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Lastseason6-5:それから、これから(viewpoint満月)最終話
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いつもの居酒屋の入り口をくぐるとすぐに、私は目的の人物を見つけた。
大学時代からの友人である立花雅は、ホッケの開きをつまみにして冷酒をチビチビ飲んでいる。
大学の頃から私の前でお酒を飲まなかった雅は、一年程前から当然のように居酒屋でお酒を飲むようになった。そして、ハマっている食べ物をひたすら食べ続けることはなくなったが、ホッケはかなり好きなようで、居酒屋に来ると必ずオーダーしている。
「ねぇ、聞いてよ! マジやばいんだって!」
私は雅の向かいに座ると前置きもなく、ずっと喉の奥に抑えおこんでいた言葉を吐き出した。
雅はホッケの身をほぐす手を止めることなく、チラッと私の顔を見ると「はいはい。ヤバイね。大変、大変」と、まったく興味のなさそうなあいづちをした。
そんな雅の塩対応は大学時代からずっと変わらないから私も慣れっこなのだけど、もう少しだけ私の話に興味を示しても良いと思う。
「ちょっと、何がヤバいのかわかってるの? 適当な返事で誤魔化さないでよ」
「わかってる、わかってる」
雅は抑揚のない声で答えると、冷酒を飲んで目を細めた。
「絶対わかってない!」
「どうでもいいけど、注文したら?」
今日、はじめて私の顔をまっすぐに見た雅は、そう言うとチラリと左側に視線を移す。雅の視線につられてそちらの方向を見ると、テーブルから二歩ほど下がった場所に一人の女の子がたたずんでいた。
居酒屋の制服を着ているから店員さんであることはすぐにわかった。肩をすぼめて俯きがちに私たちの様子をオドオドと見つめている。
腰元に付けた名札にはくねくねとした文字で『めいちゃん』と書かれており、若葉マークのシールが貼ってあった。どうやら新人アルバイトのようだ。
お店に入ってすぐに私が雅に絡んでいたものだかから、注文を取りに来たけれど声を掛けられなかったのだろう。なんだか申し訳ないことをしてしまった。
私も雅も、この店の常連だから、こうしたやりとりもいつものことで店員さんたちも慣れっこのはずだ。それに、今まではベテランアルバイターの輝美ちゃんが「ちょっと、うるさい。静かにしなさいよ」なんて言いながら注文を取りに来てくれていたのだ。
だが輝美ちゃんはもうこの店にない。
この店に輝美ちゃんがいなくなってからそれなりの時間が経つけれど、未だにそれを忘れてしまう。
「えっと、注文だよね。ごめんなさい。モスコー・ミュールを……」
私が言うと、めいちゃんは「は、はい。モスコー・ミュールですね」とか細い声で繰り返し、小さく頭を下げると逃げるようにして厨房の方へと去って行った。
「若い子を怖がらせてどうするのよ」
「怖がらせるつもりなんてなかったもん!」
「めいちゃん、かわいそうに。トラウマにならなきゃ良いけど」
「うぅ……」
何がうれしいのか雅はニヤリと笑った。
そうしてあっという間にオーダーしたモスコー・ミュールが運ばれてきたのだけど、運んできたのはめいちゃんではなく、時々見かける別のアルバイトの子だったから本格的に怖がられてしまったのかもしれない。
ため息交じりにモスコー・ミュールを飲むと、雅がさらにニヤリと笑った。
「元はと言えば、雅が真剣に話を聞いてくれないからでしょう」
「責任転嫁」
「違うよ。適当なあいづちばっかりするから、つい声が大きくなっちゃったんじゃない」
「まぁ、適当なのは認めるけれど、真剣に聞かなくても満月の話なんてわかるもの」
「超能力者なの?」
「本格的にバカなの? 新入社員の溝内(みぞうち)さんのことでしょう?」
「本当に、超能力者なんじゃないの?」
驚きと敬意を込めて言った私の言葉に、雅は左手で自分のおでこをさすると深いため息をついた。
「四月に溝内さんが入社してから、何回その愚痴を聞かされてると思ってるのよ。もう聞き飽きたわ」
確かに、溝内さんの愚痴を漏らそうと思ったのは今日がはじめてではない。これまでも幾度か……、いやかなり雅に愚痴を漏らしていると思うが、聞き飽きるという程ではない……と、思う。
「で、でもさ、今日の『ヤバい』は溝内さんのこととは限らないでしょう。砂川さんのことかもしれないし、用賀さんのことかもしれないし」
「あぁ、そうね。矢沢陽のことかもしれないしね」
「矢沢さんがヤバいことなんて一個もないよ。いや、あるな……かわいすぎるのがヤバい……」
矢沢さんのかわいらしさを思い浮かべながら、私は右手を挙げて店員さんを呼ぶ。ほとんど一気に飲み干してしまったモスコー・ミュールのおかわりと、日替わりのおつまみセット(中)を注文した。やっぱりめいちゃんは私たちのテーブルに来てくれないようだ。
