エレンディア王国記

火燈スズ

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第3章

145.蒼き番人

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 ルテラの指先が、霜の輪の外縁をやさしくなぞった。二重の輪が微かに鳴り、十二の小さな刻み目が順に明滅する。息を合わせるように光は脈を打ち、輪そのものが呼吸を始めたかのように膨らみ、しぼみ、そして――

 光が、跳ねた。

 白い息が一度に胸から抜け落ちたような感覚。足場が、重さの置き場所を失う。視界は白から蒼へ、蒼から琥珀へ、そして色の混じらない光そのものへ。

 下一瞬で、世界は変わった。

 そこは洞窟ではなかった。岩も土も、湿った空気もない。滑らかすぎる壁面は石でも金属でもなく、磨かれた氷のように冷たいのに、触れると手のひらに薄いぬくもりが移る。壁の内側には光の糸が縦横に走り、蜘蛛の巣のようでありながら幾何の図のようにも見えた。糸は時折、かすかな音階で鳴る。高く、低く、まるで見えない大きな歯車が遠くで回り、空気そのものが歌っているかのようだ。足元には石がない。だが、踏めばたしかに硬い“何か”がそこにあり、歩むたびに靴底の下に光の波紋が広がる。

「……ここは……」ルテラが小さく息を呑む。

『時の扉の内側、であろう。古の工が残した道だ。肩のティグノーが低くうなった。声はいつものように重いが、その重みが吸い込まれず、空間に薄く層になって漂う。

 前方に、淡い光で形作られた廊が伸びていた。廊は真っ直ぐではない。一定の幅を保ちながら、見えない柱の間を幾重にも曲がり、時おり橋のように宙を渡る。廊の脇には底の知れない蒼がある。覗き込むと星のような点がゆっくり上下に動き、目を凝らすとそれは星ではなく、光の粒が織りなす文字のようにも見えた。

「リア様、進まれますか」ヒナが問う。両手剣は抜かない。刃はこの光の道ではよく滑りそうで、彼女は柄を握り直すたびに刃の角度を確かめている。

「行こう。」リアは肩の炎を静かに押さえるように息を整え、剣を半ば抜きにして光の廊へと足を踏み入れた。

 最初の角を曲がったとき、空気が変わった。

 湿った獣の匂い。鉄と土と、古い血の匂い。光の廊の中央に、影が凝り固まっている。凝りは膨らみ、角を生やし、息を吸う。息は白く、蒼ではない、土の気配を持つ白だ。影は形をつくり、二本の脚に重みをのせ、手には槌――いや、腕そのものが槌だ。額から突き出た角は群青に光り、刃のような縁で光そのものを削り取っている。

「蒼角獣グラウノス……!」ルテラが呻く。

「古い伝承書に出てくる、迷宮の番獣……!」

 番獣は吼えた。吼え声は廊の壁に触れ、震え、反響が二重三重になって戻ってくる。反響が戻るたび、獣の筋肉が厚みを増した。リアは剣を完全に抜き、刃に薄く熱を通す。炎を呼べば、この廊が焼ける。熱だけで刃を乾かす程度に留める。

「ヒナ、右手へ回って視界を切って。ルテラは下半身を。――角は私が引き受ける」

「承知しました」

「了解いたしました!」

 番獣が一歩踏み出す。地がないのに足音が響く。接地の感覚が、光の道に重さを刻みつける。次の瞬間、蒼角が斜めに振り下ろされた。リアはその直線から半歩外へずれ、刃の平で角の腹を撫でて軌道を流す。角は廊の縁に触れ、光の糸が千切れかけた。空間にひびが走る――見えないが、音で分かる。リアは胸の奥で炎を抑え、刃の重みを引いて、角の重さを“落とす”。蒼角が肩を下げる。その肩へ、ルテラの両手剣が風の音をまとって落ちた。刃は深くは入らないが、筋の束をいくつか断ち切り、膝が沈む。

 ヒナが右から踏み込み、柄頭で番獣の顎を上げさせる。喉が露出する。だが、蒼角がもう一方の腕を槌のように振り、ヒナの胴へ圧をかけた。ヒナは両手剣の幅で圧力を分散させて受け、足首で地のない地を掴みながら滑らせる。顎が半分落ちた隙に、リアの剣先が喉の柔らかい部位をかすめる。熱が、そこだけ鋭く刺さる。番獣が吼え、後ずさった。ひと息。リアは踏み込まず、熱を押さえた。追いすぎれば、廊が裂ける。

 一度目の一太刀。二度目の組み打ち。三度目の押し合い――そして四度目、番獣が角を左に振りながら右足を出す癖を掴んだところで、ヒナが腰を斜めに切り、ルテラが腿の腱を断ち、リアが喉の奥へ刃を“置いた”。熱がそこだけ鋭く白く燃え、番獣の影は崩れて光の粒となる。粒はふわりと浮かび、壁の糸に吸い込まれて消えた。

「……息が、重い」ルテラが胸に手を当てる。

「ここは、力の置き方を間違えると、自分が削れていく感覚がします」

『然り。ここは外の理の上に、もうひとつ薄い理がかぶさっておる。立つだけで少し、歩くたびに少し、支払っておるのだ』ティグノーの瞳が細くなる。

『急くな。削る前に、息で補え』
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