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(なんで、お前が相手だと、こんなに我を忘れちまうのかな……)
八木亨流は、隣で静かな寝息を立てる中津碧の長い睫毛を鑑賞しながら、取り留めもなく思考を巡らせていた。碧との情事は、単にセックスの快楽というレベルではなく、一度死んで生まれ変わるような壮絶な感覚を亨流にもたらす。言ってしまえば、身体の相性が良いというだけのことなのだろうが、そんな言葉で片付けたくない気分があった。
(……この、美貌のせいかな)
子どもの頃から美少年の誉れ高かった碧は、二十五になった今でも、浮世離れした美貌の持ち主だ。つい、天女だとか天使だとか、人ならぬ上位の存在を連想してしまう。その禁欲的で清潔な白い肌が亨流の愛撫に紅潮し蕩けていく様を見ていると、この手で堕天使を作り出しているようで、ゾクゾクするような背徳感を覚えずにはいられない。
(あとはやっぱり、この場所のせい――か?)
ベッドの中から天井に視線を巡らせ、ため息をつく。
(いつ来ても、芝居掛かった部屋だよな)
二人が身体を重ね合うのは、決まって碧の部屋だった。どこをどう見ても、二十五の若者の部屋らしくない、典雅な部屋。
寄木細工の床にウォールナットの腰壁、キャストガラスを嵌め込んだステンドグラスの窓にアールヌーボー様式の家具は、全て本物のアンティークだ。現代のものといえば、机上のスマホとペットボトル、無造作に脱ぎ捨てられた二人のリーバイスぐらい。碧の住まいは、お屋敷だとか館だとかの呼称が相応しい、年代物の洋館なのだった。
中津家所有のこの邸宅は、大正時代に、所謂お雇い外人が設計したものだ。ヨットの舳先のように葉山湾に突き出た三角形の崖の上に建っており、現在はホテルとして使用されている。碧は、この、ホテル・エトレーヴ(フランス語で舳先の意)のオーナー社長なのだった。
碧の私室があるのは、広大な屋敷の中でも奥まった一角にあるプライベートエリアだが、ホテルエリアと同じように当時の家具やインテリアがそのまま使用されている。呼び鈴を鳴らせば、今にも、黒い制服を着た執事やメイドが、磨かれた銀の盆を持って現れそうだ。亨流のように、伝統や権威に反感を覚えがちな性質《たち》の男でも、ここに居ると、戦前の華族社会にでも紛れ込んだような気分になってしまう。古き良き時代の、道徳と退廃が混ざり合った空間。
(道徳も退廃も、碧にはよく似合うが――)
視線を戻し、美しい寝顔を再び鑑賞する。
どこか懐かしい面影のある、この美貌。碧は、亨流の親友、中津博昭《なかつひろあき》の忘れ形見だった。死んだ親友の息子に手を出すなど、正気の沙汰とは思えないが、後悔はしていない。
「……起きてたんですか……?」
いつのまにか目覚めたらしい碧のかすれ声がして、亨流は我に返った。
「……ん? ああ、……飲むか?」
ベッド脇の椅子に置かれていたミネラルウォーターをとって渡してやる。碧は軽く喉を抑えながら、上体を起こした。
「ありがとうございます」
掠れた声を吐いた桜色の唇がペットボトルに触れ、喉がコクコクと音を立てる。
(ちょっと喘がせ過ぎたかな)
苦笑しながら、碧の姿を鑑賞する。白い胸に散らされた紅い愛撫の痕が、水を飲むのにつれて揺れていた。柔らかそうな薄茶の髪が首にかかって、細身が一層華奢に見える。中性的な顔と身体の持ち主である碧だが、これでどうして、性格的には男らしいところもあり、ときに強情ですらあるのも、亨流には好ましい。
ペットボトルを空にした碧が、チラッと時計に視線をやった。つられて見ると、午後四時五十分。午後も遅いが、五月のことで、窓の外はまだ明るい。
「ライブの前に、何か召し上がります?」
「そうだな。軽く腹ごしらえ、しとくか」
亨流は、ニューヨークを本拠に活動する、テナーサックス奏者だった。一般での知名度は高くないが、ジャズ愛好家の間では相当の有名人だ。何度かグラミー賞の候補にもなったぐらいで、むしろ海外での方が名を知られているかもしれない。住居もニューヨークだが、年に数度の帰国時には、必ずエトレーヴでライブをすることにしていた。今夜のセッションは二部制で、十七時半からと、二十時からの予定だ。
「ちょっと待っていてください」
碧は厨房へ電話をかけ、軽食の手配をすると、シャツだけを羽織ってするりとベッドを出、バスルームに消えた。微かに漏れるシャワーの音を聞いているうちに、滑らかな肌を湯が流れる像が脳裏に浮かび、亨流の不埒な欲望が再び頭を擡げてくる。
(……久しぶりだからか?)