これからも度々この店で顔を合わせることになるだろうし、めいちゃんもそのうち私に慣れてくれるだろう。
一年半ほど前、私が今の会社に入社してはじめて矢沢さんと会ったときは、何を考えているのかわからなくて、あまつさえ日々繰り返されるイタズラの犯人だと思っていたくらいだ。
矢沢さんと輝美ちゃんと三人で迎えた大晦日から季節が流れて夏になった今は、ますます矢沢さんのことを好きだなと感じている。
きっとそれは輝美ちゃんも同じだろう。
輝美ちゃんは大学を卒業してこの居酒屋でのアルバイトを辞めた。だけど就職先がこの居酒屋の運営会社だから、てっきりこの店で働き続けるものだと思っていた。
それは輝美ちゃん自身もそうだったらしく、配属先が違う店舗だと知ったときには「辞める。もう辞める」と言い出したものだ。
結局、会社を辞めることはなく、今は「成果を上げて、あっという間にこの店の店長として返り咲いてやる」と闘志を燃やしている。そして「陽さん好みの陽さんのための居酒屋にしてみせます!」と宣言していた。
働く環境は変わったけれど、輝美ちゃんのバイタリティは相変わらずだ。
私はといえば三月で陽さんからの指導を卒業して、四月から新入社員の溝内さんの指導担当になった。
私に指導担当なんて無理だと用賀さんに訴えたのだけど聞き入れてもらうことができなかった。そうして数ヶ月、本当に私には荷が重すぎると感じている。
矢沢さんは悩める私の相談に乗ってくれるけれど、溝内さんに手を焼いている時間が長すぎて、矢沢さんとの接触機会が激減しているのが今の悩みだ。
「それで溝内さん、今度は何をやらかしたの?」
雅は諦めたように小さく息をついてから、溝内さんの話題に水を向けてくれた。
なんだかんだ言いながら雅はやさしい。これはツンデレみたいなものだろうか。でもそれを雅に言ったら、絶対い話を聞いてくれないだろうからグッと堪えて、『今日の溝内さん』をの説明をすることにした。
「ちょっとミスがあったからそのことを説明したんだけど……。なぜか私に向かって『わかった。お母さん』って言ったんだよ!」
雅はブッと吹き出しかけて口元を抑えた。
「かわいいじゃない」
「かわいい。かわいいといえば、かわいい。だけどそう言われた私はどうすればいいの?」
「ツッコめばいいんじゃない?」
「下手にツッコんで泣かれたらどうするのよ!」
そう、溝内さんには『泣く』という最終兵器がある。正直、私はそれがとても苦手なのだ。
「結局、満月はどうしたのよ」
「スルーしたよ……。なんか、溝内さん自身も『お母さん』って言ったことに気付いてないみたいだったし」
「だったらそれでいいじゃない」
「よくない! また同じことがあったらどうするのさ」
「もう、お母さんって呼んでもらえばいいんじゃない?」
「嫌だよ!」
まぁ『お母さん』呼びくらいはいいのだ。雅の言った通り、かわいいで片付けることもできなくはない。
溝内さんは高卒で入社して、最近十九歳になったばかりだ。さすがに私はお母さんというほどの年齢差ではないけれど、それなりに年下であることは確かだ。
指導担当なんて無理だと思った反面、用賀さんから溝内さんの年齢を聞いたとき、この年齢差があれば大丈夫かも……なんて思いもあった。そしてそれは甘すぎる程甘い考えだったのだ。
溝内さんは、基本的には真面目ないい子なのだと思う。だけど、天然というか、マイペースというか、つかみ所がないというか、どう対処していいのか、四ヶ月ほどが経った今も、私にはさっぱりわからないのだ。
溝内さんが入社してすぐの頃、ある書類作成を頼んだ。一通りのことを教えて「わからないところがあったら質問してね」と伝えておいた。
私が伝えた通り、溝内さんはわからないところがあると、その都度質問をしてくれた。さすがに頻度が多くて、質問しろと言ったけれども「少しは自分で考えようよ!」と、ついつい思ってしまうくらいだった。
それでもわからないことを放置するより良いだろうと、グッと堪えてしばらくすると、質問攻撃もなくなり、ようやく落ち着いて仕事ができるとホッとしたのだ。
だが、かなりの時間が経ってもウンともスンとも言わなくなった。
心配になって仕事の進み具合を尋ねたら、溝内さんは当然のように「終わりました」と答えて、私は膝から崩れ落ちるかと思った。
なんとか冷静になって話を聞いてみたところ、作業は一時間ほど前に終了していたらしい。そして、作業が終わってからずっと書類を見直していたようだ。
まぁ、そこまでは良い。私を怯えさせたのはその後だ。
作業が終わったら報告してね、とやさしく伝えたつもりなのに、溝内さんは途端に暗い表情になって「知りませんでした」「言われてなかったし……」「すみません」「私、ダメですね……」みたいなことを半泣きで繰り返したのだ。
私にはもうお手上げだった。
そのときには、次から気をつけてくれれば良いから気にしないでと言ってなんとか収めたけれど、溝内さんはその頃からほとんど変わっていない。
