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第3章
161.罠
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――追う。南へ。
その決意は合図より速く、身体の奥で先に火を噴いていた。
天幕の列を抜けると、風が音を変えた。布と木杭が刻む乾いた掠れは遠のき、砂と草だけが擦れ合う低い鳴動に置き換わる。昼の熱を逃しきれない地面はまだ生ぬるいのに、頬をなでる風は妙に冷たく、肺の底へ針のように刺さる。走り出して数十息、誰も言葉を継がない。息をやり取りするだけで精一杯なのではない。噛みしめるべき沈黙というものが、世の中にはある。
甘い匂いが、風に絡んで戻ってくる。花の蜜を煮詰めたような、舌の奥に粘りつく甘香。だが、その底にかすかな鉄の味が混じるのを、リアは逃さなかった。
(……やはりだ。兵舎の見張り台で嗅いだ匂いと同じ。眠気、ぼやけ、判断の遅れ。あれで柵を抜け、兵に紛れて、夜明け前の薄闇を南へ――)
「足跡、南へ続いています!」
ヒナが草むらを裂いて前に躍り出る。彼女の靴が触れた一枚の葉の上で、露が細い筋を描いて滑り落ちた。折れた茎、押しつぶされた雀麦、深い踵の窪みと、前のめりに伸びた靴先の跡。ヒナはそれを指でなぞり、呼吸のリズムを崩さないまま走りに戻った。
「歩幅が一定……速いけど、焦ってはいません。誘っています、私たちを」
「誘いに乗るしか、今はねえ」
アレスが低く吐き、矢筒の重みを背で整える。
「逃げの足じゃない。獲物が逃げるんじゃなく、狩人が距離を計ってる足取りだ」
リアは頷き、肩の上の重みを意識する。ティグノーが喉の奥で短く唸り、銀の毛並みを逆立てた。神獣の勘は人より古い。風の筋、土の湿り、遠いものの音――彼はそれらの微かな差異を、獣の言語で瞬時に統合する。そして今、その全てが「先に獲物がいる」と叫んでいるのだ。
草原は、何もないからこそ危うい。隠れるものがない代わり、隠すものもない。地形の声はむしろ露わになる。南へ傾く緩い起伏が波打ち、草の海にさざめく模様を作る。リアは足を運びながら、視線の端でそのさざめきを追った。風が右から左へ。二つ先の起伏で渦を巻く。渦の中心に、草の流れとは逆向きの細い筋が一筋。走る者が作る、草の乱れ。その乱れの先、陽に白く乾いた石が点々と覗き始める。
「石材が出てきた……自然の露頭じゃない」
ルテラが息を整えながら囁いた。彼女は弓を左に寄せ、右手で蔦を払う。
「切り出しの跡。縁が直角です。古い建築物の……」
「遺跡だな」
アレスの声が硬くなる。「地図に載ってる覚えはねえ」
「載っていない遺跡ほど、よく隠されていて、よく使われてきたわ」
シャリスが前髪を耳にかけ、草を縫う足を緩めない。
「古い祈祷所、廃寺院、捨てられた衛兵詰所。記録から落ちたものは、人の記憶からも滑り落ちていく……そして、闇はそういう穴を好む」
リアは呼気を一つ長く吐き、頭の中で配置を描いた。起伏の背が三つ、風向は南東から。右に浅い窪地、左に低木帯。窪地は吹き溜まりになる。甘香は重く、低く流れる。ならば渦の芯は窪地のさらに先。そこが「匂いの吐出口」――つまり、あいつが香を焚いた場所。
「布陣を変える。アレス、右の低木帯に沿って半弧で先行。矢の届く距離を保て。ルテラは左、窪地の縁。伏せられる場所を拾いながらゆっくり。ヒナは俺のすぐ後ろ、足跡から目を切るな。シャリスは中央、俺の左半身の後ろ。ティグノー、目で追え」
