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第3章
163.副官
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声がした。
闇の布がひとつ、石の縁から滑り降りるように現れた。フードの下で光る瞳。副官ヴィス。いや、ここにいるのは、城の中庭で報告書を抱えていた従順な影ではない。背筋は弓のようにしなり、立ち姿が音を持っている。彼の立つ場所だけ、風が二度曲がっているように見えた。
アレスは二歩で前へ出、弓を半張りにする。ルテラは左の陰から、番えた矢の羽根を指で撫で、息を殺した。ヒナはリアの肩越しに視線を送る。肩の上のティグノーは爪先を石に立て、音なく重心を下げた。シャリスは震える手を後ろで組み、あえて足を動かさないことを選んでいた。
「逃亡じゃなかったのね」シャリスが言葉を搾り出す。
「私たちを、ここへ誘った」ヴィスは口の端をわずかに吊り上げた。
「逃げるために走る者の音は軽い。追わせるために走る者の足は、地を撫でる。お前たちは賢い。よく追いついた」
「褒め言葉は死に際まで取っておけ」アレスが唸る。
「お前の匂いはここまで届いてる。兵を眠らせた香だ。残った粉も、枝の角度も――全部、仕事が雑だ」
「雑で構わぬ」ヴィスは肩をすくめた。
「賢い犬には、骨を投げればいい」
ヒナの指がわずかに動いた。合図。彼女の視線が柱と柱の間の闇を撫でる。そこに、石の破片を集めた不自然な山が二つ。山の裏に紐。紐の先に薄い刃。踏めば跳ねる。ヒナは目だけでルテラにそれを渡し、ルテラは矢先をほんの少し下げる。アレスの狙いは変わらない。アレスは最初から、目に見えるものではなく、目に見えない空気の「穴」を狙っていた。
リアは一歩前へ出る。石が鳴る。小さな音。だが、広間はその音を重く拾って、四方へ押し広げた。
「……ヴィス。その名で呼ぶのは、これで最後にする。俺はお前に問う。ここまで茶番を続けた理由を語れ。何を……誰を、試していた」
ヴィスは答えない。石床の上で足を半歩、開いただけだ。だが、その半歩が、言葉よりも多くのものを語る。彼はここで待っていた。時間を選び、場所を選び、風の向きさえ選んでいた。台座の位置、柱の残り方、月光の落ちる角度。全てが考えられている。逃亡者の足ではない。舞台を整えた者の立ち位置。
(ここで、やる気か)
リアの喉の奥に温い鉄が満ちる。恐怖ではない。体が「戦いの順序」を思い出している。呼吸の数、視線の巡らせ方、足の指で掴む石の感触。前世の教室で黒板に描いた図形のように、体の中に配置図が浮かぶ。前衛二、中衛一、後衛二。だが、相手は一人でも、一ではない。
闇の布がひとつ、石の縁から滑り降りるように現れた。フードの下で光る瞳。副官ヴィス。いや、ここにいるのは、城の中庭で報告書を抱えていた従順な影ではない。背筋は弓のようにしなり、立ち姿が音を持っている。彼の立つ場所だけ、風が二度曲がっているように見えた。
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リアは一歩前へ出る。石が鳴る。小さな音。だが、広間はその音を重く拾って、四方へ押し広げた。
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