不惑も遠くない自分が、碧の肉体の瑞々しさに逆らえないことに苦笑する。ここに来るといつも、飢えているかのように碧を貪ってしまう。さっきまで、腕の中で快楽の海に沈んでいた碧の艶めかしさを思い出し、口元が緩んだ。愛撫の果てに、意識を手放しながら、亨流自身をキュウキュウと締め付けてきた、健気な碧。
亨流は小さなため息をついた。
(身体は、素直なんだがな――……)
それなのに亨流は、碧を手に入れられた、と感じたことがない。何度抱いても、心はどこか遠い処にあるような気がしてならなかった。
(お前、誰を想って俺に抱かれてる……?)
幾度も胸に湧き上がってきた、その問い。けれど、一度も口にしたことはない。なにしろ年に数回しか顔を合わせない仲なのだ。快感を分け合えれば、それで十分ではないか。身体の相性は最高なのだから、短い逢瀬を楽しめばいい。
(そう、今を楽しまなきゃな)
亨流はベッドから出て、バスルームの戸を開けた。驚いた顔で、碧が振り向く。亨流は微笑を浮かべ、手を伸ばした。窓から差し込む午後の日差しがモザイクタイルの上に落ち、水滴と湯気の中でキラキラとダンスを踊っている。
八木亨流は、隣で静かな寝息を立てる中津碧の長い睫毛を鑑賞しながら、取り留めもなく思考を巡らせていた。碧との情事は、単にセックスの快楽というレベルではなく、一度死んで生まれ変わるような壮絶な感覚を亨流にもたらす。言ってしまえば、身体の相性が良いというだけのことなのだろうが、そんな言葉で片付けたくない気分があった。
(……この、美貌のせいかな)
子どもの頃から美少年の誉れ高かった碧は、二十五になった今でも、浮世離れした美貌の持ち主だ。つい、天女だとか天使だとか、人ならぬ上位の存在を連想してしまう。その禁欲的で清潔な白い肌が亨流の愛撫に紅潮し蕩けていく様を見ていると、この手で堕天使を作り出しているようで、ゾクゾクするような背徳感を覚えずにはいられない。
(あとはやっぱり、この場所のせい――か?)