というか、恐くて何をどう伝えれば良いのか、私自身がわからなくなってしまったのだ。
ちなみに溝内さんが一時間近く見直しをした書類には、山ほど誤字があり、私はそれの訂正で残業をすることになった。
そうかと思えば、作業の途中であっても定時でそそくさと帰っていくこともある。
これは溝内さんが仕事を放り出すタイプの人だからではない。
彼女は言われたことは、できるだけ忠実にやろうとするけれど、言われていないことに思いを馳せることができないのだ。
作業の途中であっても定時で帰ってしまうのは「定時までに作業が終わらなかったら、残業になるけれど、完成させるまでがんばってね」と伝えておかなかった私が悪い……らしい。
私自身、頭が良いわけでも要領が良いわけでもない。だから私は、十の作業をするには十伝えられなければいけないタイプだと思う。
雅は、三伝えれば十できるタイプだろう。
日和さんは、五伝えれば十二できちゃうタイプだと思う。
そして溝内さんは、十五伝えてやっと十できるタイプなのだ。
そのことを理解したから、できるだけ細やかに指示を出すよう心がけているけれど、指示を出す労力が大きすぎて私の精神力はガリガリと削られている。
しかも少し注意をすると大げさなほど凹んでしまうから、まともに注意することもできないままだ。
このままでは溝内さんが成長できないと思うのだけど、どうすればいいのかサッパリわからない。
だから、雅にちょっと愚痴を漏らすくらいのことは許されると思う。
塩対応だけど、最終的にはちゃんと愚痴を聞いてくれる雅には感謝しているが、やっぱりもう少しやさしい対応をしてくれてもいいんじゃないだろうか。
そんなことを思いながらモスコー・ミュールを飲んでいると、テーブルに置いていた雅のスマホがブルッと震えた。
スマホを手に取り画面を見た雅の口角が少し上がって、目尻が少し下がった。
ニヤニヤ……というよりは、デレデレといった雅の表情に、メッセージの相手が日和さんだと気付く。
雅がこんな表情を見せるようになるなんて想像もできなかった。少なくとも、日和さんと一緒に住むようになるまで、雅のこんな表情を見たことはない。
雅のデレデレ顔を眺めていると、うれしいような少し寂しいような複雑な気持ちになる。
「さて、私はそろそろ行くから」
スマホを鞄にしまって雅が言う。
「あぁ、うん」
「じゃぁ、明日」
「うん。日和さんと一緒に行くんでしょ?」
「もちろん」
それだけ言って雅はそそくさと店を後にした。
結局ほとんど愚痴を聞いてもらえなかった気がするけれど、それでもかなり気分が軽くなった気がする。
明日は大切な日だから、イライラした気持ちを持ち越したくなかったのだ。
モスコー・ミュールを飲みながら、私はそっと雅に感謝した。
*****
もうすっかり日は沈んだけれど、日中にたまった太陽のエネルギーはまだ地上に留まって、肌にねっとりと絡みついてくる。
「光恵さん、きれいでしたね。用賀さんも素敵だった」
矢沢さんが少し頬を紅潮させて笑みを浮かべながら言った。うれしとき、悲しいとき、怒ったとき、以前よりもずっと表情が浮かぶようになった。
「別に、あの二人はどうでもいいけど、まぁ、なかなかイケてましたね。でも、陽さんが一番かわいかったですよ」
輝美ちゃんの言葉に私は激しく同意する。ドレスアップした矢沢さんは、普段の五割増しくらいかわいい。普段が「すごくかわいい」だとしたら、今日は「激烈にかわい過ぎる」くらいだと思う。
多分、これを口に出したら、矢沢さんは引きつった笑みを浮かべ、輝美ちゃんは握手を求めて来るはずだ。それを読み切って、言葉をグッと堪えられるくらいに私は成長した。
今日は、草吹さんと用賀さんの結婚式だった。結婚式と言っても、草吹さんが経営している『カフェ&フラワー・クローゼット』で立食パーティーをしたくらいのものだ。
あの二人は、神様の前で永遠の愛を誓うのではなく、二人を祝福する仲間にこれからの夢を語ることにしたのだ。
昨日の夜から式の準備をしていて、矢沢さんも日和さんもその手伝いに行っていた。
私は、溝内さんの後処理で残業続きだったことで矢沢さんから手伝いに来なくていいと言い渡された。そして日和さんから「来ても邪魔だから、雅の遊び相手をしてあげて」と言われたのだ。
そこで私は、二人の気づかいに甘えて、昨日は雅と軽く飲んだ。
例の如く、溝内さん案件の残業で、居酒屋に行くのが遅くなったからあまり話をする時間もなかったけれど、おかげで今日は、晴れ晴れとした気持ちで草吹さんと用賀さんを祝うことができた。
昼過ぎからはじまったのんびりとした結婚パーティーは、日が暮れた頃に終了して、私と矢沢さんと輝美ちゃんは並んで歩いて帰路についている。
草吹さんと用賀さんが、誓いの言葉の代わりに語った夢は、顔にいっぱいシワができるまで、笑ったり喧嘩をしたりしながらずっと二人で歩んでいきたい、という内容だった。
「これからどうしますか? まだ早いし……何か食べに行きますか?」
