言って家路についた。
今日が終わるまであと九時間余り。すみちゃんは本当に間に合うだろうか。二、三日寝ないで仕事をしている様子だったから、家に来てもすぐに眠ってしまうかもしれない。
私は家に帰って鞄に着替えを詰め込んだ。そして仕事用のバッグを持って家を出た。
私の誕生日だからって、私が待っている必要なんてない。疲れているすみちゃんに無理をしほしいわけじゃない。
私はただ、すみちゃんと一緒に過ごせればそれで満足だ。
今年の誕生日は、修羅場のすみちゃんのためにコーヒーを淹れて過ごそう。
きっとそれも来年には素敵な思い出になっているはずだ。
コソコソと話す声が聞こえる。だけど私はそれを無視して机に突っ伏したままの姿勢を保った。
「すみ枝さんがまた何かやったみたいで……」
「先輩が? 何かあるたびに二人してウチに押し掛けるのやめてほしいんだけど……」
「ちょっと市子、聞こえちゃうから」
思いっきり聞こえている。恐らく聞こえるように話しているに違いない。だけど私にはそんなことを気にしている余裕はない。
とにかく今日のうちに気持ちを整理しておかなくては明日からの仕事に差し支えてしまう。
「あの、樹梨さん……?」
おずおずと声を掛けてきたのは友永市子だ。私はゆっくりと顔をあげると市子さんは眉をハの字にして私に聞く。
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「何もないんです……」
口に出したことでさらにその事実を思い出してしまう。
市子さんは私の恋人であるすみちゃんの高校時代の後輩だ。ちょっと妬けるくらい気心が知れた長い付き合いの友人だけど、市子さんには房子さんという恋人がいる。
すみちゃんに紹介されて二人と知り合った。まだ付き合いは短いのだけれど、最近では私の一番の相談相手になっている。すみちゃんのことをよく知っていて、しかも同性の恋人を持つ年上の二人はとても頼りになる存在だ。
だから今日も二人が住むマンションに押しかけてしまった。
「どうしたのか説明してもらえる? 何か力になれることがあるかもしれないし」
そう言ったのは房子さんだった。
初対面のとき市子さんのことを性格がきつくて近寄りがたい雰囲気だと思っていた。けれど実際に話をして打ち解けると幼い雰囲気も残したかわいい女性だと感じる。
房子さんは女性の持つ色気とやさしさを煮詰めてできているような雰囲気があるけれど、本心が見えなくて少し怖いとすら感じる。多分、敵にしたら一番怖くて一番厄介な人になるという予感がした。
「自分でも子どもっぽいってわかってるんです。これくらいのことを気にする方がいけないってわかってるんです」
私は自分の心にいいきかせるように話す。房子さんも市子さんも黙って耳を傾けてくれていた。
「今日……七月七日です……」
「そうですね。今日はたなば……っあ!」
市子さんは何かに気付いたように途中で言葉を切って口もとに手を当てた。そして房子さんに顔を寄せて耳打ちをする。そうすると房子さんはこめかみを抑えてうなだれた。
「あの子は……」
「すみちゃんが今忙しいのは知ってますし、こんなことを気にするなんて馬鹿げているって思うんです。だけど……」
「本当に先輩は……樹梨さんももう別れてもっといい人を探したらどうですか? 私ならあんな人絶対に無理です」
市子さんの言葉に冗談や慰めの色はない。きっと本気で言っているのだろう。
「そんな別れるほどのことじゃないし。すみちゃんにもいいところがいっぱいあって……」
私は慌てて弁明する。そうだちょっとショックだっただけで、別れたいなんて思っていない。
「だけど先輩はこれからもこんなことが繰り返しますよ? それでもいいんですか?」
「ごめんなさい、ちょっと愚痴りたかっただけなんです。そう言うところも含めて好きになったんだし」
