148 / 197
第3章
145.蒼き番人
しおりを挟むルテラの指先が、霜の輪の外縁をやさしくなぞった。二重の輪が微かに鳴り、十二の小さな刻み目が順に明滅する。息を合わせるように光は脈を打ち、輪そのものが呼吸を始めたかのように膨らみ、しぼみ、そして――
光が、跳ねた。
白い息が一度に胸から抜け落ちたような感覚。足場が、重さの置き場所を失う。視界は白から蒼へ、蒼から琥珀へ、そして色の混じらない光そのものへ。
下一瞬で、世界は変わった。
そこは洞窟ではなかった。岩も土も、湿った空気もない。滑らかすぎる壁面は石でも金属でもなく、磨かれた氷のように冷たいのに、触れると手のひらに薄いぬくもりが移る。壁の内側には光の糸が縦横に走り、蜘蛛の巣のようでありながら幾何の図のようにも見えた。糸は時折、かすかな音階で鳴る。高く、低く、まるで見えない大きな歯車が遠くで回り、空気そのものが歌っているかのようだ。足元には石がない。だが、踏めばたしかに硬い“何か”がそこにあり、歩むたびに靴底の下に光の波紋が広がる。
「……ここは……」ルテラが小さく息を呑む。
『時の扉の内側、であろう。古の工が残した道だ。肩のティグノーが低くうなった。声はいつものように重いが、その重みが吸い込まれず、空間に薄く層になって漂う。
前方に、淡い光で形作られた廊が伸びていた。廊は真っ直ぐではない。一定の幅を保ちながら、見えない柱の間を幾重にも曲がり、時おり橋のように宙を渡る。廊の脇には底の知れない蒼がある。覗き込むと星のような点がゆっくり上下に動き、目を凝らすとそれは星ではなく、光の粒が織りなす文字のようにも見えた。
「リア様、進まれますか」ヒナが問う。両手剣は抜かない。刃はこの光の道ではよく滑りそうで、彼女は柄を握り直すたびに刃の角度を確かめている。
「行こう。」リアは肩の炎を静かに押さえるように息を整え、剣を半ば抜きにして光の廊へと足を踏み入れた。
最初の角を曲がったとき、空気が変わった。
湿った獣の匂い。鉄と土と、古い血の匂い。光の廊の中央に、影が凝り固まっている。凝りは膨らみ、角を生やし、息を吸う。息は白く、蒼ではない、土の気配を持つ白だ。影は形をつくり、二本の脚に重みをのせ、手には槌――いや、腕そのものが槌だ。額から突き出た角は群青に光り、刃のような縁で光そのものを削り取っている。
「蒼角獣グラウノス……!」ルテラが呻く。
「古い伝承書に出てくる、迷宮の番獣……!」
番獣は吼えた。吼え声は廊の壁に触れ、震え、反響が二重三重になって戻ってくる。反響が戻るたび、獣の筋肉が厚みを増した。リアは剣を完全に抜き、刃に薄く熱を通す。炎を呼べば、この廊が焼ける。熱だけで刃を乾かす程度に留める。
「ヒナ、右手へ回って視界を切って。ルテラは下半身を。――角は私が引き受ける」
「承知しました」
「了解いたしました!」
番獣が一歩踏み出す。地がないのに足音が響く。接地の感覚が、光の道に重さを刻みつける。次の瞬間、蒼角が斜めに振り下ろされた。リアはその直線から半歩外へずれ、刃の平で角の腹を撫でて軌道を流す。角は廊の縁に触れ、光の糸が千切れかけた。空間にひびが走る――見えないが、音で分かる。リアは胸の奥で炎を抑え、刃の重みを引いて、角の重さを“落とす”。蒼角が肩を下げる。その肩へ、ルテラの両手剣が風の音をまとって落ちた。刃は深くは入らないが、筋の束をいくつか断ち切り、膝が沈む。
ヒナが右から踏み込み、柄頭で番獣の顎を上げさせる。喉が露出する。だが、蒼角がもう一方の腕を槌のように振り、ヒナの胴へ圧をかけた。ヒナは両手剣の幅で圧力を分散させて受け、足首で地のない地を掴みながら滑らせる。顎が半分落ちた隙に、リアの剣先が喉の柔らかい部位をかすめる。熱が、そこだけ鋭く刺さる。番獣が吼え、後ずさった。ひと息。リアは踏み込まず、熱を押さえた。追いすぎれば、廊が裂ける。
一度目の一太刀。二度目の組み打ち。三度目の押し合い――そして四度目、番獣が角を左に振りながら右足を出す癖を掴んだところで、ヒナが腰を斜めに切り、ルテラが腿の腱を断ち、リアが喉の奥へ刃を“置いた”。熱がそこだけ鋭く白く燃え、番獣の影は崩れて光の粒となる。粒はふわりと浮かび、壁の糸に吸い込まれて消えた。
「……息が、重い」ルテラが胸に手を当てる。
「ここは、力の置き方を間違えると、自分が削れていく感覚がします」
『然り。ここは外の理の上に、もうひとつ薄い理がかぶさっておる。立つだけで少し、歩くたびに少し、支払っておるのだ』ティグノーの瞳が細くなる。
『急くな。削る前に、息で補え』
22
あなたにおすすめの小説
少し冷めた村人少年の冒険記
mizuno sei
ファンタジー
辺境の村に生まれた少年トーマ。実は日本でシステムエンジニアとして働き、過労死した三十前の男の生まれ変わりだった。
トーマの家は貧しい農家で、神から授かった能力も、村の人たちからは「はずれギフト」とさげすまれるわけの分からないものだった。
優しい家族のために、自分の食い扶持を減らそうと家を出る決心をしたトーマは、唯一無二の相棒、「心の声」である〈ナビ〉とともに、未知の世界へと旅立つのであった。
公爵家次男はちょっと変わりモノ? ~ここは乙女ゲームの世界だから、デブなら婚約破棄されると思っていました~
松原 透
ファンタジー