合図は要らなかった。皆の足が微妙に散り、同じ目標へ向かう四本の筋になって伸びていく。その伸びが重なって、やがて一枚の網に変わる。
その決意は合図より速く、身体の奥で先に火を噴いていた。
天幕の列を抜けると、風が音を変えた。布と木杭が刻む乾いた掠れは遠のき、砂と草だけが擦れ合う低い鳴動に置き換わる。昼の熱を逃しきれない地面はまだ生ぬるいのに、頬をなでる風は妙に冷たく、肺の底へ針のように刺さる。走り出して数十息、誰も言葉を継がない。息をやり取りするだけで精一杯なのではない。噛みしめるべき沈黙というものが、世の中にはある。
甘い匂いが、風に絡んで戻ってくる。花の蜜を煮詰めたような、舌の奥に粘りつく甘香。だが、その底にかすかな鉄の味が混じるのを、リアは逃さなかった。
(……やはりだ。兵舎の見張り台で嗅いだ匂いと同じ。眠気、ぼやけ、判断の遅れ。あれで柵を抜け、兵に紛れて、夜明け前の薄闇を南へ――)
「足跡、南へ続いています!」
ヒナが草むらを裂いて前に躍り出る。彼女の靴が触れた一枚の葉の上で、露が細い筋を描いて滑り落ちた。折れた茎、押しつぶされた雀麦、深い踵の窪みと、前のめりに伸びた靴先の跡。ヒナはそれを指でなぞり、呼吸のリズムを崩さないまま走りに戻った。
「歩幅が一定……速いけど、焦ってはいません。誘っています、私たちを」
「誘いに乗るしか、今はねえ」
アレスが低く吐き、矢筒の重みを背で整える。
「逃げの足じゃない。獲物が逃げるんじゃなく、狩人が距離を計ってる足取りだ」
リアは頷き、肩の上の重みを意識する。ティグノーが喉の奥で短く唸り、銀の毛並みを逆立てた。神獣の勘は人より古い。風の筋、土の湿り、遠いものの音――彼はそれらの微かな差異を、獣の言語で瞬時に統合する。そして今、その全てが「先に獲物がいる」と叫んでいるのだ。
草原は、何もないからこそ危うい。隠れるものがない代わり、隠すものもない。地形の声はむしろ露わになる。南へ傾く緩い起伏が波打ち、草の海にさざめく模様を作る。リアは足を運びながら、視線の端でそのさざめきを追った。風が右から左へ。二つ先の起伏で渦を巻く。渦の中心に、草の流れとは逆向きの細い筋が一筋。走る者が作る、草の乱れ。その乱れの先、陽に白く乾いた石が点々と覗き始める。
「石材が出てきた……自然の露頭じゃない」
ルテラが息を整えながら囁いた。彼女は弓を左に寄せ、右手で蔦を払う。
「切り出しの跡。縁が直角です。古い建築物の……」
「遺跡だな」
アレスの声が硬くなる。「地図に載ってる覚えはねえ」
「載っていない遺跡ほど、よく隠されていて、よく使われてきたわ」
シャリスが前髪を耳にかけ、草を縫う足を緩めない。
「古い祈祷所、廃寺院、捨てられた衛兵詰所。記録から落ちたものは、人の記憶からも滑り落ちていく……そして、闇はそういう穴を好む」
リアは呼気を一つ長く吐き、頭の中で配置を描いた。起伏の背が三つ、風向は南東から。右に浅い窪地、左に低木帯。窪地は吹き溜まりになる。甘香は重く、低く流れる。ならば渦の芯は窪地のさらに先。そこが「匂いの吐出口」――つまり、あいつが香を焚いた場所。
「布陣を変える。アレス、右の低木帯に沿って半弧で先行。矢の届く距離を保て。ルテラは左、窪地の縁。伏せられる場所を拾いながらゆっくり。ヒナは俺のすぐ後ろ、足跡から目を切るな。シャリスは中央、俺の左半身の後ろ。ティグノー、目で追え」
合図は要らなかった。皆の足が微妙に散り、同じ目標へ向かう四本の筋になって伸びていく。その伸びが重なって、やがて一枚の網に変わる。
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