市子さんの言葉で私は逆に落ち着けた。すみちゃんが私のことを好きじゃないとか、大切に思っていないとかそんな風に考えているわけではない。ちゃんと私のことを好きでいてくれることはわかっている。
「こんな些細なことを気にしちゃった私の方が悪いんです」
「駄目ですよ樹梨さん! そうやって甘やかしたら先輩が図に乗るだけです」
すみちゃんと市子さんは仲が良いはずなのに、どうしてここまで辛辣なのかはいまだに理解できない。
「そうよ。今日は樹梨さんの誕生日なんでしょう? しかも付き合いはじめて最初の誕生日。そんな日を忘れるなんてすみ枝さんがどうかしてるのよ」
房子さんも市子さんの言葉に同調した。
そう、今日は私の誕生日だ。しかも日曜日と重なった。だから私は少しだけ期待してしまっていた。
去年の誕生日はまだすみちゃんと知り合ったばかりの頃で、すみちゃんに偶然会うことを期待して街に繰り出していた。
本当に偶然に会うことができてポストカードをプレゼントしてもらった。
それから少し後になって、授業参観の様子を描いた『未来』という絵をもらった。
誕生日の少し前、酔っぱらっていた私はすみちゃんの家に泊めてもらった。
私は誕生日があまり好きじゃない。だけど今は誕生日にはそうしたすみちゃんと出会ったときの思い出が浮かぶ。きっとすみちゃんも同じだと思っていた。
だけど土曜日になってもすみちゃんからの連絡はなかった。すみちゃんに電話をしたら「急なリスケがあって月曜の十時までに仕上げて送らなきゃいけない仕事が……」とヘロヘロの声で言ったのだ。誕生日のことなんて完全に忘れているようだった。
私は「そっか。邪魔してごめんね。お仕事がんばってね」とイイ女風に伝えて電話を切ったけれど内心複雑だった。
別に誕生日にプレゼントが欲しいわけじゃない。
きっと私はこれから先、誕生日が来るたびにすみちゃんと出会い、惹かれていった日々を思い出すだろう。私にとっては何よりの宝物だ。
だからこそすみちゃんが誕生日を覚えていなかったことが悲しかった。出会ったときのことを一緒に忘れられてしまったような気持ちになったのだ。
誕生日の今日を迎えて、どうしても家に一人でいるのが辛くなって房子さんと市子さんの家に押し掛けたのである。
そのとき市子さんの携帯が震えた。市子さんは画面を見て一瞬顔をしかめてから電話に出る。
「もしもし?」
市子さんは立ち上がって部屋を移動した。
「せっかくのお休みに押しかけてすみませんでした。もう大丈夫です」
「よかったら一緒に夕食でも食べない? ささやかだけどお祝いをさせて」
房子さんがやわらかな口調で言う。
「いえ、今日はもう帰ります。明日の仕事の準備もありますし」
「そう? 先生も大変ね。授業の準備とか?」
「そうですね。用意されている教材もあるんですけど、少しでもわかりやすく教えられるように……」
私がそこまで言ったとき、房子さんが「ちょっと待って」とつぶやく。
「あれ?」
そうして何度も首をひねった。何事だろうと房子さんを眺めていると、隣の部屋から電話を終えた市子さんが戻ってきた。
「本当に馬鹿なんだからっ」
市子さんは呆れた顔を隠そうともせずにつぶやくと私を見る。
「樹梨さん、もしかして電話切ってる?」
そう言われて今朝電話の電源を落としたままだったことを思い出した。友人たちから誕生祝のメッセージが届くのはうれしかったが、同時にすみちゃんに忘れられていることが余計に悲しくなって電源を切ってしまったのだ。
「もしかして今の電話……」
「先輩から」
市子さんは深いため息をつく。
「先輩、樹梨さんの誕生日を忘れたわけじゃなかったみたいですよ。ただ、今日がまだ七月三日くらいだと思ってたみたいです」
「へ?」