ベッドの中から天井に視線を巡らせ、ため息をつく。
(いつ来ても、芝居掛かった部屋だよな)
二人が身体を重ね合うのは、決まって碧の部屋だった。どこをどう見ても、二十五の若者の部屋らしくない、典雅な部屋。
寄木細工の床にウォールナットの腰壁、キャストガラスを嵌め込んだステンドグラスの窓にアールヌーボー様式の家具は、全て本物のアンティークだ。現代のものといえば、机上のスマホとペットボトル、無造作に脱ぎ捨てられた二人のリーバイスぐらい。碧の住まいは、お屋敷だとか館だとかの呼称が相応しい、年代物の洋館なのだった。
中津家所有のこの邸宅は、大正時代に、所謂お雇い外人が設計したものだ。ヨットの舳先のように葉山湾に突き出た三角形の崖の上に建っており、現在はホテルとして使用されている。碧は、この、ホテル・エトレーヴ(フランス語で舳先の意)のオーナー社長なのだった。
碧の私室があるのは、広大な屋敷の中でも奥まった一角にあるプライベートエリアだが、ホテルエリアと同じように当時の家具やインテリアがそのまま使用されている。呼び鈴を鳴らせば、今にも、黒い制服を着た執事やメイドが、磨かれた銀の盆を持って現れそうだ。亨流のように、伝統や権威に反感を覚えがちな性質《たち》の男でも、ここに居ると、戦前の華族社会にでも紛れ込んだような気分になってしまう。古き良き時代の、道徳と退廃が混ざり合った空間。
(道徳も退廃も、碧にはよく似合うが――)
視線を戻し、美しい寝顔を再び鑑賞する。
どこか懐かしい面影のある、この美貌。碧は、亨流の親友、中津博昭《なかつひろあき》の忘れ形見だった。死んだ親友の息子に手を出すなど、正気の沙汰とは思えないが、後悔はしていない。
「……起きてたんですか……?」
いつのまにか目覚めたらしい碧のかすれ声がして、亨流は我に返った。
「……ん? ああ、……飲むか?」
ベッド脇の椅子に置かれていたミネラルウォーターをとって渡してやる。碧は軽く喉を抑えながら、上体を起こした。
「ありがとうございます」
掠れた声を吐いた桜色の唇がペットボトルに触れ、喉がコクコクと音を立てる。
(ちょっと喘がせ過ぎたかな)
苦笑しながら、碧の姿を鑑賞する。白い胸に散らされた紅い愛撫の痕が、水を飲むのにつれて揺れていた。柔らかそうな薄茶の髪が首にかかって、細身が一層華奢に見える。中性的な顔と身体の持ち主である碧だが、これでどうして、性格的には男らしいところもあり、ときに強情ですらあるのも、亨流には好ましい。
ペットボトルを空にした碧が、チラッと時計に視線をやった。つられて見ると、午後四時五十分。午後も遅いが、五月のことで、窓の外はまだ明るい。
「ライブの前に、何か召し上がります?」
「そうだな。軽く腹ごしらえ、しとくか」
亨流は、ニューヨークを本拠に活動する、テナーサックス奏者だった。一般での知名度は高くないが、ジャズ愛好家の間では相当の有名人だ。何度かグラミー賞の候補にもなったぐらいで、むしろ海外での方が名を知られているかもしれない。住居もニューヨークだが、年に数度の帰国時には、必ずエトレーヴでライブをすることにしていた。今夜のセッションは二部制で、十七時半からと、二十時からの予定だ。
「ちょっと待っていてください」
碧は厨房へ電話をかけ、軽食の手配をすると、シャツだけを羽織ってするりとベッドを出、バスルームに消えた。微かに漏れるシャワーの音を聞いているうちに、滑らかな肌を湯が流れる像が脳裏に浮かび、亨流の不埒な欲望が再び頭を擡げてくる。
(……久しぶりだからか?)
不惑も遠くない自分が、碧の肉体の瑞々しさに逆らえないことに苦笑する。ここに来るといつも、飢えているかのように碧を貪ってしまう。さっきまで、腕の中で快楽の海に沈んでいた碧の艶めかしさを思い出し、口元が緩んだ。愛撫の果てに、意識を手放しながら、亨流自身をキュウキュウと締め付けてきた、健気な碧。
亨流は小さなため息をついた。
(身体は、素直なんだがな――……)
それなのに亨流は、碧を手に入れられた、と感じたことがない。何度抱いても、心はどこか遠い処にあるような気がしてならなかった。
(お前、誰を想って俺に抱かれてる……?)
幾度も胸に湧き上がってきた、その問い。けれど、一度も口にしたことはない。なにしろ年に数回しか顔を合わせない仲なのだ。快感を分け合えれば、それで十分ではないか。身体の相性は最高なのだから、短い逢瀬を楽しめばいい。
(そう、今を楽しまなきゃな)
亨流はベッドから出て、バスルームの戸を開けた。驚いた顔で、碧が振り向く。亨流は微笑を浮かべ、手を伸ばした。窓から差し込む午後の日差しがモザイクタイルの上に落ち、水滴と湯気の中でキラキラとダンスを踊っている。
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