異世界に転生した俺は、婚約破棄をされるため誰も成し得なかったデブに進化する。
なぜそんな事になったのか……目が覚めると、ローバン公爵家次男のアレスという少年の姿に変わっていた。
生まれ変わったことで、異世界を満喫していた俺は冒険者に憧れる。訓練中に、魔獣に襲われていたミーアを助けることになったが……。
しかし俺は、失敗をしてしまう。責任を取らされる形で、ミーアを婚約者として迎え入れることになった。その婚約者に奇妙な違和感を感じていた。
二人である場所へと行ったことで、この異世界が乙女ゲームだったことを理解した。
婚約破棄されるためのデブとなり、陰ながらミーアを守るため奮闘する日々が始まる……はずだった。
カクヨム様 小説家になろう様でも掲載してます。
神様の忘れ物
mizuno sei
ファンタジー
仕事中に急死した三十二歳の独身OLが、前世の記憶を持ったまま異世界に転生した。
わりとお気楽で、ポジティブな主人公が、異世界で懸命に生きる中で巻き起こされる、笑いあり、涙あり(?)の珍騒動記。
酒好きおじさんの異世界酒造スローライフ
天野 恵
ファンタジー
酒井健一(51歳)は大の酒好きで、酒類マスターの称号を持ち世界各国を飛び回っていたほどの実力だった。
ある日、深酒して帰宅途中に事故に遭い、気がついたら異世界に転生していた。転移した際に一つの“スキル”を授かった。
そのスキルというのは【酒聖(しゅせい)】という名のスキル。
よくわからないスキルのせいで見捨てられてしまう。
そんな時、修道院シスターのアリアと出会う。
こうして、2人は異世界で仲間と出会い、お酒作りや飲み歩きスローライフが始まる。
ドラゴネット興隆記
椎井瑛弥
ファンタジー
ある世界、ある時代、ある国で、一人の若者が領地を取り上げられ、誰も人が住まない僻地に新しい領地を与えられた。その領地をいかに発展させるか。周囲を巻き込みつつ、周囲に巻き込まれつつ、それなりに領地を大きくしていく。
ざまぁっぽく見えて、意外とほのぼのです。『新米エルフとぶらり旅』と世界観は共通していますが、違う時代、違う場所でのお話です。
『婚約破棄された聖女リリアナの庭には、ちょっと変わった来訪者しか来ません。』
夢窓(ゆめまど)
恋愛
王都から少し離れた小高い丘の上。
そこには、聖女リリアナの庭と呼ばれる不思議な場所がある。
──けれど、誰もがたどり着けるわけではない。
恋するルミナ五歳、夢みるルーナ三歳。
ふたりはリリアナの庭で、今日もやさしい魔法を育てています。
この庭に来られるのは、心がちょっぴりさびしい人だけ。
まほうに傷ついた王子さま、眠ることでしか気持ちを伝えられない子、
そして──ほんとうは泣きたかった小さな精霊たち。
お姉ちゃんのルミナは、花を咲かせる明るい音楽のまほうつかい。
ちょっとだけ背伸びして、だいすきな人に恋をしています。
妹のルーナは、ねむねむ魔法で、夢の中を旅するやさしい子。
ときどき、だれかの心のなかで、静かに花を咲かせます。
ふたりのまほうは、まだ小さくて、でもあたたかい。
「だいすきって気持ちは、
きっと一番すてきなまほうなの──!」
風がふくたびに、花がひらき、恋がそっと実る。
これは、リリアナの庭で育つ、
小さなまほうつかいたちの恋と夢の物語です。
私の薬華異堂薬局は異世界につくるのだ
柚木 潤
ファンタジー
薬剤師の舞は、亡くなった祖父から託された鍵で秘密の扉を開けると、不思議な薬が書いてある古びた書物を見つけた。
そしてその扉の中に届いた異世界からの手紙に導かれその世界に転移すると、そこは人間だけでなく魔人、精霊、翼人などが存在する世界であった。
舞はその世界の魔人の王に見合う女性になる為に、異世界で勉強する事を決断する。
舞は薬師大学校に聴講生として入るのだが、のんびりと学生をしている状況にはならなかった。
以前も現れた黒い影の集合体や、舞を監視する存在が見え隠れし始めたのだ・・・
「薬華異堂薬局のお仕事は異世界にもあったのだ」の続編になります。
主人公「舞」は異世界に拠点を移し、薬師大学校での学生生活が始まります。
前作で起きた話の説明も間に挟みながら書いていく予定なので、前作を読んでいなくてもわかるようにしていこうと思います。
また、意外なその異世界の秘密や、新たな敵というべき存在も現れる予定なので、前作と合わせて読んでいただけると嬉しいです。
以前の登場人物についてもプロローグのに軽く記載しましたので、よかったら参考にしてください。
デブだからといって婚約破棄された伯爵令嬢、前世の記憶を駆使してダイエットする~自立しようと思っているのに気がついたら溺愛されてました~
トモモト ヨシユキ
ファンタジー
デブだからといって婚約破棄された伯爵令嬢エヴァンジェリンは、その直後に前世の記憶を思い出す。
かつてダイエットオタクだった記憶を頼りに伯爵領でダイエット。
ついでに魔法を極めて自立しちゃいます!
師匠の変人魔導師とケンカしたりイチャイチャしたりしながらのスローライフの筈がいろんなゴタゴタに巻き込まれたり。
痩せたからってよりを戻そうとする元婚約者から逃げるために偽装婚約してみたり。
波乱万丈な転生ライフです。
エブリスタにも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる