エレンディア王国記

火燈スズ

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第3章

164.刹那

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 風が変わった。

 月の薄雲が割れ、光がひと筋、台座の角を白く照らす。その白に、細い煙が絡む。甘香。濃度が上がった。誰かが、いや、彼が、火を足した。

「ヒナ」

「はい」

「風下に入るな。アレス、右から回り込むと風を拾う。二歩分、下げろ。ルテラ、左の柱の影に針の風がある。矢羽根を濡らしておけ」

 シャリスにだけ、リアは振り返らない。振り返らずに、言う。

「シャリス。ここから先、俺が倒れても、声を出すな。声は線だ。線は刃になる」

 シャリスは、短く息を飲んだだけで頷いた。頷きの音すら、飲み込む。彼女の喉の筋に、微かな影が走る。恐怖はある。だが彼女は、恐怖より大きなものに従うことを知っている。

 ヴィスが、ゆっくりと手を上げる。

 掌。指。爪。ささくれのない皮膚。副官として書類を捌いていた手。だが、その指が作る空気の継ぎ目は、書記官のものではない。殴る、掴む、締める、折る――そういう動詞を、指の節が記憶している。

「――お前たちの足並みは、美しい」ヴィスが言う。

「その美しさを、壊したくなる」

「お前こそ、よく喋る」

 リアは剣を抜く。鞘鳴りは短く、乾いていた。

「言葉を続ける気はない。俺は問うた。答えないなら、刃で語れ」

「語るとも」

 ヴィスの口が笑う。目は笑わない。

「だが、刃の前に、礼を尽くそう。長く仮面をつけてきた。顔を洗うには、風の強い夜がいい」

 彼は片手でフードをつかみ、軽く引いた。布が滑り、闇が剥がれ、夜気が彼の髪に触れる。月光が額を白く撫で、その下の瞳に、獰猛な光が灯る。獲物を前にした獣のそれ。いや――獲物を選び、喉元の高さまで計算し尽くした猟師の、目。

 ティグノーが吠えた。短く、鋭く。石がその声をもう一度吠え返す。
 アレスの弦が鳴り、ルテラの矢羽根が濡れた光を弾いた。ヒナの足が石を撫で、シャリスの足首の影が一段深くなる。リアは半歩だけ前へ出る。半歩。だが、その半歩に、これまでの全てが乗っていた。王都での宣誓、カルネリスの闇、ケルナの血、神殿の獣。全てが足の裏に沈み、全てが刃の先へと押し出される。

 広間の空気は凍り、月光は刃の側に加担する。風は甘く、石は固く、影は長い。
 ここまでが舞台。ここからが、物語だ。

 リアは、剣を構えた。

 ヴィスは、笑った。

 ――仮面が、剥がれる前の、最後の間。

(ここで切る。次の一息で、何かが決定的に変わる)

 その決定的な一息を、世界が一斉に吸い込んだ。
 雲の薄皮が破れ、月がひときわ明るくなる。台座の角に、白い筋が走る。遠い滴の音が止み、代わりに、別の滴が落ちる。誰かの掌から滑った汗か、香の雫か。

 ティグノーの爪が石を掻いた。乾いた音。
 アレスの足の裏が、石の粉を噛んだ。さらに乾いた音。
 ヒナの呼吸が半拍ずれ、すぐに戻る。
 ルテラの弓の腹が、月の冷たさで僅かに縮む。
 シャリスの心臓が、二度速く打ち、三度目で整う。

 リアは、その全てを聞いた。
 ヴィスもまた、同じものを聞いた。

 視線がぶつかる。
 狙いが重なる。
 刃と言葉の順序が、入れ替わる。

 ――そして、対峙が完成した。

 リアは口を開きかけ、閉じた。言葉は武器だが、今は余分な刃を床に落とすわけにはいかない。ヴィスもまた、言葉を惜しむ。惜しむことで、互いに与えるものの重さを知っている。やがて、最初の動きは、最初の言葉よりも先に来る。

 広間の隅、石と石の合わせ目から、夜の冷気がひと筋吹き上がる。その冷気が、二人の間を通り抜けた。
 甘香が、風に割られる。
 月光が、刃の背に沿って走る。

 アレスが、左足をわずかに引いた。
 ヒナが、手首をひとつ冷やした。
 ルテラが、弦を音の出ない角度に傾けた。
 シャリスが、喉を閉じて声を喰った。
 ティグノーが、獣の牙を静かに見せた。

 そしてヴィスが、指を一本、折った。
 その指が作る影が、月輪の彫りにかかる。
 月輪は欠け、影は満ちる。

 リアは剣先で、その影を払った。石床に、影の粉が散った気がした。
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