私が二人に尋ねると、すぐに矢沢さんが答えた。
「それならウチに来ますか?」
「いいですね! 最近ゆっくり話す時間もなかったし、陽さんのお家に行きたいです!」
輝美ちゃんが元気よく賛同する。
「はい。何もないから、途中で何か買って帰りましょう」
陽さんの言葉に頷いて、私たちは並んで歩みを進めた。
実際に、三人でこうして会うのは久しぶりだ。
私は溝内さんにかかりきりだし、輝美ちゃんは新しいお店で仕事をしていて休日も合わない。陽さんは来年か再来年に昇格試験を受けると決めて勉強をはじめた。
私は横を歩く矢沢さんと輝美ちゃんを見る。久しぶりだからなのか、草吹さんたちの結婚式の後だからか、二人の横顔がなんだかいつもと違うように見えた。
心の奥が少しザワザワするような、ソワソワするような落ち着かない気持ちになる。
「好きな人とずっと一緒にいられることが……やっぱり幸せなんですよね」
矢沢さんがぽつりと言った。
「それはそうですよ!」
輝美ちゃんがにこやかに言う。
「特別に好きな人と、そうして一緒にいることが自然なことなのかな……」
そうして矢沢さんは先ほどまでの笑みを消して足元に視線を移した。
「私は、陽さんのことを特別に好きだから、こうして一緒にいられて幸せですよ」
そんな輝美ちゃんの言葉に、矢沢さんはさらに背中を丸めた。小さな体がさらに小さく頼りなく見える。
「私は……野崎さんも輝美ちゃんも好きだけど……やっぱり草吹さんたちの好きとは違うと思います。半年以上経っても、こうして仲良くしてもらっていても、全然変わらなくて……。これは不自然なことですよね……」
輝美ちゃんはギョッとしたように目を丸めると、私の方を見てクイッとアゴをしゃくった。
ここで私にバトンを回されても何を言えばいいのかわからない。
「えっと、あの……。自然とか不自然とかわからないですけど、私たちがそれでいいと思えば、それでいいと思います。誰かと比べるものでもない……はずです」
私は必死で言葉を紡ぎ出す。
「だけど、一年先も、五年先も、今のまま変わらないかもしれませんよ。そうしたら二人は……」
矢沢さんは、幸せそうな草吹さんたち見て焦りや不安を感じているのかもしれない。それは私の中にもある。このままの関係がこれから先も続けられる保証はないのだ。
「えっと……でも……。変わることも大事だけど、変わらないことも大事で……。草吹さんたちは、これからも変わらずにいることを誓ったけれど、それは変わらないために変わろうとしていることでもあって……」
私の必死な言葉を遮ったのは輝美ちゃんの笑い声だった。しかも爆笑だ。
「頭良くないのに良いこと言おうとするから何言ってるかまったくわからないよっ!」
そう言ってケラケラと笑う。
その笑い声を聞いているとなんだか私まで面白くなってきて、ついついつられて笑ってしまった。
すると矢沢さんの笑い声もそこに重なる。
「とりあえず、一年後のことなんて誰にもわからないんですから、今考えてもしょうがなくないです?」
笑いが収まった輝美ちゃんは笑顔のままで言った。
「それはそうですけど……」
答えた矢沢さんの表情が少し明るくなっていた。
「わからない未来のことを考えて悩むのは時間の無駄ですよ。とりあえず、今の私は、こうして陽さんと、ついでに満月と一緒にいられるのが楽しいからそれでいいです」
「私も、二人と一緒に過ごせるのが楽しいです」
矢沢さんの声に続いて「私も!」と手を上げて賛同した。
「だったらそれでいいじゃないですか。考えなきゃいけないときが来たら、そのときに考えましょう。起こりもしないことに不安を抱いて、今の幸せを放棄するなんてもったいないです!」
なんだかんだで輝美ちゃんは良いところを持っていく。だけど輝美ちゃんの言うとおりだと思う。
「賛成!」
私が言うと、矢沢さんもコクリと頷いた。
「不安があるなら、できるだけ良い未来に近づくために、今を頑張るしかないもんね」
そうして口にした自分の言葉に、胸の奥にあったモヤモヤとした何かがスッと引いていくのを感じた。
「そうそう。そして今、一番考えるべきなのは、これから何を買って帰るかですよ! なんかお腹空いちゃったのでガッツリ目に食べたい気分」
そう言って輝美ちゃんは矢沢さんの手を取った。
「パーティーで結構食べてなかった? もうお腹減ったの?」
私は輝美ちゃんに言いながら矢沢さんの手を取った。
三人で手をつないで歩く。端から見たら奇妙に見えるかもしれないけれど、今はこれでいい。
「あ、鍋にしましょう!」
輝美ちゃんが名案とばかりに矢沢さんを見て言った。
「鍋は……暑くないです?」
戸惑いを隠さずに言う矢沢さんがかわいい。
「暑いし、ガッツリ過ぎでしょう」
私が言うと、輝美ちゃんがニヤリと笑った。
「実は、今の店で私が考案した『冷やし鍋』ってのがあるんです。どうです?」
どうやら、それを自慢したかっただけのようだ。
「冷たい鍋って……どんな感じなの?」
「それは食べてのお楽しみ」
