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第3章
146.黒蛇と騎士
しおりを挟む廊は先へ続く。二つ目の角を曲がると、さっきの獣の匂いは消え、代わりに冷たい硝子の匂いが満ちた。足元の光が少し暗くなり、前方に黒い帯が横たわる。帯は動く。蛇だ。だが、ただの蛇ではない。鱗は黒い鏡のようで、映るものを逆さまにする。頭は細長く、眼孔は深い緑。舌を出すたび、空気から色を盗むように、廊の光が少しずつ薄くなる。
「黒鏡蛇ナーセル……!」ヒナが低く吐く。
「光を食う蛇……」
蛇は音を立てない。にもかかわらず、耳の奥でかすれた笛の音がする。笛は音階をおかしくし、足の置き場所をずらす。ルテラの踏み込む角度が半度ずれ、リアの剣の待ちが早まる。蛇はそのわずかな狂いを正確に食う。牙が空気に触れるだけで、そこにあった光が欠けて見える。噛まれれば、肌から色が消えるだろう。色が消えるということは、外界との境が消えるということだ。境が消えれば、ここでは落ちる。
「音を断ちます」ヒナが目を細め、柄を両手で握って地へ置いた。
刃は鳴らない。だが、彼女の足の裏で踏む間が、笛の音の隙間を埋めていく。ルテラもそれに合わせ、呼吸を浅く速くから、少し深く遅くへ変えた。リアは剣を半身にして持ち、刃先の熱をさらに薄くし、鏡の鱗に貼る。熱が鱗の表面をほんの僅か柔らかくし、その瞬間にルテラの剣が腹を掠める。蛇は身体を波打たせて躱し、尾でヒナの膝を薙ぐ。
ヒナが半歩落ちかけるのを、リアが足の甲で支える。蛇の頭が上がり、顎が開く。喉の奥には光のない穴がある。そこにリアは刃を先に置いた。刃は喉の縁に触れるだけ。だが、熱が内へ入る。入れすぎない。穴の縁だけを温め、柔らかくする。そこへヒナの柄頭が喉の上から落ちた。鏡の鱗が喉の両側で少し砕け、ルテラの剣が腹から尾へ斜めに滑る。蛇の体内の光が一瞬戻り、次の瞬間、蛇は自らの影に溶けて消えた。
汗が、額から顎へ落ちる。光の道に落ちる汗の雫は、波紋にならず、細い文字のように伸びて消えた。
三つ目の壁は、風の匂いだった。だが、外の風ではない。切り出された刃のような風。前方の廊が広くなり、宙に一体の影が浮かぶ。翼ではない。風に刻印をまとった鎧。それは自らの周囲に薄い渦をいくつも回し、風の刃を飾りとして携え、刃の端には小さな符が浮かんでは消える。
「斬嵐騎士ラズグレイン……!」リアが呟く。
「風の守人のひとり……」
鎧がわずかに傾き、右の渦が濃くなる。その瞬間、薄い刃が五枚、一度に走った。目に見えるものも、見えないものも一緒に。リアは横へ転じ、ヒナは刃を縦にして受け、ルテラは身体を落として薄い刃を背で躱す。躱した先に二枚目の刃。風の軌道は二重に重なり、最初の刃を避けた者こそが二枚目の刃の道に入る。
「ヒナ、受けるな。風は受けた面をなぞる!」
「了解しました!」
リアは刃を鞘に半ば戻し、風の刃を刃で受けずに、柄で散らす。柄で風の流れを乱し、小さく渦を作る。ヒナは両手剣の幅を利用して、刃を薄くずらす。
風は面を求めるが、面が斜めにずれるたびに自分の道を見失う。ルテラは風の合間――何もないと思われるそこへ、そのまま踏み込んだ。鎧は見下ろすように彼女を迎え、渦の一つを彼女の足首に絡めようとした。
だが、彼女は自分の重心をわずかに前に置き、足首ではなく膝で重みを“支え直した。渦は掴む場所を失い、そのわずかな瞬間――リアの刃が鎧の継ぎ目へ入った。熱はまだ薄い。けれど、継ぎ目は熱に敏い。ヒナの刃が斜めから胸を押し、ルテラの刃が腰の紋を削ぐ。鎧の渦が一つ、二つ、弾け、最後の風の刃は自らの生み主の胸に逆戻りした。
風の騎士は、静かに崩れた。甲冑の中身は空で、ただ刻印の残り香だけが、道にしばらく漂った。
『……よくやった。だが、ここからが肝要ぞ』ティグノーの尾が、リアの肩で一度だけ鳴った。
『風の主の匂いが降りておる』
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