エレンディア王国記

火燈スズ

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第3章

144.時の扉

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 集落の門、まだ火の匂いの残る白樺の下で、リアとヒナは身支度を整えた。肩のティグノーが鼻を上げ、細い尾を小さく打つ。

『白い風の匂いが混じる。時のつくもの、近い』

 そこへ、杖の音。長老が夜具の上に羽織を重ね、早足に来て、二人の前で止まった。目は覚めている。眠りと覚醒の間にいるはずの老人の瞳が、刃物のように冴えていた。

「王の子よ。ティーダが向かったのは、禁忌の地だ。――レオルの言伝えに、白風に遭えば、時の扉は近いとある」

 リアは頷く。胸の奥で、キースから託された『神器調査書』のページが重なった。季の縁で開く扉。二重の輪と十二の刻。古の鍵は、王の血に反応する。

「……ヒナ。ルテラを起こしてくれ。扉に触れる鍵は、古代エレニアの血に宿る。ルテラなら、扉の怒りを鎮められるかもしれない」

「承知しました」

 ヒナは影のように消え、ほどなくして、外套を羽織ったルテラを伴って戻ってきた。眠気の膜は、瞳の青に触れた風で吹き飛んでいる。事情は聞いているようだ。ルテラは何か決心するような表情だった。

「ティグノー、道を」

『案ずるな。風は覚えておる』

 三人と一匹は、集落を出た。鳴草の帯は、夜露で音をひそめている。白樺の幹は月の光を受けて白く立ち、枝先に小さな氷の粒が生まれかけていた。風が北から南へ流れている――はずが、次の一歩で、南から北へ変わる。さらに次の一歩で、風は四方へ散り、草の穂を逆に曲げた。

「……風向きが壊れてる」ヒナが袖で口を覆う。

『時が擦れておるのだ』ティグノーの声は低い。

『この先は、季の縁がむき出しになる。足裏で風の目を探れ』

 足跡は残りにくい。雪が降り始める。最初は淡い。次に、密度を増す。息が白く、すぐに風に千切られて消える。皮膚が噛まれるように冷たく、耳は風に殴られて痛い。視界が白へ潰れていくのに、地面の起伏だけは妙に鮮明だ。影が逆向きに延びる時がある。リアは歩幅を小さくし、足首より先で地面を探ってから乗せていった。

 やがて、白の中に黒い裂け目が生まれる。洞窟。縁は滑らかで不自然だ。息を吐くと、縁の霜がわずかに波打つ。二重の輪。十二の短い線。霜の刻印が、月光の代わりに白い息で照らし出される。

「時の扉……」ルテラが呟く。指先を伸ばしかけ、リアがその手をそっと支えた。

「――ルテラ、君がやるんだ。」

 ルテラは目を閉じ、薄く唇を噛んだ。胸の奥で、遠い石の匂いと、祭壇の冷たさがよみがえる。目を開き、霜の輪の外側に、指先を滑らせる。霜が小さく鳴り、輪の一部が――ほどけた。扉の膜が、呼吸を受け入れるように柔らかくなり、風が内から外へ、外から内へと、音をつけて行き来し始めた。

「行きます」

 三人は、膜を越えた。体温が指の先から逆流し、足元の感覚が一度宙へ浮いて戻る。風が消え、音が消え、外の白は、内の黒へと反転した。

 洞内は、寒いわけではないのに寒気がする。壁に霜花が咲き、しかし触ると湿りを持ち、手のひらに貼り付く瞬間に古い匂いがした。水滴が落ちる音が、遅れて聞こえる。遅れて――いや、音の輪が二重に広がり、一つは足元へ、もう一つは天井へ、逆さに上っていく。足元の霜に細い線が走り、それが読める気がした。読めるはずがないのに、“待て”と書かれているように見える。

 やがて、広間。天井は高く、壁は複層の輪を描き、中央は浅い盆地のように窪む。窪みの縁に、黒い影が二つ――倒れていた。

 近づく。リアは息を整え、視線を固めた。ヒナは先に出て、足元の霜目を指で示しながら、死角を消して進む。ルテラは祈りの形に指を組み、目を逸らさずに付いていく。

 一つは、銀翼の灰色のマント。背は薄く、肩は細い。フードは半ば外れ、頬が露出している。年若い顔。眠っているというより、眠る前の半秒で止まった表情。眼は閉じ、眉間は寄らず、唇はわずかに開いている。だが、頬の皮膚には、髪の毛よりも細い亀裂が幾本も走り、光の角度で消えたり現れたりする。指先は霜に触れていないのに凍傷のように色が抜け、爪は透明で、骨の色が薄く透ける。生き物の時間が、表面から少しずつ剥がされたように見えた。

 もう一つは、ティーダ。顔は歪んでいる。怒りでも恐怖でもない、理解の追いつかないものを見たときの顔だ。片半分の髪は白く、片半分は黒い。片方の頬には細かい霜花が咲き、もう片方には汗の跡が乾いている。片手は若く、片手は痩せた老人のようだ。胸の上に置かれた両拳は、強く握られたまま、指の関節が片方だけ黄色く、もう片方だけ青白い。

 ヒナが膝をつき、鼓動を確認する。首の動脈、手首、鎖骨の下。――ない。リアも耳を寄せ、鼻で息を探り、瞼に指先で触れて反射を見る。――ない。二人とも、とうに。

「……扉の怒り、か」リアの声は低い。

「鍵を持たずに、こじ開けようとした」

 ティグノーが肩で小さく身を震わせ、『時は気難しい。触れるには、謙りが要る。力ずくで開けば、時は牙を向く』と告げた。

 リアはアトラの顔を見下ろし、短く瞼を閉じた。カルネリスの夜、灰色の刃の感触。ケルナの広場、緑の風の剣。憎しみはある。だが、ここで必要なのは憎しみではない。

「……この場を荒らすな。彼らはここで、時に裁かれた。罪と罰の話ではない。――長老に知らせ、祠の作法で弔おう」

 ルテラが小さく頷き、胸の前で印を組む。ヒナは広間の縁を一周して、霜目の動きを観察した。彼女の勘に、さっきの違和感が結びつく。村での襲撃が捕縛されに来た芝居だったこと。時間稼ぎ。ここで鍵を探し、こじ開けるための。アトラは急いだ。ティーダは飢えていた。扉は、急ぎと飢えを嫌う。

「リア様」ヒナが洩らす。

「この扉は、私たちを見ている気がします」

「見ている。――だが、拒んではいない」

 リアはルテラの方へ向き直る。

「彼らの最期は学びだ。僕らは扉に触れるが、同じ轍は踏まない。……行けるか」

 ルテラは青い瞳をひたと扉の奥へ向け、静かに息を整えた。

「はい」

 広間の空気が、わずかに温度を変える。霜花が一輪、音もなくほどけ、次の輪の上に咲く。ティグノーが長い息を吐いた。

『――急くな。時は、待つものには笑む。待たぬものには、牙を見せる』

 三人は、白い輪の前に立った。背後では、吹雪の音が遠くなり、風の声が低くなる。洞窟の奥で、水滴の音が二重に重なり、ひとつは未来へ、ひとつは過去へ広がっていく。

 時の扉は、黙っていた。だが、黙ったまま、開く準備をしているように見えた。
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