そうしていたずらっ子のように笑う輝美ちゃんもかわいい。
二人の横顔を見て改めて思う。
私は二人のことが大好きだ。
大学時代からの友人である立花雅は、ホッケの開きをつまみにして冷酒をチビチビ飲んでいる。
大学の頃から私の前でお酒を飲まなかった雅は、一年程前から当然のように居酒屋でお酒を飲むようになった。そして、ハマっている食べ物をひたすら食べ続けることはなくなったが、ホッケはかなり好きなようで、居酒屋に来ると必ずオーダーしている。
「ねぇ、聞いてよ! マジやばいんだって!」
私は雅の向かいに座ると前置きもなく、ずっと喉の奥に抑えおこんでいた言葉を吐き出した。
雅はホッケの身をほぐす手を止めることなく、チラッと私の顔を見ると「はいはい。ヤバイね。大変、大変」と、まったく興味のなさそうなあいづちをした。
そんな雅の塩対応は大学時代からずっと変わらないから私も慣れっこなのだけど、もう少しだけ私の話に興味を示しても良いと思う。
「ちょっと、何がヤバいのかわかってるの? 適当な返事で誤魔化さないでよ」
「わかってる、わかってる」
雅は抑揚のない声で答えると、冷酒を飲んで目を細めた。
「絶対わかってない!」
「どうでもいいけど、注文したら?」
今日、はじめて私の顔をまっすぐに見た雅は、そう言うとチラリと左側に視線を移す。雅の視線につられてそちらの方向を見ると、テーブルから二歩ほど下がった場所に一人の女の子がたたずんでいた。
居酒屋の制服を着ているから店員さんであることはすぐにわかった。肩をすぼめて俯きがちに私たちの様子をオドオドと見つめている。
腰元に付けた名札にはくねくねとした文字で『めいちゃん』と書かれており、若葉マークのシールが貼ってあった。どうやら新人アルバイトのようだ。
お店に入ってすぐに私が雅に絡んでいたものだかから、注文を取りに来たけれど声を掛けられなかったのだろう。なんだか申し訳ないことをしてしまった。
私も雅も、この店の常連だから、こうしたやりとりもいつものことで店員さんたちも慣れっこのはずだ。それに、今まではベテランアルバイターの輝美ちゃんが「ちょっと、うるさい。静かにしなさいよ」なんて言いながら注文を取りに来てくれていたのだ。
だが輝美ちゃんはもうこの店にない。
この店に輝美ちゃんがいなくなってからそれなりの時間が経つけれど、未だにそれを忘れてしまう。
「えっと、注文だよね。ごめんなさい。モスコー・ミュールを……」
私が言うと、めいちゃんは「は、はい。モスコー・ミュールですね」とか細い声で繰り返し、小さく頭を下げると逃げるようにして厨房の方へと去って行った。
「若い子を怖がらせてどうするのよ」
「怖がらせるつもりなんてなかったもん!」
「めいちゃん、かわいそうに。トラウマにならなきゃ良いけど」
「うぅ……」
何がうれしいのか雅はニヤリと笑った。
そうしてあっという間にオーダーしたモスコー・ミュールが運ばれてきたのだけど、運んできたのはめいちゃんではなく、時々見かける別のアルバイトの子だったから本格的に怖がられてしまったのかもしれない。
ため息交じりにモスコー・ミュールを飲むと、雅がさらにニヤリと笑った。
「元はと言えば、雅が真剣に話を聞いてくれないからでしょう」
「責任転嫁」
「違うよ。適当なあいづちばっかりするから、つい声が大きくなっちゃったんじゃない」
「まぁ、適当なのは認めるけれど、真剣に聞かなくても満月の話なんてわかるもの」
「超能力者なの?」
「本格的にバカなの? 新入社員の溝内(みぞうち)さんのことでしょう?」
「本当に、超能力者なんじゃないの?」
驚きと敬意を込めて言った私の言葉に、雅は左手で自分のおでこをさすると深いため息をついた。
「四月に溝内さんが入社してから、何回その愚痴を聞かされてると思ってるのよ。もう聞き飽きたわ」
確かに、溝内さんの愚痴を漏らそうと思ったのは今日がはじめてではない。これまでも幾度か……、いやかなり雅に愚痴を漏らしていると思うが、聞き飽きるという程ではない……と、思う。
「で、でもさ、今日の『ヤバい』は溝内さんのこととは限らないでしょう。砂川さんのことかもしれないし、用賀さんのことかもしれないし」
「あぁ、そうね。矢沢陽のことかもしれないしね」
「矢沢さんがヤバいことなんて一個もないよ。いや、あるな……かわいすぎるのがヤバい……」
矢沢さんのかわいらしさを思い浮かべながら、私は右手を挙げて店員さんを呼ぶ。ほとんど一気に飲み干してしまったモスコー・ミュールのおかわりと、日替わりのおつまみセット(中)を注文した。やっぱりめいちゃんは私たちのテーブルに来てくれないようだ。
これからも度々この店で顔を合わせることになるだろうし、めいちゃんもそのうち私に慣れてくれるだろう。
一年半ほど前、私が今の会社に入社してはじめて矢沢さんと会ったときは、何を考えているのかわからなくて、あまつさえ日々繰り返されるイタズラの犯人だと思っていたくらいだ。