「なんだか仕事が立て込んでて、曜日感覚も日付感覚もなくなってたとかなんとか言ってました。喜太郎くんと仕事の話をしているときに七月七日だったことに気付いたんですって」
市子の言葉が理解できなかった。そんなことがあるのだろうか。
教師をしていると否応なく日付や曜日を意識させられるから、日付を忘れたことなんてない。
だけどすみちゃんの仕事は決まった休日もない。そう考えれば、すみちゃんが日付や曜日を忘れることもあり得るんじゃないかと言う気持ちになってきた。
「それでどうして市子さんに電話が?」
「樹梨さんに謝ろうと思って電話したけどつながらないから行き先を知らないかって」
「それで……?」
「家に来てるって伝えましたよ。でもまだ仕事が終わってないみたいだから、さっさと終わらせろって怒鳴っておきました」
「はぁ」
「なにがなんでも終わらせて、絶対に今日中に樹梨さんの家に行くから待ってて、ですって」
なんだか体の力が抜けていく気がした。
「やっぱりそうよね」
房子さんが笑顔で言う。
「どうしたの、房子?」
「さっき思い出したんだけど、一カ月以上前のことなんだけど、すみ枝さんが家に来たことを思い出したの」
「何それ、私知らない」
「市子が会社に行ってたときだから」
「いくら先輩でも私がいないときにホイホイ家に上げないでよ」
「でも来ちゃったものは追い返せないでしょう?」
「先輩なんて追い返せばいいのよ」
なんだか房子と市子が痴話喧嘩をはじめてしまいそうだったので私は慌てて口を挟む。
「えっと、すみちゃんはどうしてこちらに来たんですか?」
そこで我に返ったように房子は私の方に向き直る。
「なんだか悩み事があるみたいでね。ずーっと難しい顔で唸ってるから何があったのか聞いてみたの。そうしたら樹梨さんの誕生日に何を贈ろうかって悩んでて」
そうして房子さんはケラケラと笑った。
「そんなに悩むこと?」
市子さんはあきれ顔だ。
「あの子が言うには、一番自信がある絵は去年プレゼントしたし、もうプロポーズもしちゃったし、指輪もプレゼントしたから、これ以上どうやってサプライズのプレゼントを用意すればいいんだろうって」
房子さんの言葉を聞いて、私は日付を勘違いしていて誕生日を忘れられたことが一番のサプライズじゃないかな、なんて思ってしまう。
「房子、それでなんて言ったの? 先輩、プロポーズのときのサプライズで大失敗してるでしょう?」
「本当に。だからサプライズなんていらないからって言っておいたんだけど……」
房子さんの言葉に私はちょっとホッとする。すみちゃんは悪意なくちょっとだけズレている。だから諸手を挙げて喜べないけど、怒ることもできず微妙な気持ちになってしまうのだ。それでも満悦なすみちゃんの顔を見るとうれしくなってしまうのだけれど。
「先輩はボケてますけど、樹梨さんの誕生日を忘れるほどボケてはいなかったみたいですよ」
市子さんが小さく笑みを浮かべて言う。
「本当にありがとうござました」
私はそう言って立ちあがった。
「もう少しゆっくりしていったら? どうせすみ枝さんもまだ仕事が終わらないだろうし」
「家に帰ってすみちゃんを待つことにします」
私は最後にもう一度二人にお礼を言って家路についた。
今日が終わるまであと九時間余り。すみちゃんは本当に間に合うだろうか。二、三日寝ないで仕事をしている様子だったから、家に来てもすぐに眠ってしまうかもしれない。
私は家に帰って鞄に着替えを詰め込んだ。そして仕事用のバッグを持って家を出た。
私の誕生日だからって、私が待っている必要なんてない。疲れているすみちゃんに無理をしほしいわけじゃない。
私はただ、すみちゃんと一緒に過ごせればそれで満足だ。
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