矢沢さんと輝美ちゃんと三人で迎えた大晦日から季節が流れて夏になった今は、ますます矢沢さんのことを好きだなと感じている。
きっとそれは輝美ちゃんも同じだろう。
輝美ちゃんは大学を卒業してこの居酒屋でのアルバイトを辞めた。だけど就職先がこの居酒屋の運営会社だから、てっきりこの店で働き続けるものだと思っていた。
それは輝美ちゃん自身もそうだったらしく、配属先が違う店舗だと知ったときには「辞める。もう辞める」と言い出したものだ。
結局、会社を辞めることはなく、今は「成果を上げて、あっという間にこの店の店長として返り咲いてやる」と闘志を燃やしている。そして「陽さん好みの陽さんのための居酒屋にしてみせます!」と宣言していた。
働く環境は変わったけれど、輝美ちゃんのバイタリティは相変わらずだ。
私はといえば三月で陽さんからの指導を卒業して、四月から新入社員の溝内さんの指導担当になった。
私に指導担当なんて無理だと用賀さんに訴えたのだけど聞き入れてもらうことができなかった。そうして数ヶ月、本当に私には荷が重すぎると感じている。
矢沢さんは悩める私の相談に乗ってくれるけれど、溝内さんに手を焼いている時間が長すぎて、矢沢さんとの接触機会が激減しているのが今の悩みだ。
「それで溝内さん、今度は何をやらかしたの?」
雅は諦めたように小さく息をついてから、溝内さんの話題に水を向けてくれた。
なんだかんだ言いながら雅はやさしい。これはツンデレみたいなものだろうか。でもそれを雅に言ったら、絶対い話を聞いてくれないだろうからグッと堪えて、『今日の溝内さん』をの説明をすることにした。
「ちょっとミスがあったからそのことを説明したんだけど……。なぜか私に向かって『わかった。お母さん』って言ったんだよ!」
雅はブッと吹き出しかけて口元を抑えた。
「かわいいじゃない」
「かわいい。かわいいといえば、かわいい。だけどそう言われた私はどうすればいいの?」
「ツッコめばいいんじゃない?」
「下手にツッコんで泣かれたらどうするのよ!」
そう、溝内さんには『泣く』という最終兵器がある。正直、私はそれがとても苦手なのだ。
「結局、満月はどうしたのよ」
「スルーしたよ……。なんか、溝内さん自身も『お母さん』って言ったことに気付いてないみたいだったし」
「だったらそれでいいじゃない」
「よくない! また同じことがあったらどうするのさ」
「もう、お母さんって呼んでもらえばいいんじゃない?」
「嫌だよ!」
まぁ『お母さん』呼びくらいはいいのだ。雅の言った通り、かわいいで片付けることもできなくはない。
溝内さんは高卒で入社して、最近十九歳になったばかりだ。さすがに私はお母さんというほどの年齢差ではないけれど、それなりに年下であることは確かだ。
指導担当なんて無理だと思った反面、用賀さんから溝内さんの年齢を聞いたとき、この年齢差があれば大丈夫かも……なんて思いもあった。そしてそれは甘すぎる程甘い考えだったのだ。
溝内さんは、基本的には真面目ないい子なのだと思う。だけど、天然というか、マイペースというか、つかみ所がないというか、どう対処していいのか、四ヶ月ほどが経った今も、私にはさっぱりわからないのだ。
溝内さんが入社してすぐの頃、ある書類作成を頼んだ。一通りのことを教えて「わからないところがあったら質問してね」と伝えておいた。
私が伝えた通り、溝内さんはわからないところがあると、その都度質問をしてくれた。さすがに頻度が多くて、質問しろと言ったけれども「少しは自分で考えようよ!」と、ついつい思ってしまうくらいだった。
それでもわからないことを放置するより良いだろうと、グッと堪えてしばらくすると、質問攻撃もなくなり、ようやく落ち着いて仕事ができるとホッとしたのだ。
だが、かなりの時間が経ってもウンともスンとも言わなくなった。
心配になって仕事の進み具合を尋ねたら、溝内さんは当然のように「終わりました」と答えて、私は膝から崩れ落ちるかと思った。
なんとか冷静になって話を聞いてみたところ、作業は一時間ほど前に終了していたらしい。そして、作業が終わってからずっと書類を見直していたようだ。
まぁ、そこまでは良い。私を怯えさせたのはその後だ。
作業が終わったら報告してね、とやさしく伝えたつもりなのに、溝内さんは途端に暗い表情になって「知りませんでした」「言われてなかったし……」「すみません」「私、ダメですね……」みたいなことを半泣きで繰り返したのだ。
私にはもうお手上げだった。
そのときには、次から気をつけてくれれば良いから気にしないでと言ってなんとか収めたけれど、溝内さんはその頃からほとんど変わっていない。
というか、恐くて何をどう伝えれば良いのか、私自身がわからなくなってしまったのだ。
ちなみに溝内さんが一時間近く見直しをした書類には、山ほど誤字があり、私はそれの訂正で残業をすることになった。
そうかと思えば、作業の途中であっても定時でそそくさと帰っていくこともある。
これは溝内さんが仕事を放り出すタイプの人だからではない。
彼女は言われたことは、できるだけ忠実にやろうとするけれど、言われていないことに思いを馳せることができないのだ。
作業の途中であっても定時で帰ってしまうのは「定時までに作業が終わらなかったら、残業になるけれど、完成させるまでがんばってね」と伝えておかなかった私が悪い……らしい。
私自身、頭が良いわけでも要領が良いわけでもない。だから私は、十の作業をするには十伝えられなければいけないタイプだと思う。
雅は、三伝えれば十できるタイプだろう。
日和さんは、五伝えれば十二できちゃうタイプだと思う。
そして溝内さんは、十五伝えてやっと十できるタイプなのだ。
そのことを理解したから、できるだけ細やかに指示を出すよう心がけているけれど、指示を出す労力が大きすぎて私の精神力はガリガリと削られている。
しかも少し注意をすると大げさなほど凹んでしまうから、まともに注意することもできないままだ。
このままでは溝内さんが成長できないと思うのだけど、どうすればいいのかサッパリわからない。
だから、雅にちょっと愚痴を漏らすくらいのことは許されると思う。
塩対応だけど、最終的にはちゃんと愚痴を聞いてくれる雅には感謝しているが、やっぱりもう少しやさしい対応をしてくれてもいいんじゃないだろうか。
そんなことを思いながらモスコー・ミュールを飲んでいると、テーブルに置いていた雅のスマホがブルッと震えた。
スマホを手に取り画面を見た雅の口角が少し上がって、目尻が少し下がった。
ニヤニヤ……というよりは、デレデレといった雅の表情に、メッセージの相手が日和さんだと気付く。
雅がこんな表情を見せるようになるなんて想像もできなかった。少なくとも、日和さんと一緒に住むようになるまで、雅のこんな表情を見たことはない。
雅のデレデレ顔を眺めていると、うれしいような少し寂しいような複雑な気持ちになる。
「さて、私はそろそろ行くから」
スマホを鞄にしまって雅が言う。
「あぁ、うん」
「じゃぁ、明日」
「うん。日和さんと一緒に行くんでしょ?」
「もちろん」
それだけ言って雅はそそくさと店を後にした。
結局ほとんど愚痴を聞いてもらえなかった気がするけれど、それでもかなり気分が軽くなった気がする。
明日は大切な日だから、イライラした気持ちを持ち越したくなかったのだ。
モスコー・ミュールを飲みながら、私はそっと雅に感謝した。
*****
もうすっかり日は沈んだけれど、日中にたまった太陽のエネルギーはまだ地上に留まって、肌にねっとりと絡みついてくる。
「光恵さん、きれいでしたね。用賀さんも素敵だった」
矢沢さんが少し頬を紅潮させて笑みを浮かべながら言った。うれしとき、悲しいとき、怒ったとき、以前よりもずっと表情が浮かぶようになった。
「別に、あの二人はどうでもいいけど、まぁ、なかなかイケてましたね。でも、陽さんが一番かわいかったですよ」
輝美ちゃんの言葉に私は激しく同意する。ドレスアップした矢沢さんは、普段の五割増しくらいかわいい。普段が「すごくかわいい」だとしたら、今日は「激烈にかわい過ぎる」くらいだと思う。
多分、これを口に出したら、矢沢さんは引きつった笑みを浮かべ、輝美ちゃんは握手を求めて来るはずだ。それを読み切って、言葉をグッと堪えられるくらいに私は成長した。
今日は、草吹さんと用賀さんの結婚式だった。結婚式と言っても、草吹さんが経営している『カフェ&フラワー・クローゼット』で立食パーティーをしたくらいのものだ。
あの二人は、神様の前で永遠の愛を誓うのではなく、二人を祝福する仲間にこれからの夢を語ることにしたのだ。
昨日の夜から式の準備をしていて、矢沢さんも日和さんもその手伝いに行っていた。
私は、溝内さんの後処理で残業続きだったことで矢沢さんから手伝いに来なくていいと言い渡された。そして日和さんから「来ても邪魔だから、雅の遊び相手をしてあげて」と言われたのだ。
そこで私は、二人の気づかいに甘えて、昨日は雅と軽く飲んだ。
例の如く、溝内さん案件の残業で、居酒屋に行くのが遅くなったからあまり話をする時間もなかったけれど、おかげで今日は、晴れ晴れとした気持ちで草吹さんと用賀さんを祝うことができた。
昼過ぎからはじまったのんびりとした結婚パーティーは、日が暮れた頃に終了して、私と矢沢さんと輝美ちゃんは並んで歩いて帰路についている。
草吹さんと用賀さんが、誓いの言葉の代わりに語った夢は、顔にいっぱいシワができるまで、笑ったり喧嘩をしたりしながらずっと二人で歩んでいきたい、という内容だった。
「これからどうしますか? まだ早いし……何か食べに行きますか?」
私が二人に尋ねると、すぐに矢沢さんが答えた。
「それならウチに来ますか?」
「いいですね! 最近ゆっくり話す時間もなかったし、陽さんのお家に行きたいです!」
輝美ちゃんが元気よく賛同する。
「はい。何もないから、途中で何か買って帰りましょう」
陽さんの言葉に頷いて、私たちは並んで歩みを進めた。
実際に、三人でこうして会うのは久しぶりだ。
私は溝内さんにかかりきりだし、輝美ちゃんは新しいお店で仕事をしていて休日も合わない。陽さんは来年か再来年に昇格試験を受けると決めて勉強をはじめた。
私は横を歩く矢沢さんと輝美ちゃんを見る。久しぶりだからなのか、草吹さんたちの結婚式の後だからか、二人の横顔がなんだかいつもと違うように見えた。
心の奥が少しザワザワするような、ソワソワするような落ち着かない気持ちになる。
「好きな人とずっと一緒にいられることが……やっぱり幸せなんですよね」
矢沢さんがぽつりと言った。
「それはそうですよ!」
輝美ちゃんがにこやかに言う。
「特別に好きな人と、そうして一緒にいることが自然なことなのかな……」
そうして矢沢さんは先ほどまでの笑みを消して足元に視線を移した。
「私は、陽さんのことを特別に好きだから、こうして一緒にいられて幸せですよ」
そんな輝美ちゃんの言葉に、矢沢さんはさらに背中を丸めた。小さな体がさらに小さく頼りなく見える。
「私は……野崎さんも輝美ちゃんも好きだけど……やっぱり草吹さんたちの好きとは違うと思います。半年以上経っても、こうして仲良くしてもらっていても、全然変わらなくて……。これは不自然なことですよね……」
輝美ちゃんはギョッとしたように目を丸めると、私の方を見てクイッとアゴをしゃくった。
ここで私にバトンを回されても何を言えばいいのかわからない。
「えっと、あの……。自然とか不自然とかわからないですけど、私たちがそれでいいと思えば、それでいいと思います。誰かと比べるものでもない……はずです」
私は必死で言葉を紡ぎ出す。
「だけど、一年先も、五年先も、今のまま変わらないかもしれませんよ。そうしたら二人は……」
矢沢さんは、幸せそうな草吹さんたち見て焦りや不安を感じているのかもしれない。それは私の中にもある。このままの関係がこれから先も続けられる保証はないのだ。
「えっと……でも……。変わることも大事だけど、変わらないことも大事で……。草吹さんたちは、これからも変わらずにいることを誓ったけれど、それは変わらないために変わろうとしていることでもあって……」
私の必死な言葉を遮ったのは輝美ちゃんの笑い声だった。しかも爆笑だ。
「頭良くないのに良いこと言おうとするから何言ってるかまったくわからないよっ!」
そう言ってケラケラと笑う。
その笑い声を聞いているとなんだか私まで面白くなってきて、ついついつられて笑ってしまった。
すると矢沢さんの笑い声もそこに重なる。
「とりあえず、一年後のことなんて誰にもわからないんですから、今考えてもしょうがなくないです?」
笑いが収まった輝美ちゃんは笑顔のままで言った。
「それはそうですけど……」
答えた矢沢さんの表情が少し明るくなっていた。
「わからない未来のことを考えて悩むのは時間の無駄ですよ。とりあえず、今の私は、こうして陽さんと、ついでに満月と一緒にいられるのが楽しいからそれでいいです」
「私も、二人と一緒に過ごせるのが楽しいです」
矢沢さんの声に続いて「私も!」と手を上げて賛同した。
「だったらそれでいいじゃないですか。考えなきゃいけないときが来たら、そのときに考えましょう。起こりもしないことに不安を抱いて、今の幸せを放棄するなんてもったいないです!」
なんだかんだで輝美ちゃんは良いところを持っていく。だけど輝美ちゃんの言うとおりだと思う。
「賛成!」
私が言うと、矢沢さんもコクリと頷いた。
「不安があるなら、できるだけ良い未来に近づくために、今を頑張るしかないもんね」
そうして口にした自分の言葉に、胸の奥にあったモヤモヤとした何かがスッと引いていくのを感じた。
「そうそう。そして今、一番考えるべきなのは、これから何を買って帰るかですよ! なんかお腹空いちゃったのでガッツリ目に食べたい気分」
そう言って輝美ちゃんは矢沢さんの手を取った。
「パーティーで結構食べてなかった? もうお腹減ったの?」
私は輝美ちゃんに言いながら矢沢さんの手を取った。
三人で手をつないで歩く。端から見たら奇妙に見えるかもしれないけれど、今はこれでいい。
「あ、鍋にしましょう!」
輝美ちゃんが名案とばかりに矢沢さんを見て言った。
「鍋は……暑くないです?」
戸惑いを隠さずに言う矢沢さんがかわいい。
「暑いし、ガッツリ過ぎでしょう」
私が言うと、輝美ちゃんがニヤリと笑った。
「実は、今の店で私が考案した『冷やし鍋』ってのがあるんです。どうです?」
どうやら、それを自慢したかっただけのようだ。
「冷たい鍋って……どんな感じなの?」
「それは食べてのお楽しみ」
そうしていたずらっ子のように笑う輝美ちゃんもかわいい。
二人の横顔を見て改めて思う。
私は二人のことが大好きだ。
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